黄金の水瓶の割れる音
死神の特性というのは質が悪い。
記憶を読み取る能力やら不老不死やら、罪の増減やらとなかなかな数ある中でおれが今疎んでいるのは、『死神になっても生前の体質が治らない』ということだ。
虹の死神の新たな一員としてキミカを保護したわけだが、裸足に病院着という薄着と死の直前まで体調を省みずに走ったという無理が祟り、すぐにキミカは倒れてしまった。
ちょっと記憶に触れてみたところ、どうやら彼は無理な延命処置を受け飼い殺し状態、もしかしたら植物状態になっても本人の意志と関係なしに生かされ続けたかもしれないという。
もう少しすれば植物状態だったかもしれない人間の体が丈夫なわけもなく、不老不死になったため、死にこそしないものの、疲労が溜まり、気を失ってしまった。
悪いな、と思いながら抱き起こし、彼……というにはあまりにも面差しが女性寄りのキミカの背中に手を入れる。ユウヒがおれの左首筋にやったような『罪の刻印』を押す儀式である。
これでキミカは正式に黄の席の虹の死神というわけだ。
その際に見てしまった、キミカの過去というのを、ここに綴ろうと思う。
***
私は生まれながらにして金色という特殊な色の目を持っていた。
それが何故か、祀り上げられることになった。特に裕福ではないが、貧乏でもない街のことである。
ただ、その街には奇妙な風習があった。それが「生まれつき体の一部の欠損があったり、変わった容姿を持つ者を敬う」というものである。そういった者は神からの申し子なのだそうだ。
そんなわけで、人間としては珍しい、金色の目を持ち生まれた私は崇められることとなった。……何の力があるわけでもないのに。
私はただの病弱な人間に生まれた。特殊な能力もないし、才能もない。歩けばすぐ倒れるし、目眩なんかは四六時中だ。こんな弱い自分に、人々は一体何を求めるのか。
一ついいことがあったとすれば、優先的に病室を得られたことだ。まあ、ほとんど病室以外で生活をしたことがないが。
いつもいつも、隣の病人が入れ替わっていくのを見つめていた。元気になって退院していく者もいれば、治らずに亡くなっていく者もいる。後者の方が圧倒的に多かった。
そのとき、泣き伏す遺族にはいつも合わせる顔がない。
中には、私を詰る者もいた。当然だろう神の申し子だと崇め奉られて、何もできないのだから。隣人一人、救えない。
そんな私を許せないのは当たり前だ。誰より私が許せない。許したくない。
けれど同時にこうも願う。許してほしいと。
私は誰も救えない。無力なただの人間だ。無力なだけじゃない。病弱で一人で立って歩くことすら危うい、あまりにも人間として出来損ないなのだ。
だから、許してくれ。何もできないことを。やめてくれ。私を求めることを。
あるとき、女の子が入院してきた。
ラナという名だと教えてくれた。天真爛漫で、元気で、病気とは全く縁がないように見えた。しかし、入院患者ということは、何かしらの病に侵されているのだろう。
けれど私と話す彼女はいつも明るい。病気のことなど気にしていないように。……もしくは、気にしないように、していたのかもしれない。
ラナが不治の病だと知ったのは、ラナが死んでからだ。当然のように私は何も知らず、何もできなかった。
ただただ、失われてしまった日々を嘆くしか。
髪を、結ってあげた。僅かに見聞から得られる情報を基に、様々な結い方を試した。「キミカお姉ちゃん器用だねぇ」なんて言われたが、私は男だよ、と苦笑して教えたことも、まだ映像のように鮮明に思い出せる。
外にあまり出られないから、とあやとりを教わった。下手だけれど、絵だって描いた。ラナは結構絵が上手でお絵描き屋さんになるー、なんて無邪気に笑っていた。夢の話をした。今日は花畑で花冠を編む夢だった、とか、ラナの夢はいつも、華やかで可憐で美しく、愛しかった。
けれどラナはある朝突然、目を開けなくなった。肌が粟立つ思いがした。私は必死で医者を呼んだ。青ざめたラナの肩を揺すって、目を開けてくれ、起きてくれ、と懇願した。
わかっていた。ラナの青い唇だけで、……もうそれは死人の顔だと。
私は何度も見てきたのだから。
何度も何度も何度も。
何度も見て、何度も救えなかった、その顔。
空になった隣のベッドを見て、何度も味わった空虚感に苛まれて、けれど短くも長かった、ラナとの幸せな日々が思い出されて、私は人知れず涙を流す夜を過ごした。
予兆は何かあったはずだ。けれど私は何も気づかなかった、気づけなかった。病気に気づくのに、特別な才能はいらない。だから、私でも、気づけたはずなのに。私は、また。
また、何もできなかった。
何度そんな夜を過ごしただろうか。わからない。そんなある日、かなり珍しいことがあった。
