燈の消えないように
久方ぶりに平和な日だった。ただ一つ不思議なのは、セッカからこのノートを手渡されたことだ。
今日は任務もなく、平穏な一日だった。
散々な目に遭ったのは、私だけだった。
そもそもだ。
このノートを譲ってから、わりとまめにつけているセッカが、私にノートを返してくること自体がおかしいのだ。その段階で気づけばよかった。
何があったかというと……
時は三刻ほど前に遡る。
死神の任務もなく、新しく虹の一席として入ったキミカにもあらかたの説明を終えていて暇だった。
こういう、任務もなくて暇な時間というのは気分転換に使える。基本、任務がなくても死神は死神と人間の世界を自由に行き来できるのだ。私はよく、合間を見ては散歩に出ていた。
しかし、近頃はそうしていない。何故ならば新しく入ってきたセッカとキミカがいるからだ。
構わず出歩いてもいいのだが、そこで難点が出てくる。
セッカはご存知の通り、アルビノ体質で日光など肌などに直接刺激を与えるものに弱い虚弱体質。キミカは生まれつき体が弱く、あまり長く歩けない病弱体質だ。置いて一人で出ればいいのかもしれないが、私が空けている間に任務などが出たら、この二人が対処しなければならない。虚弱、病弱コンビであるし、二人共まだ死神になって日は浅い。イレギュラーに振り回された挙げ句、全てマザーの掌の上というあくどい展開まで待ち構えている可能性は大だ。
というわけで、今回は二階建ての家という間取りの死神界でゆったりのんびり過ごしていたのだ……が。
発端はキミカの一言だった。
「ユウヒさんって、髪長いですよね」
本当に何気ない、他愛ない一言だった。別段不思議なことでもないから、私はうん、と頷いた。
まあ、男にしちゃ長いと言われるが、一応これには初代赤との約束があり、私は切らないでいる。
久しぶりにそんなことを思い出して、一人感慨に耽っていると、不意にぷつんと髪紐が切れた。一人慌てる。
この髪紐も初代赤の友人との思い出の品なのだが……まあ、一万年ももったのが奇跡か、と悲しく眺めていると、
す、と髪を鋤かれる感覚がした。
「……え?」
私は思わず頓狂な声を上げた。髪を鋤かれる感覚は気持ちいい……ではなくて!
「な、何をやってるんです? キミカ」
「髪を鋤いているんですよ」
にこやかに答えが返ってきた。いや、それは見ればわかる。そういうことではなく、何故私の髪なぞに触れるのか……やけに手慣れている。
「綺麗な髪ですねー」
「それはどうも……じゃなくて! 何故?! 突然!?」
するとキミカはふふふと笑った。獲物を見つけ、興奮しているような不敵な笑み。──いやいや、待て待て。何故人畜無害が旗印のようなキミカがそんな表情を浮かべている?
というか。眼前にいつの間にかセッカが立ち塞がっているのも気になる。しかもその腕にはウン十本と言えよう、髪を結うヘアゴムというやつが。嫌な予感しかしない。
「常々思っていたんですよ。ユウヒさんの髪、綺麗だなぁって」
普段人畜無害のキミカが、人畜無害そうな笑みで言う。が、私の脳は警鐘を鳴らしっぱなしだ。躊躇いなく、この二人の囲い込みから逃げる策を講じる。
椅子に座っている状態のため、非常に逃げにくいが。
「ですから──弄らせてくださいっ!!」
キミカが衝撃の一言をぶちまける頃にはもう、私は椅子から飛び退き、天井の電灯を掴んで、安全地帯──できる限り二人から遠く──に飛び降りる。
幸か不幸か、その近くには窓があった。ここは二階建て住宅の一階という仕立てである。玄関のドアからは人間界に繋がるという珍妙な仕組みになっているが、それ以外からは死神界内の何処かにしかアクセスできないという風になっている。
なんとなく、なんとなくだが、私はセッカとキミカの薄ら笑いに不気味なものを感じ、逃げようと窓から出──
直後、マザーの性格の悪さを思い出すこととなる。
一階という設定が屋外にまで適用されている義理はない。つまり。
高層ビルの何十階というところから飛び降りた命知らずのような状態に陥ってしまった。転がり込むようにして出たから、このまま落ちると肋骨が折れ、内臓が傷つくことは確実だろう。一体どういう仕掛けだ。一度マザーを本気でぶん殴りたい。
不老不死とはいえ、痛みは感じるのだ。それにこのタイミングにこのシチュエーション……狙っているとしか考えられない。
性悪め、と思いながら、落下する中、止まろうとビルの硝子に爪を立てる。落下の速度がすぐに収まるわけもなく、ずずず、と私の指はとても嫌な音を立てた。どうにか食い込んだ指は爪が剥がれている。容赦ない罪加算の痛みが襲う。おいこれは自傷に含まれるのかくそったれ。
