燈に染まる罪
「待てとはどういうことだ? マザー」
これまでおれたちの調査活動を容認してきたマザー。それが今、待て、という。
『貴方たちの推測通り、竜鱗細胞実験は行われています』
「……アンタは、知ってたのか」
低く怒りを滲ませた声でリクヤが問う。すると、何の悪びれた様子もなく、マザーは肯定した。
『罪に繋がりかねないものを監視するのは死神を統括する者として当然の責務です。「外」の状況も把握していて然るべきでしょう』
「なら何故今まで黙っていた?」
おれが低く問うと、マザーはあっけらかんという。
『セッカ、貴方が言ったのでしょう? 我々死神は未遂の段階では動けないと』
「だから助けられる何人もの命を見過ごすというのか!?」
『助ける? 何を仰っているのです?』
マザーが冷えきった声で告げる。「死神」という存在の残酷な真実を、本質を。
『死神というのは罪を犯した者のみを救うことに特化したモノです。罪のない者に干渉することは許されません』
つまり、今実験動物として扱われているであろう罪なきストリートチルドレンを救うことは、死神にはできない。
できるのは子どもたちをみすみす死なせた「外」の罪人を裁くことのみ。
リクヤが唇を噛む。
「つまりは見殺しにしろってことかよ!?」
『それが何か?』
淡白に答えるマザーにおれたちは絶句する。
マザーの元は人間で、ユウヒの友人だったことを知っている。だが、マザーにはその「人間の心」が残っていない。
いくらでも非情になれる。
かつてこの慈母を司るというマザーを神と呼び、崇めた者があった。
人々は口々に言う。神に対する理想を。
曰く、人々のためにあれ、と。
曰く、完全であれ、と。
完全とは何か。超然としていることだろうか。
超然とは何か。物事の柵に囚われないことだろうか。
物事の柵に囚われなくなると、そこには情けなど存在しない神が生まれる。その結果がマザーなのだろう。
人間であった時代があるから人間の心を持ったままでいる、と考えるのは、間違っているのかもしれない。
マザーは、マザーだ。
「知っているのなら、何故私たちが調査に行くのを黙認したのですか」
キミカが震える声で問う。マザーに人情を説くことはできないと思ったのだろう。
確かに、今こうして止めるくらいなら、わざわざ調べさせる必要などあったのか? 知らなければ、おれたちはマザーの言うところの「干渉」をするつもりにはならなかった。
『それはとても簡単なことです』
マザーが言うと、そのタイミングを待っていたかのように、死神界と外とを繋ぐ扉が開いた。
ユウヒの帰還だ。
ただ、入ってきたのはユウヒだけではなかった。
「アルファナ!?」
死神になってから任務の当たりが悪く、死神として生き続けることになった藍色の髪の女性が、ユウヒに姫抱きにされている。戦闘でもしたのだろうか。ずたぼろで、あちこちから血を流している。
『ユウヒ、帰りましたね。報告を』
マザーは動じた様子もなく、ユウヒに問う。おれたちもアルファナの負傷した状態に面食らって黙っていた。
ユウヒは無表情で口を開く。
「はい。
貴女の指示により、向かった砂漠の研究施設は、破壊されているところでした。
そこにいた研究員は皆殺しにされており、その場で暴れていた犯人であろう少年を刈ろうとしましたが、その圧倒的な戦闘能力により、返り討ちに遭いました。
アルファナは今回も任務は達成できませんでした」
「なっ、まさか……」
砂漠の研究施設。
圧倒的な戦闘能力。
それが示すものとは、もしかして、
「ユウヒの任務は竜鱗細胞の研究施設の……」
研究員の始末、ということか。と思ったが、話がおかしい。
研究施設は破壊され、研究員は皆殺しだったという。それでは任務が達成できないのも当然だ。標的が死んでいるのだから。
問題は暴れていたという少年。