私に見舞い客が来たのだ。
いや、そう珍しいことではないか。この街の妙な宗教の信仰者たちは何度も訪れ、私に向かって「いつ恩恵をくださりますか」「早く我々に恩恵を」などと……ありもしない恩恵にすがっていた。
けれど今日の客は趣が違った。小さい男の子だ。ラナと同じくらいの。
男の子らしく刈り上げられた赤髪が印象的だった。病院でほぼ寝たきりで、髪を切る気力すら持てない私とは違う。生気に満ちた黒い瞳。
男の子は言った。
「あんたが、キミカ?」
「ああ」
女っぽくてあまり好きではない名前を紡がれ、私は笑みに苦いものを交える。
「ん」
その子は髪色に似た真っ赤な林檎の籠を差し出していた。私はきょとんと見つめる。男の子は怒ったように「受け取れっての!」という。
おずおずと受け取るが、籠と共に差し出されたものがあった。抜き身の果物ナイフ。
見直せば、男の子の瞳には暗く淀んだ殺意があった。
「……ラナちゃんの、友達かな」
慣れていた。こういうことはよくあった。神の申し子と言われながら、隣人一人救えやしない偽物。「病気」というどうしようもないもので大切な人を亡くしたのなら、その嘆きを、悲しみを、どこにぶつけたらいいだろうか。目の前に体のいい隣人がいたら、神の申し子なんて偶像が存在したら、ぶつかってくるのは当たり前だろう。少なくとも、私はそう思っている。
目の前の少年は、間違いなく、私を憎んでいた。病気なんて形のないものを憎むより容易いから。
しかし、まだ躊躇いがあるのか刃を刺そうとしてこなかった。まだ、止まれる。
私が傷つけば、不本意ながら私の護衛についているという信者がただでは置かないだろう。そちらの方が危険だ。
人を傷つけることは、自分を傷つけることになる。私は、そういう人々も、何人も見てきた。だから、男の子のナイフの柄を握る手にそっと自分の手を重ねた。
「君は、クレトくんだね」
「……なんで」
「ラナちゃんがよく話してくれたんだ。赤い髪の幼なじみがいるってね」
クレトの握るナイフが揺れた。
「ラナのこと、覚えてるんだな」
「そりゃ、ね。色々話したし、色々教えてくれた。あやとりとかね……髪も結ってあげたっけなぁ。楽しかった……」
楽しくて仕方なかった。
けれど、それら全てを過去形で語らなければならないことが、悲しい。
それを滲ませながらも懐かしそうに、ラナと過ごした日々を語った。……嫌だな、視界まで滲んでくる。
それをクレトは一瞬目を見開いたものの、黙って最後まで聞いていた。いつの間にか、果物ナイフは下ろされていた。
私の話が終わり、しばしの沈黙がその場を支配する。
唐突にクレトが口を開いた。
「あんた、嫌なやつだったらよかったのに」
「えっ? いきなり酷いですね!?」
「いいやつだって言ってんの」
憎めねぇじゃん、と呟いたのを聞いて、何か、救われた心地がした。そんなことは全然ないのに。
「……別に憎まれてもいいのだけど」
「あんた、そういうのは涙流して言うもんじゃねぇだろ」
しまった、言い返せない。
「あんたがすっげぇ嫌なやつ……例えば、神の使徒だかなんだかって肩書きを笠に着て、権力を振るうようなろくでなしだったら、躊躇いなんて、しなかったのに」
やはり、か。
話を聞いてくれたことで薄々わかっていた。躊躇いがなければ、とっくに私を刺していたはずだ。
「会ってみなきゃわかんないもんってあるな。まあ、おれからすると、あんたがいるからって理由でラナが面会謝絶になってて……すっげぇ腹立って……嫉妬、なのかな? してた。
神の使徒とか騒がれてるくせにラナ死なせやがってって、……逆恨みしてたのも本当はわかってた」
何もラナにしてやれなかったのは、おれだって一緒なのにな、と苦く笑うクレトの言葉が私にも突き刺さる。
何もできていないのは、いつも私だ。ラナにも、何もできなかった。
今、私にできることと言えば、
「とりあえず、使わない刃物は仕舞おう。外のやつらにいらぬ誤解を抱かれても面倒だ」
「あっ、いや、林檎の皮剥くよ!」
張り切ってぶんぶん林檎一つとナイフを振り回す。
危ないと思ったときには、もう遅く、
クレトの手からナイフが落ち、私が咄嗟に慌てて手を伸ばし──
ぽたり、と赤が床をついたときには遅かった。
頼んでもいない護衛が入ってきて、クレトを「狼藉者!」などと少し古い言葉で詰り、拘束した。
クレトに、罪人の烙印が押された。
何故?
どうしてこうなった?
クレトは何もしていない、ただ林檎を剥こうとしただけだ。優しい子だよ。ラナ思いの優しくて眩しい子だよ。勇ましい子だよ。私にはないものを持ってる。
病気で余命もほとんどない、閉ざされた私などより遥かに生きる価値のある、未来ある子どもだろう?