とにかく、取り付けたところから手が離れてしまわないうちに、手近な窓のガラスを割り、すと、と中に入る。どこまでも真っ直ぐにしか続いていない廊下。一本道というのは逃げる側からすると不安要素しかない。待ち伏せされる可能性が大きいのだ。しかもこの空間を管理しているのは性悪と名高いマザー。今回の「私の髪を弄る」ではマザーには一片の得もないはずだが……愉快犯の癖が見えるマザーだ。面白そうだからという理由だけでセッカ・キミカ側に加担していてもおかしくはない。
ダメ元で壁を蹴り壊そうと回し蹴りを敢行する。と、意外にもあっさり穴が空いたが、それが幸か不幸かというと、
「あ、ユウヒみっけ」
目の前にセッカが現れたので後者にちがいない。
仕方ない、と一本道を走っていく。穴から出て私を捕らえようとしたセッカがその背の高さ故に頭をぶつけてとても痛そうな音を立てていた。
アルビノで虚弱体質のあるセッカだが、案外体力はある。死神としても優秀だ。足も早い。ということは真っ直ぐな一本道、すぐに追いついてくるだろう。
私は打開策のため、反対の壁を蹴る。
直後、後悔した。──キミカとばったり目が合ったのである。
一も二もなく逃げ、マザーのえげつなさを心中で罵りつつ、懐からあるものを取り出す。手の大きさと同じくらいの長さを持つ小さな棒。ぶんと振るえば首刈り鎌──死神としての得物に早変わりの優れもの。
あまり使いたくはないが、さっきからどこを壊してもマザーは文句は言って来ない。ならば遠慮なく壊させていただこう。この空間を。
私は鎌を振り上げた。首刈り鎌は長柄武器だ。狭い空間では振り回せない。故に当然、振り上げたところで天井に引っ掛かる。が、それをそのまま無理矢理振り下ろす。
死神の得物は頑丈にできている。こういう場面が起きても力で押し通し、道理を引っ込めてまで任務遂行に努める。それが死神だ。
というわけで押し通してみた無理は盛大に天井をぶち壊した。かなり埃が舞ったが仕方あるまい。これで新たな逃げ道確保である。私は上に跳び上がった。
先程の部屋に戻ったような気がするが、死神界というこの空間に常識を求めてはならない。相手は空間を自由に弄れるのだ。溜め息を吐きたいが、幸いなことにセッカとキミカは別空間に行ってしまったようだ。
とりあえず、私にとっての一番の大事──千切れた髪紐を拾い、よく鋤かれた髪を括った。なんとなく、気が引き締まる。
ようやく一息吐けるか、と安心しかけたところを、殺気というよりかは柔らかいが、明らかなる害意が訪れる。すんでのところで害意の正体をかわした私が見たのは、小さな刃のついた鞭。九節鞭、というのが正しいだろうか。普段は棍の姿をしているそれ。ピンポイントに私の髪紐を狙ったようだ。数本私の灰色の髪が落ちていく。
九節鞭の先を見据えればセッカ。普段は三節棍の使い手だが、死神の得物は所持者の思いによって形を変える。それを利用してあの棒を九節鞭に変化させたのだろう。信じられない拘りようだ。
「何故そこまでして私を追う」
「むしろ何故ここまでして逃げるんですか?」
問いかけは、後ろからだった。
しまった──そう思った時には既に遅く……
大きな虫取り網に捕らえられた私、という、実にシュールな絵面が完成していた。
しばし私が現実を受け入れられなかったのは仕方ないことだと思う。
万能兵器たる死神の得物を虫取り網に変化させるなど……誰が思うだろうか。首刈り鎌で網を引き裂き、再び逃亡することも可能だったが、呆れて逃げる気が起きなかった。
首刈り鎌を棒に戻し、降参の姿勢を取る。
「それで? 髪を弄るってなんだ」
「そのままの意味です。編み込みとか、おさげとか、ツインテールににハーフアップ……とにかく色んな髪形を試させてほしいと」
「私は男だ」
とりあえずそれは注意しておかねばならない気がした。そんなことはわかってますよ、とキミカは言うがどうだか。
昔もそうだったが、今も男で髪を伸ばしているのは少ないらしく、私の髪が物珍しかったのだという。顎くらいまで伸ばしてあるキミカですら珍しいのだとか。であれば、背中の真ん中辺りまであるだろう私の髪の長さは確かに男にしては珍しいにちがいない。
とはいえ……ここまで全力で髪を弄るためだけに追い回されるとは。
「……まあ、間違って切ったり抜いたりしないならいい」
そこが私の妥協点だった。この髪は、友人との大事な約束ごとのものだから、切られることだけは避けたかった。
「切りはしませんよ。私たちは本当に弄りたいだけです」
そう言ってもう櫛を構えているのには若干引いてしまったが。
髪を弄られながら、まあたまにはこんなのも悪くないだろう、と思った。
いや、しかし、ツインテールやおさげはちょっと精神的にきたが。
曰く、生前に仲のよかった女の子や、義理の姉などのことを思い出して懐かしんでいたのだという。
それならそれで、仕方ないかな、と思った。
もう忘れてしまった身としては、生前の思い出というのは大切にしてほしいから。
それがある限り、完全な死神ではなく、人間の心を持てるから。
そう願い、私はこれを綴る。