自赤
おれの目と彼女の青い目がかち合うことはなかった。彼女──ミアカはシリンを見て驚いている。
おれが呟いてしまった名はおそらくシリンに聞かれた。けれど、シリンは何も聞いて来ない。他人の心に深く立ち入らない、潜入工作員だった彼の生き方だったのかもしれない。
無力感に苛まれる。おれの言葉が誰にも届かないような気がして。そんなことは決してないはずなのに。
ユウヒを一度殺してから、おれはおかしい。元々おかしい人間ではあったのだろうけど、ここまでおかしな人間だっただろうか。いや、おれは人間じゃない。死神だ。
「ミアカ大尉。お話があって来ました」
すらすらと言うシリンにミアカは慈愛に満ちた笑みを浮かべた。おれはミアカに会うのは初めてだ。けれど、顔があの人に似ているせいで、心が「懐かしい」と思ってしまう。おれの姉さんも、こんな風に笑ったな、とか。そんなことを思ってしまう。
そんな中、頭の中では「どうして」という声が止まなかった。目の前にいる彼女はミアカだ。ミアカ・オウガ。シリンがしっかり説明してくれた。けれど、どうしてか、おれはフィウナ・アーゼンクロイツと認識してしまう。陽の光を通す綺麗な金糸。少しくすんだ青い瞳。その真っ直ぐさ。全部、ぜんぶ、知っている。
通された部屋はやはり屋敷というだけあって、大きかった。給仕を見かけないが、まさか一人暮らしなのだろうか。
「どうぞ、おかけください」
彼女が振り向くと、三つ編みされた髪がひゅん、と動く。救国の英雄似だという顔は、おれの姉にしか見えない。きびきびと動く所作、マナーとして覚えたのであろう節々まで、フィウナを想起させる。柔らかな声も、違うのは髪型くらいなものだ。
シリンがおれのマントを引く。先に座れ、ということだった。たぶん、おれを目上として扱いたいのだろう。シリンは賢いから、それでおれが今のシリンからしてどういう立場の人物なのか、暗黙のうちにミアカに示すのだ。
まあ、背の高いおれはもう座った方がいい。何千年か前のフィウナには感じなかったのに、ミアカとの背丈の差が、おれの心の塞がったはずの傷口をひりひりと引っ掻いていく。
「お茶をお淹れしましょうか? それともコーヒーがよろしいでしょうか」
「……おれたちは、歓談をしに来たわけではない」
想像していたより数段、低い声が出た。これが自分から出たものでなかったら、おれもぞっとしていたであろう。シリンですら怯えるような声はおれの声帯から発せられた。
凍りつく空気がさすがに気まずく、自分が大人気ないような気がしたので、付け加える。
「あなたが飲みたいのなら、淹れてください」
……大人気ないってなんだ。
おれは十五歳で時間が止まった。それから、何にも心を割かないできた。ただ罪人を屠る死神として、正しく存在してきたはずだ。こないだ、ユウヒの首を飛ばすまで、おれは、誰にも運命を操作なんてされなかった。誰にも。誰にも。
ミアカは紅茶を淹れてきた。気の利いたことに、人数分。お茶請けであろうクッキーもある。
ミアカがおれとシリンの向かいのソファに腰掛け、召し上がれ、という。シリンは紅茶を一口飲んだ。
「疑っていたわけではありませんが、毒は入っていません。美味しいですよ」
「シリン少尉」
ミアカが「普通」に振る舞おうとするのを、ミアカが止める。彼女はわかっていた。おれがそんな茶番を望んでいないことを。理由はわかっていないだろうが。
しかし、彼女が澄んだ声で続けたのは、思いもよらない事実だった。
「私はあなたの正体を知っています。死神でしょう? 罪人の命を刈るという」
「え……」
「何故知っているのか、という顔をなさっていますね。おそらく、私はいつか死神に捕らえられるか、殺されるかするのだろうとは思っていました。シリンさん、あなたは覚えておいでですか? 東暁大佐の最期を」
がたっと椅子を揺らしたのは、シリンではなく、おれだった。わかってしまったのだ。ユウヒがミアカをわざわざフルネームで呼んで、シリンを任務にあてがった理由が。「レアケース」という言葉の意味が。
