藍してはいけない
帰ると、血塗れのおれたちを見て、キミカが顔面蒼白になった。怪我はないですか? などと確認してくる。
アイラはその目線を居心地悪そうにして受け止めていた。「別に」とか「大丈夫だ」とか素っ気ない答えをしているが、目を逸らしているので、いまいち説得力に欠ける。
怒ったキミカが、思い切りアイラの左手首を掴んだ。アイラは不意を衝かれたからか、「いっ」と声を上げてしまう。
「ほら、痛いんじゃないですか」
キミカがぷんすかとしながら、左手首の袖をめくる。そこには。
「──アイラ、これはどういうことなんですか?」
キミカが信じられないものを見たような顔で、けれど表情は険しく、アイラに問いかけた。
仕方ないだろう。めくった袖の下には幾重もの自傷痕があったのだから。
ぎろり、とキミカの目がこちらに向く。おれは任務に同行したのだ。アイラが何をどうしていたかなんて、把握していて当然だろう。……気まずい思いで目を逸らした。
アイラは死神になってから、自傷行為を続けていた。真意はおれも知らないが、おそらく、自制のためだろうと思う。おれがアイラを止めたとき、アイラは手首に思い切り爪を立てて、落ち着かない息をしていたのだから。
ああすることで、自分の本能にある人を傷つけて楽しむ部分を抑え込んでいたのだろう。痛みで朦朧としていたアイラは、それでようやく正気に戻った。
「いや、これは、その、あの……」
結果、キミカのジト目攻撃に遭い、しどろもどろになっているのだから世話ない。
──まあ、それとは別に、キミカのことを真っ直ぐ見られない理由がありそうだが。
死神になってからこっち、アイラはキミカとまともに顔を合わせていない。目を見て話をすることがない。何故なのかはなんとなく想像がつくが。
そんな考察をしているとがちゃりと扉が開き、リクヤが入ってきた。なんとも言えないタイミングである。
リクヤは悪い目付きでキミカが掴むアイラの手首を見、不快そうに顔を歪めた。
「オマエ、何やってんだよ?」
アイラは黙りこくる。リクヤとも目を合わせづらいようだ。
リクヤは苛立ちのままに、キミカからアイラの手を拐い、その傷をぐっと握りしめた。アイラは先程とは違い、表情一つ変えずにリクヤを見た。
リクヤは尚も不機嫌そうにアイラを見つめ、吐き捨てるように言った。
「こんなことして、可哀想アピールか? 図体はでかいくせして、やることは子ども以下だな。呆れたもんだぜ。死神は不死身だからいいとでも思ってんのかよ。キミカの顔を見ろよ。オレたちはなぁ、元々人間だったんだ。自傷行為に何も思わないわけねえだろ」
不死身の吸血鬼サマとは違うんだよ、というリクヤの声がひどく耳を突く。
……吸血鬼だって、死ぬときは死ぬ。リクヤは覚えていないから仕方ないのかもしれないが、リクヤだって、吸血鬼のうちの一人を殺したようなものだ。それに「不死身」などと言われるのは不本意だろう。
だが、アイラは言い返さなかった。言い返せなかったのかもしれない。五千年もの間、様々な吸血鬼たちの体を渡り、封印を受けていたアイラはある意味不死身だったのかもしれない。それはあくまで捉え方の一つであるが。
「自傷に何の意味があんだよ? マザーとやらに『罪』としてカウントされちまうんだろ? なんでそんな無駄なことすんだよ。こんな理不尽な地位にそんなに留まりたいかよ?」
そういうことではないと思うのだが、リクヤの言うことも客観的な事実としては正しい。
「ユウヒと言い、オマエと言い、むかつくんだよ。死にたいんだか生きたいんだかわかんねえ」
「リクヤ」
「気安く呼ぶんじゃねえ」
苛々しているリクヤにアイラが向けた目は、限りなく静かだった。
「俺たちはもう生きても死んでもいない」
「揚げ足を取るんじゃねえ!!」
アイラがリクヤに向けた言葉もまた、客観的事実であった。正論を返されたリクヤは苛立ちをいっそう募らせ、アイラを睨み付けた。
確かにアイラの言う通り、おれたちは生きても死んでもいない。死神という存在になった。その事実は「生死」という言葉では語れない。
それは日記を綴り、見続けてきたおれがよく知っている。ただ、アイラがあまりにも冷静に受け入れているので、少し驚いた。やはり、五千年というインターバルは物事を考え、達観の領域に至るに値するほどの時間だったのか。
「……大体、お前はなんで自分が死神なのか、知っているのか?」
「……アイラ」
おれは静かにアイラを制止する。こいつが望んで失わせた記憶を、わざわざ取り戻させてどうするというのか。それでは意味がない。
リクヤは思いがけないところを衝かれて戸惑っているようだった。きっと、考えたことがなかったのだろう。当然だ。その罪の記憶は消されているのだから。
わざわざ思い出させる気はないのか、アイラはそれ以上は何も言わなかった。
「そんなことより、治療しますよ。二人共、私の部屋に来てください」
空気を読んだのか、キミカが話題をぶった切る。
「って、おれもか?」
「ええ」
おれは怪我はしていないのだが……
それとも、アイラが自傷していたことに関する事情聴取だろうか。うーん……怒ったキミカは怖いからな……
まあ、拒否権がないことくらいは知っている。素直についていくのが吉だろう。
リクヤをリビングに置いて、おれたちは扉をくぐった。
マザーの気遣いかどうかは知らないが、おれたち虹の死神には個室が与えられている。行きたい部屋の認識さえしっかりして扉を開ければ、自由に行き来できる。当初はあまりにも感覚的すぎるそれが上手くできなかったが、まあ、何百年かで覚えた。
