藍故の過ち
アイラに血を飲ませて気絶してしまったキミカをそっと部屋のベッドに横たわらせ、おれはアイラと話しに居間へ向かった。
死神界は扉であらゆる部屋に繋がるが、外界から帰ってきたときにまず真っ先に繋がる先がいつも過ごしている居間だ。死神になった者を回収するときなんかは、霊凍室に直で行ったりするが、他の部屋に繋がったことはないように思う。
何を言いたいかというと、任務から帰ってきたアイラと、居間で談笑していたおれたちが遭遇してしまったのは仕方のないことなのだ。
というか、さっきのあれはキミカからけしかけたのであって、アイラは悪くないように思う。結果的に暴走もしなかったわけだし。……それでアイラが納得するわけがないこともわかっているが。
アイラは見るからに項垂れていた。その背中から「やってしまった」という文字が立ち上って見えるほどに。
アイラは吸血鬼と聞いているが、先程のキミカのを見るまで、吸血行為をしているところは見たことがなかった。以前、吸血鬼にとって吸血は食事ではない、と聞いたが、単にアイラがあまりやりたくないだけなのではないだろうか。
おれやキミカの虚弱体質が変わらないように、アイラの吸血鬼である、という体質も変わってはいないはずだ。その証拠に、血を吸うという行い自体はできるようだし。
ただ、吸血という行為はおれが思うより重い意味を持つのかもしれない。アイラはキミカの目にアルファナを重ねてしまうことがあるようだから、罪悪感とか……そもそもそれでキミカは避けられていたのだ。
この際だから、吸血鬼について聞いておくべきか。それに、新しい死神も近々来るのだし、アイラの人となりを把握しておきたい。考えてみれば、おれとアイラは任務で血腥い思いを共にした記憶しかない。死んだり、生き返ったり。死神が死なないということを知っているのはおそらくおれとアイラだけだろう。他に言うのはやめた。キミカもリクヤもそのやり方を嫌うだろうし、マザーが容赦なく罪の数値を加算しそうだ。他に暴走系……自制ができなくなるタイプの死神が増えなければいいな、と思う。
項垂れるアイラの背におれはそっと手を置いた。アイラが気づいてこちらを見上げる。少し怯えたような目はおれがキミカではなかったことに安堵したようだった。
「聞きたいことが、色々ある」
「それは……そうだろうな」
端的に告げたおれに自嘲のような苦笑いでアイラが応じる。
リクヤに聞かれるとまずい話もあるので、アイラの部屋に行くことにした。
アイラの部屋は壁も床も天井も暗い色で統一されていた。他の部屋は明るい色なので、ここはなんだか、肌寒い感じがする。
「夜みたいな部屋だな」
暗い天井にぽつぽつと浮かぶ灯りを見て、そう思った。星空のようだ。
アイラは苦笑いを交えて答える。
「そうだな。夜の気配があった方が過ごしやすい、と話したら、こうなった」
つまりマザーがこのように配慮した、ということだろうか。マザーは死神界を自在に操れるようなので、多少の融通は利くようだ。
「やっぱり夜の方が動きやすいのか?」
「ああ。別に日光を浴びても、聖水を飲んでも死なないが、夜目が利くからな。猫みたいなもんだ」
猫。確かに夜行性の代表的な生き物だ。猫は日光を浴びても死ぬどころか気持ちよさそうにしているし……あれ、でも水は苦手だったか。
まあ銀の杭で心臓を、のくだりは普通に心臓を刺されたら死ぬから死ぬのだろう。子どもなら夢の壊れる話かもしれないが、生憎とおれは夢を持ったことがない。
「人間の伝承も時を経て随分と様変わりしているな」
「吸血鬼は長命というのが基本的に描かれているが、それは本当か?」
「ああ。普通に老いて死ぬことだってある。寿命が長いだけさ」
「アイラは、何歳だったんだ?」
率直なおれの質問に、アイラがふっと笑みを浮かべる。
「さてな。五千年以上前の話だからぼけたか。忘れたよ」
それは自虐というには誤魔化しの色が強かった。アイラはキミカやリクヤほど感情が表に出るわけではないが、長く生きていた割に不器用なところがある。おれが言えた話ではないが。
誤魔化しに関してはユウヒの方が何枚も上手だ。……ユウヒが虹の死神になる前から、吸血鬼は存在したのだろうか。アイラは存在したのだろうか。
「吸血鬼の歴史って長いのか?」
「俺が生きた年数なんて、歴史の一文にもなりはしない。それくらい、途方もない年月を吸血鬼は生きている。寿命だけは長いからな。でも直に、滅ぶんじゃないか」
「何故?」
「人間の中に溶けて消えていくからだよ。吸血鬼の血が」
ここでアイラがアルファナとの婚姻関係について語り出した。
