紫に神
軍人をしている男性。昇格の話が何度も来ているが、大佐に留まり、前線に出続けている。
「軍人としては有能なんだろうけど、とある事件から戦争は終結に向かっている。だから、そろそろ軍人を間引いていこうというのがマザーの方針だ」
「戦争が終結してからでは駄目なんですか。大佐の次は准将でしょう。実質それくらいの実力の持ち主が戦争終結間際に死ぬのは情勢が傾きませんか?」
「し、シリンはよくそんな難しいこと考えられるよね……」
初めての死神としての任務。別に任務をこなしたくないわけではない。使命感すらある。ただ、戦争が終結すれば、人が人を殺すことは格段に少なくなるだろう。そんなときに将官級の軍人を刈ってしまっては、せっかく終わろうとした戦争がまた不穏な方向へ舵を切ってしまうのではないか、と思ったのだ。
効率的ではない、という判断だった。
ユウヒさんは答える。
「確かに、普通なら戦争が収まってからの方がいい。けれど、死神も死神なりに自然な死に方をさせる必要がある。だからあまり階級の高くないものは戦中に紛れて刈ったりね。大規模な被害……例えばミサイルが撃たれて都市が壊滅したとかのときはミサイルに携わった人間を片っ端から始末する。そういうのが死神の役目だ。
今は戦争中だからこういう風にしてるけど、元々は人の命を命とも思わないろくでなしを殺すための存在だ。だから恨みつらみで殺されても不思議ではないやつを殺してきた。でも、今回の標的は違う。
人望があって、任務では冷徹だけど、基本的に人に優しい。倫理観もしっかりしている。慕っている部下も多くいるだろうね。だから守りが固いし、何より本人が強い。正面突破は極めて困難だ。普段ならね」
「普段なら……何かその人の身の回りに異変でも起きたんですか?」
僕が質問すると、ユウヒさんはにっこり笑って黙ってしまった。
代わりにセイムが言葉を次ぐ。
「今、その人はかなり取り乱していて、瀕死の重傷から回復したばかりなのに、何かに取りつかれたように動き回ってるんだって。このままだと死にかねない。自分から死ぬことも、死神の世界では罪に加算されるんだ。……その人がこれ以上罪を重ねないように、ぼくたちで止めに行こう」
自殺、自傷も「自らの寿命を操作する行為」として扱われ、死神の世界では罪となる。このまま罪を抱えたまま、その人が死んでしまったら、その人が死神になってしまう。死神を増やさないという観点からいくと、それは合理的だった。
それに、自分で死にかねない人が死んだとき、自殺だと誰もが思うだろう。どんな死でも、それは悼まれる方がいい。
僕はそう納得し、武器を手に取った。
僕の手に、付き添ってくれるセイムの手がそっと重なる。
「救いに行こう、悲しい人を」
「……うん」
死が救いなのかはわからないけど。
扉を開けると、そこには部屋で暴れ回っている青年がいた。机を殴り付け、壁に頭を打ち、床に手を叩きつける。泣き濡れ、言葉にならぬ嗚咽を撒き散らしながら暴れる姿は、「自暴自棄」という言葉をそのまま形にしたようだった。頭に巻いた包帯からじわりと赤が滲んでくる。壁や床に打ち付けた頭が割れたのだろう。とても見てはいられない。
「自分で自分を傷つけるのは、やめてください」
そう声をかけると、え、という細い声がして振り向いた。その人は僕の姿を見て、目を見開く。
「大丈夫ですか?」
僕はその人の背中を擦った。鼓動が速いのが伝わってくる。温かい体温は生きている証だ。とりあえず自殺を止められたようでよかった。
けれど、今度はその人は僕を見て固まっていた。僕がきょとんと目を合わせると、その人は泣きそうな顔をする。
どうして、と掠れた声が静かな部屋に落ちた。
「シリンくん……」
「え」
今度は僕が驚く番だった。どうしてこの人が僕の名前を知っているのか。まだ名乗ってもいないのに。