ミアカは朗々と供述した。
「ほぼほぼ自殺寸前の大佐。戦争も終わる頃、あの人を失いたいと、軍が思うでしょうか。シリンさんはあのとき、記憶を失っておいでだったのですよね。だから警戒しなかった。監視カメラの存在を」
「ぁ……」
ここまで言われてしまえば、シリンも気づいただろう。シリンが最初の任務で犯した大きなミス。ミアカがレアケースたり得る理由。彼女が罪の他に抱えているもの。
自殺寸前の高官に、監視がつかないわけがない。シリンが最初の任務で殺した大佐は自分では大したものではないなどと言っていたようだが、軍にとっては士気を支える柱となっていた。あの人がいるから頑張ろうとか、あの人のためならばこの命、惜しくはないだとか、そういうカリスマだ。
戦争終結直前だったとはいえ、そんなカリスマを持った人物が自害したとなれば、多くの兵士から士気が失われてしまう。今まで何のために戦ってきたのか、己の裡に問うて、後追いする者だって出ただろう。
そうならず、戦争が終結したのは、誰かが情報をどこかでいじったからだ。
「見ていたんですか、全部」
「ええ。兵士の体調管理は救護班長の務めです。体調管理とは、必要な栄養を摂らせること、怪我や病気に対処することの他に、精神管理もあります。私が救護班に回されたのは、私が女性だったから、医療に精通していたから、だけではありません。兵士の士気を保つ人物を前線だけに置くのは危険ですから、私は後衛に置かれたのです」
ミアカの過去に何があったかは知らないが、ミアカほどのカリスマを持った人物を前線に出さなかったのは、戦場で士気を上げるカリスマの他に、そのカリスマでもって、戦場から帰った者を癒す存在が必要だったからだ。
「私は大佐の監視を命じられました。大佐の部屋には監視カメラが置かれたのです。シリンさん、あなたを二重スパイに仕立て上げるために、大佐はかなりの無理を通したのですよ。だから、あなたの二重スパイとしての活動が始まったら、あなたの私室と大佐の私室に監視カメラを設置する予定だったのです。それが色々あって、大佐の自殺を阻止するための監視になったのですけれど」
死神は、生きている人間に、死神の存在を気取られてはいけない。
何故あるのかわからない禁忌に二人は抵触していた。
「死神の存在を広めなかったのは、何故だ。カメラの映像があれば、あなたの言うことが虚言だと言われることもなかったはずだ」
「私は察していたんですよ。そんなことをすれば、死神が人間を殺しに来る、と。せっかく終わりかけた戦争です。混迷が訪れるのは、終わってからでもいいでしょう」
敏い人だ。けれど、隠そうとして隠せるものでもない。
「私は死神のシリンさんが大佐の命を奪うのを見ていた。私だけが、見ていたんです。だから、隠蔽することにしました。混乱していましたから、簡単でしたよ。
確か、こう言いました。『大佐が死んでしまって、私が間に合わなかった咎はいくらでも受けましょう。けれど、大佐のあの凄惨な最期を、わざわざお見せする必要があるでしょうか』と」
自らの非を認めることで、証拠品を漁らせなかった。だからこそ、戦争は終わり、彼女はこうして、全ての罪を一人で負うことになった。
おれはちら、とシリンを見た。シリンは開いた両手を呆然と見下ろしていた。わなわなと震えている。
「そんな、そんな、僕のせい、で……」
「シリンさん」
絶望の淵でしゃがみこむ少年に、温かな声がかけられた。──ああ、なんでその眼差しはおれを見ないのだろう。
「シリンさんは、少し、一人で背負いすぎでした。あの場にはセイムという方もいらしたはず。監視カメラに気づかなかった彼にも罪がありましょう」
そんなセイムがこの任務を受ける必要がなかったのは、彼は罪を加算するまでもなく、未来永劫死神であることが決まっているからだ。
「でも、ミアカ大尉だって、一人で……」
「これからはもう、一人ではありません」
それから、青い目が、おれを見た。真っ直ぐに。
「ねえ、死神さん?」
残酷に。