キミカの部屋はいつも夜空の窓がある。月の光が射し込んで、灯りの灯っていない街灯が呆然と立ち尽くしているように見えるのが印象的だ。
内装は、ベッドにクローゼット、机に背の低いソファとシンプルな家具だが、小物がペールカラーで統一されており、きつくないお洒落さを醸し出している。キミカらしい部屋だ、となんとなくだがいつも思う。
クローゼットの中には、マザーの気紛れで着替えが入っているが、普段はどの部屋も空だ。ただ、キミカだけはクローゼットの中に大切そうに救急箱を入れている。おれやユウヒの部屋にはないから、おそらくキミカの部屋だけにあるのだろう。
慣れた手つきで救急箱を開け、消毒とガーゼと包帯を取り出す。慣れた手つきなのは、いつもユウヒの治療をしているからだろう。どうやら、おれたちの意識の中でも、マザーの意識の中でも、キミカは治療役という認識なのだろう。
キミカはそれをよしとしている。自傷行為にはいい顔をしないが、それでも怪我は怪我、と割り切っているようだ。ガーゼに消毒液を染み込ませ、患部を拭いていく。消毒液なんて、傷口に直接ぶっかけるものだと思っていたおれからすれば、その丁寧な作業は目を見張るより外なかった。
キミカは元々病弱で、病院暮らしが長かったから、その中で習得していったのだろう。
「……全く。自傷なんて、ユウヒさんくらいしかしないものだと私は思っていましたよ」
溜め息混じりにキミカが言うのに、アイラがうっと呻く。
癖になったらどうするんですか、というキミカの指摘に、アイラは俯いた。返す言葉もないのだろう。
と思ったが。
「……もう、癖になっている」
そんな言葉がアイラから零れた。
「無駄な殺しをしないために、俺は何千年も、手首を傷つけてきた。『藍色の修羅』と呼ばれたときから──俺は誰かを殺してしまうかもしれない存在である自分が怖くて怖くて仕方なかったんだ」
藍色の修羅──アイラの名前の由来と言われるその名について、おれたちは特に取っつかずにいた。しかし、おれたちの想像以上に、その名が持つ意味は大きいのかもしれない。
アイラは、今や同じ「虹の死神」という存在だ。おれなんか比にならないくらいの罪を犯しているかもしれない。だとしたら、長い付き合いになることだろう。こいつのことを知っていてもいいだろう。
そう思って、アイラの話に耳を傾けていた。
「お前たちは吸血鬼をどういう生き物と認識している?」
「教典によりますと、生きとし生ける物の生き血を啜り、己が生きる糧とする生き物、とされていますね」
「キミカの言う教典とやらは知らないが、おとぎ話でも、血を吸う生き物という認識だったのは覚えている」
教典というのは、宗教関係の読み物だろうか。フィウナなら詳しかっただろうが、おれは知らない。
まあ、キミカは神子と奉られていた立場だから、普通より詳しいのかもしれない。更に朗々と続ける。
「一説によると、吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼になる、吸血鬼の血に触れた者、吸血鬼から血を与えられた者は吸血鬼になる、とも言われていますね」
「それは違う。セッカの言う通り、おとぎ話さ」
ふむ?
ということは、本当の吸血鬼の性質というのは、伝承やおとぎ話の類とは全く異なるもの、ということか。
「生き物の血を吸うのは、まあ、当たっている。けど、お前たちは『何故吸血鬼が血を吸わねばならないのか』を知らないだろう?」
「生きるため、ではないのですか?」
「違う」
アイラはきっぱりと言った。
「正確には『愛を求めているから』だ。人間は日常的な会話やら、特定の行為やらを『愛』と定義しているようだが、吸血鬼には、それが理解できない。言葉で愛を伝えたり覚えたりすることはできるけれど、本質的に吸血鬼にとっての『愛』とは『液体』だ」
あまりにも突飛な話に頭のよろしくないおれはついていけない。キミカも同じらしく、どういうことですか? と問いかける。
「つまり、吸血鬼が血を吸うのは、『愛』を求めているからなんだよ」
それはまた、滑稽な話だ。
「愛をください」「愛をください」と吸血鬼は血液を求めるわけだ。糧ではない。嗜好品、というわけだ。
「血を他より多く求める、ということは、それだけ愛に飢えている、ということなんだ。俺は生まれたときから、『愛に飢えた吸血鬼』だと認識されて生きてきた。だから差し出された血を貪った。その姿を恐れて『修羅』なんて大層な名前がついたのさ」
アイラが視線を落とし、小さな小さな声で告げる。
「そんな腫れ物の俺に、本当の『愛』を教えてくれたやつがいた」
本当の愛。おれには縁のない言葉だ。
愛を語れるのは、愛されたことがあるからだ。……愛されたことのないやつには、到底理解できない話である。
……ああ、フィウナには愛されていたか。
けれど、荒んでしまったおれの愛への理解ではとても優しい顔をして語るこいつの愛は理解できないだろう。
「アル……アルファナは、俺の婚約者だった。最初は家の取り決めだったが、そんなこと関係なく、俺もアルも互いを愛した」
そんなアルファナとも、もう会えるかわからないのだが。それを思ってか、アイラはぐっと拳を握りしめた。
「だから……見ないでくれ」
「え?」
目線を向けられたのは、キミカだった。突然、言葉を自分に向けられ、キミカは目を白黒とさせた。
「もうこれ以上、愛してはいけないんだ。愛したくないんだ。……俺は、愛を、貪ってしまうから」
だから、構わないでくれ、と。
アルファナと同じ目をしたキミカにそう言って、アイラは去った。




