赤く滲む世界
さくり、さくり。
静かに部屋の中で繰り返されるその音は、普通なら非日常的なもので、おれにとってはもう『いつものこと』となりつつあった。
しかしいくらいつものこととはいえ、ずっと見ていると、居心地のよくないものだ──ユウヒが自らの手首に、刃を入れる様は。
元々人間の体から成るおれたち死神は、体の構造は不老不死であること以外、何ら普通の人間と変わらない。例えば、手首を切れば、血が出る。手首じゃなくとも、傷がつくし、治るまではそれなりの時間を要する。死にこそしないが、そんな体だ。
故に通う血はやはり赤く、ぽたぽたと床に零れ落ちていく。またか、と思いながら半ば冷めた心地で床に敷かれたカーペットに染み渡る赤を眺めた。
最近、ユウヒの自傷の回数が増えてきた。それとは対照的に、口数が減った。ユウヒの行動、行為には、何の感情も伴っていないように見えるほどに。
「おい、またやってんのかよ」
そこへ、不快感も露に、リクヤが声をかけ、ユウヒの座る椅子を蹴る。「カーペットが汚れんだろ」「胸糞悪いからよそでやれ」──いちいちごもっともな悪態だ。が、ユウヒは全く応じない。ただ義務で動く機械のように、傷口にす、と刃を刺し込み、赤い流れを滴らせていくだけだ。
リクヤも毎日のやりとりの変化のなさに飽きたのか呆れたのか、それ以上は何も言わず、虫の居どころが悪そうにしながらも、ソファに座る。
そこへ、外に無料新聞をもらいに行っていたキミカが帰ってくる。キミカがユウヒの傷に仰天して、ユウヒを介抱するのも、もはや恒例となっている。
キミカは治癒能力を持っているが、月の魔力は月の出ている夜にしか使えないという非常に限定的な能力らしい。以前、夜に雨が降って使えないということもあった。なんて能力だ、と今にして思う。
キミカに手当てされたところで、ユウヒがようやく我に返る。……といっても、自傷を悔いたりすることはない。むしろ、ああ、またか、といった諦念が滲んで見られる。
「ちょっとユウヒさん、しっかりしてください。ここでは貴方が年長者なんですから」
ユウヒの自傷痕を痛ましげに見つめて、キミカが言う。するとユウヒの口からは、乾いた笑みが零れた。
「は、は……最近何か危機感がすごくてね……私はまだ、ここにいなくちゃいけない、死神で、いなくちゃ」
呪文のように、ユウヒはそう繰り返す。
別に、ユウヒは既におれたちに様々なことを教えてくれた。わざわざ自傷という罪を繰り返してまで、ここに留まらなければならない理由はないはずだ。
それとも、まだ何かあるのだろうか?
──例えば、待っている、とか。
何を?