死神は速やかに任務を遂行できるように、人間だった時代より、身体能力を底上げされている。アルファナは元々は吸血鬼だ。吸血鬼の身体能力は元来人間より遥かに上回っている。そんなアルファナが死神になって強化されて、どれほどの能力値になったのかは知りようがないが、そこらの人間に負けないことは明白だ。
それが、人間の少年に負けるだろうか。
──竜鱗細胞という言葉が脳裏をちらつく。
「研究施設にかろうじて残っていた資料を拝借して参りました。ざっと目を通しましたが、そこから推測するに私とアルファナが遭遇した少年は被験者01と呼ばれる、竜鱗細胞の唯一の適合者だと思われます」
『報告、ご苦労様でした。アルファナはキミカの治療を受けてから霊凍室に戻しましょう』
「竜鱗細胞実験は成功していたというのか!?」
おれが叫ぶのに、マザーは反応しない。代わりに、ユウヒが持ち帰ったらしい資料を机に置いた。
「読んでみるといい。竜鱗細胞実験の詳細が書かれている」
恐る恐る、資料を手に取る。そこには被験者ごとのその日の実験内容……というより、竜鱗細胞の適合を高まらせるため、と称した非情な実験内容が記されていた。吐き気がする。
一ヶ月の絶食実験、水中に四十八時間沈める実験、真空にした空間に閉じ込める実験……いくつもの非人道的な実験の数々が書かれ、何番失敗、何番成功、などと淡々と綴られている。
生き抜けるわけがないであろう実験を、それでも生き抜いたのが、被験者01という少年だった。仮適合実験でも、適合率九十パーセントを超える好成績。もはや人間ではない、生存能力のレベル。それは、少年にとって不幸だったのか、幸いだったのか。……推して量るべしである。
「まさかとは思いますが、マザー」
キミカがアルファナに応急手当てをしながら推測を述べる。
「私たちを泳がせていたのは、『時間稼ぎ』ですか」
『よく気づきましたね』
聞いていたリクヤがこれでもかというほど拳を握りしめる。
そんなことに構わず、マザーの声は続く。
『貴方たちが真実に辿り着くまで。それは私にとって時間稼ぎに過ぎませんでした。何故なら事は貴方たちが想定するよりも早く進み、罪人は順調に罪を重ねていたのです。刈りの対象になるかどうかは時間の問題でした』
つまり、おれたちが今更動いたところで、どうにもならなかったのだ、とマザーは言いたいのだ。
『ですが、予測外だったのがその被験者01の少年とその強さですね。彼が完成する前に対処すべきでした』
がたーんっ
マザーの言葉に荒々しい音を立てて立ち上がったのは、リクヤだった。
「完成する前とか、対処すべきだったとか、お前は人間を何だと思ってるんだ!?」
リクヤは激昂していた。怒りに顔を赤くし、どこに居るとも知れぬマザーを睨み付けるように、元々悪いその目付きを中空に据えていた。もちろん、マザーはどこにも存在しないのだから、その怒りに障ることはないだろう。
『何故怒っているのです? 私がしたのは当たり前のことです。私は死神を統括するマザー以外の何者でもありません。罪人の生まれる兆候を見つける責務、死神が罪を妨げない責務を負うだけです』
死神が罪を妨げない……?
つまり、罪人が生まれる前提で、世界が動いているということか。
「もし、そうなら」
リクヤが叫ぶ。
「アンタは最低だ! アンタに回されてる、この世界もな!」
『貴方が最低と称したところで、世界は何も変わりませんよ?』
それも、その通りだ。
けれど、リクヤは威勢のいいことに言い返す。
「そんなもの、オレがいつか変えてやる!! 死神という立場で何ができるかわからない。だが、必ず何かを変えてやる!!」
『願わなくて良いのですか? 虹の死神には願いを叶える権利があります』
「んなもん必要ねぇ!!」
こんな残酷な世界を変えてやる、とリクヤは吠えた。
おれたちに一体何ができるのだろうか、と思ったが、リクヤの本気の眼差しに、何も言えなかった。




