燈のない道へ
それから、数百年、いや、数千年が経ったのだろうか。外の時間感覚はよくわからない。
「そろそろ、お別れですね」
アリアがふと呟く。耳元に触れていた。耳の裏には残り一桁の数値が刻まれている。フランの罪は重く、最初は五桁だったものの、ここまで罪を減らした。時間はかかったが。
一桁。それなら、あと一つの任務でどうにかできるかもしれない。
「……お別れか。なんだか、過ぎてみるとあっという間だったような気がする」
「でも、色んなことがありましたよね」
確かにその通りだ。まず、ストリートチルドレンの失踪事件があった。それを調べていくうちに、竜鱗細胞実験に辿り着いた。多くの犠牲が出たことで、研究員たちを刈りに行ったアルファナとユウヒが竜鱗細胞に適合したフランに出会う。
それから、フランを倒せないことを悟り、マザーから彩雲の死神というシステムを作ることになった。フランをマザーが殺そうとしたことがあった。それを止めたこともまだ記憶に鮮明に残っている。そこから「死んでいない死神」という存在が初めて誕生したのだったか。
おれが目論んだ通り、フランがアリアを願い、アリアが死神として復活したこともあった。アリアはフランと運命共同体となり、初めて行った任務先で任務を拒否したこともあった。
あるときまで、フランは髪が伸びていた。それをアリアが三編みにしていた。アリアはキミカに髪を弄られ、ハート型にされたことがあった。そこから、愛というものを二人は築き上げた。きっと、二人が人間だったなら、円満な家庭というものを築いていたかもしれない。だがそれはないものねだりというやつだ。
おれは残酷な目に遭ったが、どうやら、竜鱗細胞という存在はこの世から消え去ったらしい。アーゼンクロイツ邸全焼以来、怪しい話を聞かない。
だが、そんな、一見平和になったような世の中でも、残るものはあった。おれたち死神が存在し続けていることからもわかるだろう。……世の中から罪というものはなくならない。なくなる様子を見せない。
今日も、フランは任務に行っている。おそらく、アリアの言った通り、今日が最後になるのだろう。今日の任務を終えれば、フランは死神として浄化され、運命共同体であるアリアも消えていなくなる。
フランは二十歳くらいの容姿になってから、成長が止まったようだ。髪はあまり伸びないが、たまに切る。……今日はばっさり切っていった。腰まであった髪を肩口の辺りまで。結構な質量だった。かなり身軽になったことだろう。
髪を切るというのは、今日突然言い出したことだ。最初は不思議に思ったが、アリアとフランの髪型を見て納得した。
アリアは今日は一人で髪を結った。キミカが物寂しげにしていたが、アリアがサイドテールに、フランが項で結ったのを見、おれたちは二人の意図を悟った。
最後は、出会ったあの頃の姿に戻って、還る。そう決めていたらしい。おれたちが口出しするようなことではない。
「今まで、色々、ありがとうございました」
「いや、おれは特に何もしてないよ」
突然礼を言われて戸惑う。アリアはそうですかね? と首を傾げた。
「あなた方が竜鱗細胞実験を見つけて、研究を止めてくれた。私の実家のことを知って、フランを仲間に入れ、私をこの場所に連れてきてくれました。あなた方が色々考えてやってくれなければ、実現しなかったことです。……そうでなきゃ、死んだはずの私がフランと再会するなんて奇跡、起こりはしなかった」
そう言われるとその通りだ。おれとしてはマザーへの意趣返しとして考えただけだが……この子たちが幸せになれたのなら、何よりだ。
奇跡、か。確かに、死んだはずのアリアが今ここに存在するのは常識的にあり得ないことだ。死んだ人間は蘇らない。死神というシステムであるからこそ、可能となったことだろう。あるいは、マザーの未だによくわからない願いを叶える力というやつの賜物とも言えるだろう。
そうして、フランの帰りを待つ。もしかしたら、任務を終えた時点で浄化されるから、浄化されるときに共にあれるとは限らないが。