考えても仕方ない。ユウヒの考えはユウヒにしかわからないのだ。
キミカもそう考えたのか、ユウヒの手当てを終えると、ソファに座ってもらってきた新聞を読み始めた。
「わ、これ私が住んでたのの隣街じゃないですか……」
キミカが一ページ目を開いて、声を上げる。興味を引かれて寄っていくと、リクヤやユウヒも同じだったのか、新聞を覗き込んでいた。
「何々……ストリートチルドレン失踪?」
なんとも珍妙な見出しをリクヤが読み上げる。キミカが顔色悪く、ええ、と頷いた。
ストリートチルドレン……長たらしい名前がついているがつまりは家のない孤児だ。孤児院にすら入れず、路地で暮らす子ども。おれもまかり間違えば、この中にいたかもしれない。どちらの暮らしがましだったか……というのは、今考えても仕方のないことだろう。
しかし、妙だ。ストリートチルドレンの失踪なんて、普通は気にも留めないのではないか。ストリートチルドレンはともすれば、社会的に存在していない存在だったりする。失踪した、と然るべき場所に連絡しても探してすらもらえない。そりゃ、『いない』やつを探すなんてできはしないからな。
そんな存在を『失踪』と表記するのはおかしなことだ。不審に思い、一同が食い入るように記事を見る中、キミカが読み上げた。
「近年、増加傾向にあり、商店の物品の盗難等が相次いで、問題となっていたストリートチルドレン。昨年調べではレクエロ街だけでも三百人ほどのストリートチルドレンが確認されており、流通で栄えるレクエロ街はストリートチルドレンによる多大な被害を受け、対策に走っているところだった。
しかし、調査員が先週調べに行ったところ、レクエロ街のストリートチルドレンは激減しており、盗難等の被害もなくなっているという。が、ストリートチルドレンの死を示すものは何もなく、街の住民に聞いても『そういえば最近は見かけなくなった』など、曖昧な情報しかない。
昨年調べた際に最も人数がいた、ハナクラストリートに足を向けた調査員だったが、そこには子どもが一人もいなかったという。
ストリートチルドレンが根城を移したのではないかという説があるが、その日暮らしのために食物の盗難をするのに、流通の盛んなレクエロ街以上にうってつけの場所は近くにはない。そんな場所を捨てて、子どもたちはどこへ行ってしまったのか。甚だ疑問である」
それが記事の内容だった。
だが、端から見たら、それがどうした、という内容だろう。他に取り立てたニュースがないからこれにしたのだろう。
記事の様子からして、記事にしたものの、それ以上の調査をするつもりがないのが窺える。それも仕方あるまい。これがちゃんと家のある普通の子どもとかだったなら、誘拐事件の疑いをかけ、捜査にあたるだろうが、いなくなったのは、ストリートチルドレン。おそらく、記事には妙だとか書いているが塒を移したくらいにしか考えていないのだろう。故に、これ以上調査が進むことはあるまい。
もしこれが、「ストリートチルドレンの突然の大量死」とかなら色々動いたかもしれない。まあ、もしもの話をしたところで、現状は変わらないのも道理。
しかしながら、なんとも珍妙な事件だ。世間はおそらく事件とすら思っていないだろうが……三百人もの子どもが、ストリートチルドレンとはいえ、失踪するというのはかなりの異常事態だ。失踪とは、死んでいるより恐ろしい。子どもたちがどうなっているのか、全く読み取れないのだから。
それにおかしな点が一つ。ストリートチルドレンばかりがいなくなっていることだ。
ストリートチルドレンとは先も説明した通り、行き場のない子どもだ。故に誘拐しても害とは見なされない。譬、身代金が目的だとしても、ストリートチルドレンなら、脅す相手がいないからな。
しかし、三百人ほどの大勢の子どもが偶然にも忽然と皆、塒を変えに出るだろうか? 可能性はあるにしても限りなく低いだろう。それならば、誰かに拐われたと考える方が自然だ。
しかし、一体何の目的で? 考えれば考えるほど意味がわからない。──まあ、おれたち死神が、外の世情に関わったところで、何も意味はないのだろうが。
そう判断しておれやユウヒなどは流すことにしたのだが……同じ結論に至りながら、同じように判断することができない者がいた。
「子どもがいなくなってるってのは痛ましい事件だな」
そう、我らがヒーロー気取りの彼は、眼鏡のブリッジを持ち上げて言った。
「なら、俺たちが解決しようぜ!」
正義感満載な様子でそう言い放ったのは言わずものがな、リクヤだ。眼鏡の奥の緑の瞳は既に爛々と闘志に燃えている。
その意気はいいのだが。
少し、溜め息を吐きたくなった。
無意味な行動を、正義感を振りかざして行う……嫌いではないのだが、この事件に限って言えば、
驚くほどに証拠も何もなく、一からのスタートなのだ。正直なところ、付き合ってられない。
しかし、その場の誰も、この緑を止める言葉は持っていなかった。残念なことに。