僕が死神になってから──つまりは僕が死んでから、そう時間は経っていない。知人が生きていてもおかしくはない。
でも、なんだろう、僕が死んだのをちゃんと知って、悲しんでくれているような気がする。
「僕のこと、知ってるんですか?」
「覚えていませんか?」
覚えていない。生前の記憶は消えているから。自分がどうやって死んだのか、どうして死神になったのかも覚えていなかった。
会いたかった、なんで、どうして、という言葉がその人から壊れたように零れて紡がれる。どうして死んでしまったのですか、と糾弾するような声から、僕がろくな死に方をしなかったのは容易に察せられた。おそらく、惨たらしい殺され方をされたとかではなく、僕は自殺したんだろう。
右肩に刻まれた罪の数値を思う。ユウヒさん曰く、僕は殺した人数より、自分を痛めつけた罪の方が多い稀な死神なのだとか。それくらい傷ついて死んだ僕はきっと、誰よりも自分勝手だ。
「ごめんなさい」
自然と零れる言葉がそれなのも、生前自分を卑下していたことが窺える。自分を否定して生きる人間は「ありがとう」よりも「ごめんなさい」が先に出てくるとどこかで聞いた。
僕を抱きしめて、泣きじゃくるその人の体温を僕は知っているような気がした。何度も僕の名前を呼ぶその声が懐かしかった。たぶん、心が忘れていても、体が覚えていたり、不自然に欠けた脳のピースを埋める何かに反応したりするからだろう。
この人が落ち着いたら、死神のことを話して殺そうと思った。僕の手で。
そこにセイムが入ってくる。
「お取り込み中失礼しますね。この子はあなたの言う通り、シリンです。でも彼は死にました。彼が今ここにいるのは生き返ったわけでも、彼が幽霊になってあなたに会いに来た、なんてメロドラマみたいな奇跡が起きたわけでもないんです」
セイムの声はいつもより淡々としていて冷たかった。意外に思ってセイムを見ると、いつも笑顔を絶やさないセイムが能面のように感情を感じさせない顔をしていた。……ユウヒさんみたいだ。
「彼は死神になったんです。あなたの命を刈りに来ました。東暁さん」
「死神……はは、俺もとうとう年貢の納め時か」
自嘲するような笑みが痛々しかった。
「死神は誰かの恨みのために命を刈ったりしません。あなたの寿命が来たから命を刈り取るわけでもありません。
死神は生前に人をたくさん殺した人がなります。自分を殺すと、もっと多くの罪が死神としての業となります」
死神の成り立ちを聞いたその人は顔を歪めた。たぶん、自分のことは納得しているからそうではないのだろうけれど……暗に、僕の自殺が僕を死神にした要因の一つであることを断言されて、心を痛めているのだろう。
こういう人が出てくるから、自殺は罪なのだろうな、と僕は思った。時には誰かを道連れにしてしまうような死の罪だ。僕はそれを贖うためにここにいる。
「ぼくみたいな、他者の罪を肩代わりした例外もありますが、あなたはこのままだと死神になる。あなたにはそのくらいの罪があるんです」
「……肩代わり?」
その人の目が、その一言に微かな希望を見出だす。
「待ってください。君は他者の罪を肩代わりして死神になったと言いましたね? それなら僕が、シリンくんの罪を肩代わりして、死神に」
「できません」
セイムはその人の言葉を遮って、きっぱりと言い放った。
「何故! その子より僕の方がよっぽど多くの業を背負っている。シリンくんは報われるはずだった。何一つ叶えられないまま、自ら命を閉ざして、彼の未来は、そんなものじゃなかったはずだ!! 死んでまで血塗られた道を歩むような、そんなこと、あっていいはずがない。それなら僕の、俺の方がよっぽど、そうなるべき」
「あなたがどうなるべきとか、そんなの、関係ないんですよ」
セイムのその声には、熱が込もっていた。