「吸血鬼は人間を殺すわけじゃない。血も生きるために吸うわけじゃない。そして人間の血でなければならないわけではない。だからこの死神の世界の寿命操作に引っかかった吸血鬼はごく一部だろう。
それはひとまず置いておくとして、俺とアル……アルファナが婚姻関係にあったのは、吸血鬼の血を残すためだ。吸血鬼の寿命は長い。それに、人間と違ってきちんとした食事を摂って栄養管理、とかしなくていいんだ。吸血鬼としての血が濃ければ濃いほど、吸血鬼としての体質が顕著に表れるからな」
「吸血鬼の体質……血を吸うことによる効果か?」
以前、吸血鬼が血を吸うのは生きるためではなく、愛を感じるためだと言っていた気がする。
アイラはゆっくり頷いた。
「愛を感じて、幸せを感じれば、吸血鬼は生きていけるからだ。幸せであればわざわざ血液でなくとも、花の蜜でだって生きていける」
まるでおとぎ話だ。まあ、吸血鬼という存在がそもそもおとぎ話のようなものだが。
「途方もない大昔に、吸血鬼と人間は争っていた。その原因は共生を望んだ吸血鬼と人間がいたからだ。ただの種族争いではない。人間と吸血鬼の血は交わってはいけなかった。何故なら、吸血鬼と人間の血が拒絶反応を起こして、吸血鬼と人間の間に生まれた子どもは文字通りの吸血鬼──ただ血を貪り喰らうものになるからだ」
「吸血鬼は人間の血を吸ってもなんともないのに?」
「医学とやらではきっと証明できないだろうな。吸血鬼にとって、人間の血は花の蜜や水のようなものだ。けれど、人間にとって吸血鬼の血は毒のようなものだった。吸血鬼の血を飲んだ人間も血を貪って、吸血鬼と見なされ、人間に殺される始末だ。
発端が共生のためだと知らなかった種族の者たちは、互いの同胞を殺され続けて怒り心頭となり、遂に戦争が起きる」
戦争、の一言におれはごくりと唾を飲んだ。古にも、他種族にも、やはりそういう争い事はあったのだ。
人間と吸血鬼の戦争は、文字通り血で血を洗うものとなったという。細かなところは省き、アイラは結論を述べた。
「吸血鬼と人間の血が交わってはいけないものだったという真実が広まり、戦争は鎮火した。勝ちも負けもない。ただ、人間と吸血鬼ははっきりと区別されなくてはならなくなった。
それでも人間から吸血鬼になった者が増え、戦争の中で純粋な吸血鬼は数を減らしてしまった。人間と吸血鬼は共生しないんじゃない。できないんだ。番うという意味ではな。
そうして設けられた着地点が、純血の吸血鬼同士で婚姻を結ぶことだ。間違って、人間と結ばれて、新たな殺戮を生まないために。……という古い慣習から、俺とアルファナには婚姻関係が生まれた」
アイラの藍色がそっと細められる。
「第三者によって決められた婚姻を、人間は祝福しないことがある。それは恋愛感情を押し込められたくないが故にはたらく人間の自由への探究だろう。理解できないわけではないが、俺は始まりは第三者だったとしても、アルファナと出会えてよかったと思っているし、あのままアルファナと結ばれることに異議なんてなかった。歴史がどうとか、種族がどうとか、そんなものはどうでもいい。俺はアルファナを愛していたし、アルファナも俺を愛してくれた。俺たちは花の蜜でだって生活できるくらい、幸せだった」
でも、とアイラは俯く。天井の灯りを映さなくなった藍色の湖面は凪いでいた。
なんでだろうな、と独り言のようなものが零れる。
「どうして、こうなってしまったんだろうな。いつの間に俺はアルに執着してしまっていたんだろう。どこで間違えた? どこから狂っていた? 当事者なのに、そんなこともわからないままなんだ。
ただ、もう二度と開かないと知ったアルの目を、あの金色を」
アイラは自傷痕があるであろう左手首をぎりぎりと掴んだ。傷が開いて血が出てしまうのでは、と思ったが、むしろアイラはそれを望んでいたのかもしれない。
アイラの傷ついた眼差しを何と表現するか知っている。自己嫌悪だ。
「だから……アルと同じ目の色をしたあいつを見ると、耐えられない。きっともう、二度と許されることなんてないだろうに、会えることなんてないだろうに、あいつに会えたような気がして……『私だけはあなたを許すわ』と言われているような気がして……」
震える手が、傷を裂くことはなかった。力が入っていないのだろう。
この話をキミカが聞いたら、きっと、キミカは言ってしまう。あいつは慈悲深いから。マザーなんかより。
けれど、それをアイラは望まない。アルファナの身代わりにしているキミカに許されるくらいなら、その仇とも言える親友のリクヤに一生許されない方がいい。
それがアイラの求める愛のための贖罪なのだろう。




