前編
むかしむかしある所に、今となっては地図にも記載されていない小さく陰鬱な漁村があった。
そこは他の村や町からも外れた、うらぶれた入り江の奥にひっそりと位置していた。
大抵の日は灰色に彩られた曇天の下に、捻じくれた松が海岸にそって不規則に並び、灰色に淀んだ波打ち際には魚や貝の死骸が打ち上げられたままにされており、ひどく手入れの悪い船や荒れ果てた小屋の様な民家が点在している、稀にそこを訪れる者に一種の言い知れぬ不吉な陰気な印象を抱かせずにはいられない村であった。
その村の外れに浦島太郎と言う男が住んでいた。この男は村の中でもかなり古い方に属する家系の人間で、村人ともあまり付き合いをせずに先祖代々の古い家に一人で住んでおり、自分で食べる魚を釣りに行ったり余った魚を他所に売りに行く以外には、滅多に人前に姿を見せないといった具合で村の中でも世捨て人として通っていた。
ある日、太郎が釣りの為に海岸を訪れると、猿の様な顔をした村の子供達が大きな亀を虐めているのを見つけた。太郎は普段なら村の住人の野蛮な振る舞いに関心を持つことは無かったが、何故かその亀に言い知れぬ関心を抱いた太郎は子供たちの間に強引に割って入った。
その亀は全長が十フィートに達する海亀で、甲羅に付着したフジツボがその齢を想起させた。甲羅の端や鰭には藻や海藻が付着するままになっており、それが淀んだ潮風と相まって一層不快な臭気を放つのだった。
突然割って入った太郎に村の子供達は驚いて太郎から遠ざかったが、驚いたのは亀も同じだったようで、老人の男性器を連想させる萎びた頭部を太郎の方に廻らせた。
その亀と言うよりはまるで皮膚病に罹った醜男の様な顔に太郎は一瞬たじろぎ、子供達がこれを虐めるのも無理は無いと思った。
太郎はこの不気味な亀から離れて釣りへ行こうとも考えたが、やはりこの亀が気になった太郎は遠巻きにしている子供達に小銭を放って、この亀を買い取ると言った。
子供達は餌を放られた猿の群れの様に小銭に飛び付くとそのまま村へ駆け去って行き、海岸には太郎と亀だけが残された。
気まぐれで助けた亀をどうした物かと太郎が思案していると、不意に亀が太郎に一種名状しがたい不吉な皺涸れ声で太郎に語りかけた。
「助けて戴いて感謝します。私は主の命で地上の様子を探りに来たのですが、老体故に最早身体の自由が効きませんでな、高波に攫われてこの岸に打ち上げられたのを原住民に見つかり、後は見ての通り虐待を受けていた次第で御座います。ついては、助けて戴いた御礼に是非とも我等の主を祀る宴に貴方を御招待したい。巫女姫様もきっとお喜びになるでしょう」
亀の申し出に興味を持った太郎は、亀が身動きが取れるように波打ち際まで押してやると、その甲羅にまたがって海中への旅へ出た。
太郎の全身を海水が包み周囲に目が慣れて来ると、灰色の海水の中を魚や章魚や水母が不気味な体を揺らして泳いでいるのが見えたが、亀が更に深く潜るとそれらも見えなくなり、代わって生白い色をしたグロテスクな海豚の群れが亀に沿う様に泳ぐのが見えた。
それから暫くの間、亀は狭隘な海溝の中を沿うように進み、深海の闇の中にはますます数を増やした海豚の群れ以外に見えるものはなかった。
不意に眼前の闇に小さな緑色の燐光が現れ、亀と海豚の群れはその光に吸い寄せられるように向かって行った。近づくにつれてその光は輝きを増して、ついには周囲の海底を照らし出すまでになっていた。
それは海底の深淵に屹立と聳え立つ巨大な神殿であった。
神殿は人の力では到底持ち上げられないであろう巨石を積み上げて築かれており、途方もない高さを持つ幾つもの尖塔が乱立していた。太郎はその神殿の巨大さと不気味さに怯えながらも、それでいてこの巨大建築の威容から目が離せないでいた。
神殿の壁面には、一面に章魚や水母、ヒトデやゴカイ、更には未知の深海生物をモチーフにした巨大なレリーフが刻まれており、それらの目や口の部分がどうやら窓になっているらしく、そこから緑色の光が漏れ出して周囲を照らしているのだった。
しかし、それ以上に太郎の眼を引いたのは中央の最も巨大な塔であった。
その塔全体が一つの巨大な名状しがたい怪物の姿を象っていた。強いて言えば章魚と人間と竜を出鱈目に組み合わせた様な、グロテスクでありながらまるで山の様な偉容を備えていた。太郎はこれがこの神殿に祀られる神であろうと思いながらも、さらにその巨像の細部に目を引き寄せられた。
更にその表面には、魚と蛙とやはり人間を掛け合わせた様な奇妙な石像がこの巨大な神に縋る様に配置されているのが見えた。巨像の章魚に似た巨大な頭部に不規則に並ぶ複数の目を模した窓からは、一際眩い緑の光が発せられていて、自らの姿を不気味に照らし出していた。
その神殿の異様な様は、太郎の眼には正に……絵にも描けないおぞましさ……として映った。