後編
何時の間にか海豚の群れは消え失せて、太郎を乗せた亀は緩やかに巨像の眼を模した巨大な入り口へと入って行った。
神殿内部の列柱が並ぶ巨大な廻廊にも、やはり細密なレリーフが一面に施されており、それはあの巨神が遥かな太古にこの惑星に訪れ、下僕である蛙にも似た魚人がこの神殿の様な巨石建造物を世界の至る処に築き上げて繁栄を謳歌した事や、星形の頭部を持つ異形の種族との戦争、さらには敵対する神々との戦い等が詳細に描かれていた。
不意に亀が泳ぐのを止めて床に着いたので太郎はレリーフから眼を離し、廻廊の先に待ち受ける者共を見て戦慄した。
そこには、神殿を飾る石像やレリーフにモチーフとして再三現れた、あの蛙にも似た魚人達が大きな広間に群れとなって待ち構えていたのだった。
恐怖におののく太郎を前に、魚人達は襲いかかる様子も見せずにただ太郎と亀を遠巻きに見つめているだけだった。
不意に魚人の群れが二つに分かれて、その間から薄絹を纏った美姫が数人の女官を伴って太郎に歩み寄ってきた。
太郎はその姫の美しさに言葉も出ずに見とれているばかりであった。姫はそんな太郎に微笑み掛けながら、亀を助けてくれた礼を述べた。そして、これより始まる主を祀る大祭の宴に是非とも参加して欲しいと太郎の手を取った。姫の艶然とした笑みに魅了された太郎は、そのまま姫に導かれるままに女官や魚人達と共に神殿の更なる奥へと導かれた。
そこは緑色の光に満たされたドーム状の大広間で、太郎達が入ってきた入り口の対局の壁面には神殿の中央に聳えていた巨塔と同じ姿の章魚に似た巨像が彫り込まれており、その周囲を魚人や異形の深海生物が舞うように回遊していた。
そのまま太郎は姫や女官達に導かれるままに、陶然としたまま魚人や深海生物の織り成す舞い踊りに加わった。太郎は彼らと共に舞い、旧き神を讃える歌を歌い、姫や女官達と戯れ、空腹になれば広間に泳ぐ深海生物を取って食べ、いつ果てるとも解らない魔宴に耽る日々を送るのだった。
どれくらいの時がたったのか、ある時太郎は不意に故郷の漁村を懐かしく思いだし、望郷の念に駆られ出した。太郎が姫に暇を告げると、姫は意味有り気に微笑んで太郎の帰郷を認めた。
再び亀に跨がった太郎を見送りに来た姫は、太郎に小さな箱を手渡して故郷に帰ったら開けるようにと告げて太郎と亀を送り出した。
しばらくの間、亀は海中を進んだ後に海面に浮上した。久しぶりの陽光に目が眩んだ太郎が、しばしばと目蓋を開けると、波間の向こうに懐かしい故郷の入り江が見えた。亀はそのまま海岸に寄せると、波打ち際で太郎を下ろした。太郎は亀に礼を言ったが、亀は姫と同じように意味有り気な笑みを返すだけで海に戻る事もせずに、ただそこに佇んでいるばかりだった。
亀の態度に怪訝な物を感じながらも太郎が村へ戻ると村落は跡形も無く、あばら屋があった場所は草むす荒れ地になっていた。
驚いた太郎は自らの生家に駆け戻ったが、こちらも苔むした土台を僅かに残すばかりで、馴染みの家屋はすっかり姿を消してしまっている。
呆然とした太郎が海岸にさ迷い出ると、亀はまだそこで待っていて不愉快な笑みを浮かべたまま太郎に告げた。
「驚いたでしょう。実は神殿と地上では、時間の流れが違っておりましてな。あなた様を神殿に招いてから、恐らく地上では数百年は経っておりましょう」
愕然とした太郎は、亀に問うた。
「では、姫もお前達も全て知っていたのか。帰る所が無いのに何故引き留めなかったのか」
「全てを知ってからの方が、真実を受け入れやすいと思いましてな。それ、お持ちになっている姫からの贈り物、今こそ開ける時ですぞ」
太郎は言われるままに砂浜に膝を付いて、姫から貰った箱を開けた。すると箱の中から大量の煙が噴き出して太郎の顔を包み込んだ。煙を吸い込んだ太郎は咳き込んで砂浜に倒れ付したが、それ以上何も起こらない。ふらふらと起き上がった太郎は、亀に何が起きたかを聞いた。
「箱の中を御覧なさい。そうすれば全て得心が行くでしょう」
箱の中を覗き込むと箱の中には一枚の鏡が入っていて、太郎の顔を映し出していた。その鏡に映る太郎の顔は急速な早さで老け込んでいった。
髪は見る見る白髪に代わって、次々と抜け落ちて行く。顔面にも深い皺が刻まれ出してミイラの様に痩せ衰えて行く様を太郎は呆然として見守った。
その半開きの口からも歯が抜け出し、太郎は完全に老人と化したが、太郎を襲う変化はそれにとどまらない。
まるで爬虫類の鱗の様に顔に縦横に刻まれた皺は、青黒く硬くなって本物の鱗の様になった。歯が抜け落ちた痕からは、新たに鋸か鮫を思わせる鋭い歯が隙間無く生えて来る。
首筋に不意に裂け目が現れて、そのまま鰓状に開いて固定した。更に耳と鼻が腐った様にもげ落ちて、両目の間隔が開いて行く様を見た太郎は思わず自分の両手に視線を落とし、その手にも隙間無く鱗が被われているだけでなく、全ての指の間に水掻きが出来ているのを見た。
それを見て、遂に太郎は悟った。何故、自分に亀の言葉が解ったのか。何故、海の中で息ができたのか。何故、深海の暗闇で海豚の群れが見えたのか……
何故、自分の家族が村から離れてひっそりと暮らしていたのか……
太郎が再び鏡に眼を戻すと、そこには神殿で良く見たあの蛙に似た魚人の顔が写っていた。
だが、太郎には既に恐怖は無かった。太郎には、本来帰るべき処、在るべき場所がはっきりと判ったからであった。
太郎は立ち上がって箱を投げ捨てると、よたよたとした足取りで亀が待つ波打ち際へと歩いていった。本来の姿を取り戻した太郎には、陸上での歩きは覚束無くなっていた。しかし、海中に入れば神殿に戻るのに最早、亀の助けを必要とはしない。
そのまま太郎は再び深淵に潜む神殿に戻り、何時の日か旧き支配者が起き上がり死もまた死するその時が来るまで、再び姫や同類の魚人達と共に主を祀る狂宴に耽りました……とさ。
めでたしめでたし。
いあ! いあ!