藍よりも青く
死神のマントがひらりと虚空から落ちてきた。おそらく、マザーがもたらしたのだろうと思われる。
本来なら死人にかけて不老不死にするのだが、今回は少し違う。今回死神になるのは生者であるフランだ。
フラン──アインにマントを渡す。
「これが死神の証になる」
「普通のローブに見えますね」
『マントです』
そこは譲らないのか、マザー。
マザーの拘りはともかく、アインはマントを羽織り、すぐに呻いた。
「ぐっ、あがっ……」
苦しそうだ。琥珀の瞳が赤に変わり、頬を鱗が這う。これが竜鱗細胞の発動状態なのだろう。
しかし、何が起きている? マントを羽織った途端にこれとは。
キミカが何かを察したように口を開く。
「マザー、これはまさか、生者を死者に変えようとしている?」
『ご名答です、キミカ』
まさか。
生者を死者に変える。つまり、マザーはこのマントでフランを殺しているということだ。
『そのマントは生者では被れません。だから、死神になれるのは死者だけなのです。ならば死神にするのが生者の場合、どうしたら良いか。その結論がこれです』
「フランとアインを徒に苦しめて何になる!」
『何を言っているんですか? 二人は人間じゃないでしょう』
マザーの冷たい宣告に背筋が凍った。
人間じゃない。人間じゃない。
マザーの宣告ばかりが頭の中で渦巻き、返す言葉がない。そんな中、フランとアインは未だに苦しみ続けている。きっと、体に植え付けられた竜鱗細胞が死に抵抗しているのだろう。
おれとキミカが何も言えなくなる中、一人だけ、黙っていないやつがいた。
リクヤだ。
ぎらりとその緑に燃えるような目を持ち上げ、空を、どこにいるとも知れないマザーを睨み付ける。
「フランとアインが人間じゃないだと? 何をふざけたこと抜かしてんだ。寝言は寝てから言いやがれ」
威勢よくリクヤは続ける。
「大体、フランは研究員の勝手な都合でこんな体にされちまったんだろうが。それをどうして責められるっていうんだ」
『フランはそうかもしれませんね。ではアインは? 彼は人間の手によって作られたものです』
「ああそうだよ。アインはあくまで人工知能だ。だがな、ただの機械が、他人を思いやれるのか? 一人の少女の弔いを願うのか?」
リクヤの鋭い問いかけに、珍しく理屈こねの得意なマザーが沈黙する。返す言葉がないということだろうか。
おれは信じられないものを見るような思いだった。
「元々機械だろうが人工知能だろうが、そこに意志があったことを、何にも知らないあんたが否定できるわけないだろう!? ただ見ていただけの人でなしの慈母さまよぉ?」
リクヤの言う通りである。だが、マザーにここまで真っ向から言ったのは、彼が初めてだったんじゃないだろうか。おれたちは思いこそすれど、口にすることはなかった。
リクヤの言う通り、譬、人間に作られたものだったとしても、誰とも知れないおれたちにメッセージを残し、死者を悼む心を持っているアインを、人間じゃないと果たして否定しきることができるのだろうか。おれには……できない。
だから、リクヤの言葉を受けて、おれはすぐに動いた。
苦しむフランの体から、マントを引き剥がそうとする。マントの内部は信じがたいことに正体不明の触手まみれで、その触手はフランの体を食い千切ろうとしていた。無数に生えたぎざぎざの歯が竜鱗の固い皮膚に立っている。竜鱗細胞というのがどんな感覚を持つものなのかは知り得ないが、最強と謳われる竜鱗細胞をも噛み砕くこの触手たちの歯の威力は測るべくもないだろう。だが、おれは恐れることはなかった。力づくで、マントを引き剥がす。それはきっと、今この場面でおれにしかできないことだから。
フランの体から、べりべりと嫌な音がする。壁からテープを剥がすような音であり、決して人からしてはいけない音だ。
だが、おれは躊躇うことなく剥がした。躊躇えば、その隙を衝いて、触手たちが再びフランの肌に吸いつこうとするだろう。それをさせてはいけない。……フランにあまり竜鱗細胞を使わせたくはなかった。砂漠の研究施設の惨状が蘇る。あれは人間業じゃない。だが、フランを人間じゃないと否定したくなかった。
それに、竜鱗細胞の危険性も知っている。いくら適合したとはいえ、フランが今後、アリアのように竜鱗細胞に食い尽くされないとも限らない。
固い竜鱗に覆い尽くされたら最後、内臓が機能しなくなる。内臓まで固い鱗に覆われてしまうからだ。
『何故ですか』
マザーの問いかけは淡々としていた。
『死神にするために死なせることの何がいけないというのですか。あなたたち人間というのはつくづく理解できません。人外の力を宿し、破壊の限りを尽くした少年に、何故それほどまでに肩入れするのですか?』
「それはなぁ」
マザーの疑問に、リクヤが間髪入れずに答える。
「あんたが、人間じゃねぇから理解できねぇんだ。あんたが人間の心を持ち合わせていたんなら、こんなの、疑問にもなりゃしねぇぜ」
マザーが、人間じゃないから、か。
確かに、慈母神を語るマザーは人間らしからぬところがある。決断だって冷酷無慈悲だし、判断だって、残酷だ。だが、そんな彼女もかつては人間だったはず。クレナイという名前の人間だったはずなのだ。それが、慈母神になってしまったことによって、人間としての心が失われてしまったのだろうか。慈母というものに最も欠けてはならない「心」が、マザーの中にはないのだろうか。
おれは悲しく虚空を見つめ、それからキミカにフランの治療を頼んだ。キミカの傷を治す「月の魔力」の能力はエネルギーを使わなければ、昼間にも使える。
キミカがフランの治療をしている間に、おれはフランに与えられた死神のマントの処断に思考を巡らす。マントは普通の布だと思うのだが、さて、燃やして消えるものだろうか。
マントをどうするか考えていると、マザーの言葉が滔々と頭の中に流れてくる。
『私の何が間違っているというのですか。死神にするために死ぬのを待つのもいけないのですか。死なせるのもいけないのですか。人間ってなんですか。私はマザーです。人間の倫理など知ったことではありません。私はただ、死神を統括するために存在しているのです。そう、死神のために存在しているのです。その私が何故、死神から否定されなければいけないのでしょうか。何故彼らは私を間違っていると叫ぶのでしょうか。私にはわかりません。わかりません……』
どこへとも知れぬ場所へ消えていくマザーの声を聞きながら、少し痛む胸を押さえた。
マザーはマザーとして、決して間違ったことをしているわけではないのだ。死神を統括する立場としての理念に基づいて行動している。マザーが行っていることは、マザーからしたら、何一つ間違ってなどいないのだ。ただ、マザーと人間という存在が違いすぎて、折り合いがつかないだけ。
「人間っていうのはな、心を持ってんだ。それこそ間違って、人を殺したり、貶めたりすることもある。だが、それだけじゃねぇんだ。だから人間には人間の倫理っていうものがあって、信念というものがあって、心を成していく。それはとても完全と言えたもんじゃない。だがな、人間からその不完全性を取り除いたら、一体何が残るってんだ? 不完全だからこそ、人間なんじゃねぇか?」
リクヤの言うことは青臭い。だがとても人間らしく、正義感に満ちている。
だが、リクヤの言うように、青くても人間……いや、青い不完全な果実だからこそ、人間は人間なのだ。
赤く熟すのは死ぬそのときだけでいい……