「できるものならぼくだって肩代わりしたいですよ。シリンが可哀想なことなんて、ぼくにもわかりきってる。でもできないんです。罪を肩代わりできるのは死神になる前、生きているうちに、死神と契約して、ようやくできるんです。シリンはもうできないんです。死んじゃってるから」
その人も僕も目を見開いた。
──セイムが、泣いていたから。
「シリンはもう、死神だから」
運命や宿命に都合よく逆らう方法なんて、そうそうない。セイムが誰かの罪を肩代わりしたのはそんな中で足掻いて足掻いて、やっと叶ったことなのだ。軽々しくできることではない。だからセイムは怒ったのだろう。
誰の罪を肩代わりしたのか、覚えてもいないのに。そんな悲しい選択肢を軽々しく選ばないでほしかったんだろう。たぶんだけれど。
セイムは僕の過去を知っている。たぶん、他の虹の死神のみんなも、言わないだけで僕の生前を知っているのだろう。セイムのように肩代わりができたら、と思った死神もいたかもしれない。
それがそういう掟があるからというだけでできないというのはどれだけ悲しいことだろうか。悔しいことだろうか。
シリンは羨ましいとは思わない。ただ、自分のために、セイムもこの人も涙を流してくれるんだな、と思ったら、少し心が温かくなる気がした。
「でも、あなたには、ぼくにはできないことが、シリンのためにできることが残されているんです」
セイムは僕の隣の人の肩を優しく叩いた。
「シリンに刈られて、シリンの罪を浄化すること」
「っ!」
ずきっと頭に痛みが走る。
さっきまでは平気だったのに、この人を殺さなきゃいけないことが、とても怖くなっていた。嫌だ。もうやりたくない。もうこの人の命に手をかけたくない。
「わかりました」
僕の思いなんて知らずに、その人は至極あっさり頷いた。僕を受け入れるように微笑んでみせる。
「もうそれしか、シリンにしてやれることがないのか……」
少し、残念そうにしていたけれど。
この人を殺すのか? 僕が? 今から?
「どうせ死のうと思っていたんだ。君がいなくなってからの俺を、誰もが亡者と呼んだ」
生きていても変わらない、少し早いか遅いかの違いだ、と僕を諭す。
そんなことを言われたって……!
呆然とする僕の頬を撫でて、その人は言う。
「せっかくなら、君と同じ死に方がいいな」
は……?
覚えてもいないのに、死神の特殊な武器は応えるように変化した。それは少し刃が長いように見えるだけのどこにでもあるようなありふれたナイフだ。鋭利な銀か閃く。
その人は目を細めた。
「大方それで、喉を突いたんでしょう。痛かったでしょうに。苦しかったでしょうに……」
……いやだ。
僕は痛くも苦しくもしたくはない。この人を。
だって、この人は優しい。どうしてなのかはわからないけど、思い出せないけど。この人が優しいことを、僕は生前から知っていた。
刺せないよ……
僕がナイフを手にしたまま、固まっていると、不意に体温が僕を包んだ。ぶすりと音を立て、僕の手の中の凶刃を食みながら、望んだように僕を抱きしめてくる。
途端、流れ込んでくる、その人の記憶。その人はいつも、僕を見ていた。慈しむように、愛おしむように。
その記憶を見て、僕も思い出す。消えてほしいと願った記憶を全部。悲しい思い出も、優しい思い出も、この人の名前も。
「あきさん……」
ごめんなさい、と謝った。また、この人を刺してしまった。今度は本当に命を奪ってしまう。
「ぁ、やまらな、で……しりん……」
愛してるよ。
そう囁いて、あきさんは、幸せそうに笑って、逝った。
「ありがとう、ございます……」
たぶん僕はこのとき生まれて初めて、自分からありがとうと言った。
死神の能力の一つに罪人の記憶を見ることができる、というのがある。おそらく、死に際に見る走馬灯の共有のようなものだろう。
嫌なことも、忘れたかったことも、全部思い出してしまったけれど、また抱えて生きていきます。
あなたをもう、忘れたりなんかしない。あきさん。