そこでふつりと私の中の何かが途切れた。
「罪人を解放しなさい」
信仰者たちに言った。信仰者たちの間にどよめきが走る。
「あなた様を傷つけた罪人を野に放てと?」
「そう言っています」
「ですが」
「……普段から私を崇め奉っておきながら、私の言うことは聞けぬと?」
私は、なりふりかまっていられなかった。普段は大嫌いな神の申し子やらなんやらという権力を行使して、クレトを解放させた。
私と今後一切会わないことを条件に。
クレトの解放間際、一度だけ面会を許された。もちろん、そのときも私は大嫌いな神の申し子という肩書きを使った。クレトの嫌いな権力の行使で、クレトに会い、クレトを解放する。なんて世界は皮肉にできているんだろうな、とぼんやり思った。もう可笑しすぎて涙も出ない。
クレトは、おそらく拘束解放を告げられたときに信徒から何か言われたのだろう。なんとなく事情を察しているようだった。
「……大変だな、あんたも」
会って一言目がそれで、苦笑しか出てこなかった。
「もう君とは二度と会ってはいけないそうだ」
「それでも、おれがここから出られるのは、あんたが奔走してくれたからだろう? ありがとう。でもさ」
眉を八の字に曲げ、クレトは困ったように笑った。
「あんた、一回くらい、自分の思うように生きたら? 自分のために、生きようよ。譬、余命が短いとしてもさ」
それには返事ができなかった。そもそも返事を求めていないのか、クレトはかまわず続ける。
「ラナはそうした」
「……!」
クレトから放たれた言葉の中で、それが一番重かった。
何か、返事をしてやれればよかったのだろうけれど、私には言葉がなく、そのまま、クレトは解放された。
哀しさや淋しさは当然あった。けれど、クレトが救われたならよかった。やっと、齢三十にもなって、神の使徒と呼ばれてそれくらい経って、ようやく、一人救えたと、私は少し喜んでいた。
それがぬか喜びとも知らず。
数日後、院内を散歩中に、やけに騒がしくなったのを感じ、騒ぎの方へ向かった。
そこには、通り魔に刺されたとかで運ばれた子どもがいるとのことだった。私は人混みの合間から、ちらとその子どもの姿を見た。
見てしまった。
赤い髪、閉ざされた瞼の下にはまだ数日前に別れたばかりの黒い瞳があるのだろう。
運ばれたのは、クレトだった。
青ざめた顔、唇。勝ち気そうで目映かった彼の顔は、私のよく知る人の姿に変貌していた。
死人の顔。
通り魔、と聞いたが、経緯は容易に想像できた。信者の誰かがやったのだろう。過激なやつは少なくない。私に対する暴言を吐いただけで、鞭打ち百回を食らった民もいるそうだ。
私は結局、誰も救えない。
そんな絶望に身を浸していれば、絶望は絶望に惹かれるのか、次から次へと戸を叩く。
病室に戻る最中、医者と信者らしき輩の会話に私の名が出て、なんとなく足を止める。
「キミカさんを延命? これ以上やるとゆくゆくは植物状態になりかねませんよ?」
「充分です。我々はあの方からの恩恵をまだ受けていない。恩恵を授けてくださるまで、生きていていただかなければ。生きてさえいればいいのです」
私はその言葉の持つ意味に絶句するしかなかった。
私が何かしなければならないわけではない。私という『偶像』が必要だっただけだ。
偶像は形さえあればいい。
形さえあれば、どうあってもいい。
そう、私は、その程度の存在だったのだ。
『一回くらい、自分のために生きなよ』
そんな、クレトの言葉が谺する中、私は発作を起こし、意識を失った。
しばらくして目を覚ますと、私には心電図やら点滴やらの無数の管が繋がれ、まるで拘束具のようになっていた。
これが、延命措置というやつなのだろうか。
上手く起き上がれないが、窓から射す月明かりで、夜とわかった。
逃げよう。
譬、寿命を縮める行為にしかならないとしても、私には今、それ以外の方法がない。思いつかない。
クレトを殺したやつらの思うようにはさせない。
私にかかる医療費で、ラナのような子を一体何人救えるだろうか。
結局私は自分の手で誰かを救うことができないまま──終わる。
ふ、と笑いが込み上げてくるのをこらえて、起き上がる。もちろん、無理矢理だった。体に貼りついたり刺さったりしている管を引きちぎるように剥がして、私は窓から飛び出した。
十歩も歩かないうちに息切れして、でも、意識の中で、走れ、走れと叫んで。
誰かが見ていたら、滑稽と笑ってくれるだろうか。
それですら笑顔ならいいと思う私は、もう、破綻しているかなぁ。
誰かのために、なりたかった。
***
最後のキミカの願いが頭にこびりついて剥がれない。
キミカの罪の数値は三十六。さして多くもない。普通に死神の仕事をこなせば、すぐに浄化されるだろう。
けれど、死神の厄介なところが邪魔をする。
不老不死となっても、生前の体質は治らない。
つまり、キミカは病弱なまま。
人殺しなんてしたことがないだろうに、人殺しのような仕事をしなくてはならない。
あのとき、ユウヒかおれが刈れていれば、解放されたであろう魂。
どこまでもマザーは性根が悪いとしか、言い様がなかった。