だが、しばらくすると、扉が開いた。翡翠色の髪をした青年が入ってくる。随分逞しくなったものだ、と少し感慨深くなった。
「任務、終わってきました。……アリア」
声をかけられると、アリアは仄かに笑む。
「フラン、おかえりなさい。……お疲れさま」
「うん、ありがとう」
ほんわかとした空気が流れ、リビングの雰囲気もよくなる。別れの悲しみより、新たな旅立ちを見送るような気分になっていた。
そんなとき。
『さて、アイン』
マザーの声が唐突にした。フランに植え付けられた人格に呼び掛けるものだった。それに呼応して、フランの雰囲気が瞬く間に変わる。変わるといっても、当初から比べたら、そんなに大袈裟な変化ではない。だが、長年付き合ってきたのでわかる。今、彼はフランではなく、アインになった。
アインは思慮深そうな表情で、空中を見上げる。実体のないマザーがどこにいるのかはわからないが、なんとなく、探してしまうのは、虹の死神も同じだ。
今から浄化されようというときに、マザーは一体何の用だろうか、とおれは耳を傾ける。すると、マザーはつらつらと述べた。
『アイン、あなたはフランと同体です。死神となっても尚。故に私はあなたも彩雲の死神の一人として認めています。
虹の死神と彩雲の死神には願いをなんでも一つ叶えられるという特権があります。フランの願いは叶えました。あとはあなたの願いを叶えたいと考えるのですが、あなたは何を望みますか?』
それは問いかけではなく、確認のようだった。アインは表情を崩さず、すぐに答える。
「僕は、フランが幸せなら、それでいいんです」
真っ直ぐ答えたアインだったが、マザーが言い返す。
『違いますね。あなたは本当はあなた自身の願いをお持ちでしょう?』
マザーの指摘にアインが黙る。図星、ということだろうか。
だとしたら、アインは何を望むのだろうか。アインをちらと横目で見る。アインは口を開こうとしない。
マザーが止めのように告げる。
『あなたが望むのなら、私はどのような形を取ってでも、あなたの願いを叶えることができます。
例えば、時間を越えて、アリアの死をなかったことにし、人間として、フランとアリアに幸せをもたらすこともできるのです』
その甘言に、アインはぎくり、と体を硬直させる。まさか、それが願いだったというのだろうか。
アインは首を縦にも横にも振らない。アインはアインなりに竜鱗細胞実験の生け贄になった子どもたちのことを考えていたのだろう。
小さく開かれた唇は、微かに震えながら口にする。
「時間を書き換えるというのは、禁忌なのでは」
そう、それはあり得ないし、あり得てはいけない。そう思ったのだが。
『あなたたちは勘違いをしているようですね。この死神界には時間という概念が存在しません。ですから、扉を開けた先の世界が必ずしも未来になるとは限らないのです』
つまり、過去は変えられる、ということだ。
アインの目に迷いが生じる。聡明なアインのことだ。時間を書き換える代償というものを考えているのかもしれない。
アリアの死をなかったことにすれば、様々なことが変わる。フランは竜鱗細胞で暴走することもなかっただろうし、死神になってからの幸せな日々までもがなかったことになる。
最初から幸せな日々を築くことと、幸せだった未来を保存すること。どちらも選びがたい。
アインは一旦目を瞑り、拳をぎゅ、と握りしめた。
「それでも僕は、過去を変えるなんてことはしません。……これ以上、フランもアリアも苦しめたくないから……」
『そうですか』
マザーがそれを聞き届けると、フランとアリアの体が透け始めた。浄化が始まった。
「さようなら」
そう残して、二人は消えた。
二人が消えると、マザーがまた何やらぶつぶつと呟く。
『何がいけないというのでしょう。人生がやり直せるんですよ?』
そんなマザーにおれは告げた。
「それだけが、望む未来に繋がるとは限らないのさ」
マザーはわかりません、と呟きながら、次第に声が空に溶けて消えていった。
また一つ、死神の物語が終わったのだった。




