赤紅の神
クレナイは私に名前をくれて、唯一、おそらく「普通」に接してくれた。
クレナイと接するようになってから私はようやく自分が「異常」だということを知ったのだ。周りや、父母にすら一線を引かれていると。クレナイはその線の中に易々と入ってきた。
その位置関係というのは、不思議と心地よくて、私はあっという間にクレナイと打ち解けた。
ユウヒという名前になったことは特段、他の誰かに伝えることはなかった。ただ、クレナイと一緒にいるときに、ユウヒと呼ばれているのを目撃した何人かがひどく驚いていた。
あれは忌まれ子なのに、神子なぞに名などもらって……
そんな声も聞こえたが。
「ユウヒ、どうかしました?」
「……いえ」
私は、クレナイといられれば、それで別によかったし、それ以外のことなんて気にならなかった。
クレナイは、神子としてかなり力があったらしく、ある「神」の信仰を広めてその「神」の力を顕現するために奔走しているのだという。「神」が世に顕れてくだされば、世界はいくらか救われ、人間に楽なものになる、とのこと。よく聞くような文句だ。
「世界を救ってどうするんですか?」
素朴な疑問だった。投げ掛けると、クレナイは笑った。
「どうするもこうするもないですよ。それがわたくしの役割なのなら、果たすだけ。──人の役に立てれば、それでいいんです」
人の役に立てれば。クレナイのその一言は、私の望みにも一部引っ掛かるものがあった。人の役に立てれば、私は存在を許されるのだろうか。そんな、考え。
それなら、クレナイの手助けをすれば、それで私の存在意義は完成するのではないか?
そんな結論に至って、私はクレナイの布教活動に手を貸すようになった。彼女が崇める神が、どんな神であるとも知らないで。
教会の建設には、多くの村民が反対した。
どこの馬の骨とも知れぬものの言うことなど聞けるか、といった、よく聞く類の反論だった。名前持ちのクレナイを敬ってはいたが、譲れない一線というものがあるのだろう。クレナイと村民は揉めた。
世界を救うために必要なこと──クレナイはそう言って村民を説得したが、「世界を救う」なんてあまりにもぼんやりした目的だし、自分たちの現状に何の不便も感じていない村民はただただ反対した。特に理由はない。それはどちらも同じように思えた。あまりにも無意味なやりとり。見ているだけで空しくなった。
「……何故救いをわかってくれないのだろう?」
クレナイは悩んでいた。私はそれに答えることができない。「救い」なんてぼんやりしたもの、私には到底理解できなかったからだ。思えば私には事の利害というのがまるでわかっていなかったのかもしれない。それどころか、常識さえこの期に及んで理解していなかったのかもしれない。
理解、とは一体何なのだろうか。
その疑問を得て、私はようやくその問いを口にした。
「クレナイ、君の崇める神とは一体どんな神なんです?」
「慈しみに満ちた、ありとあらゆる憂いを取り払う神です」
結局、
その神という存在も不明瞭だった。
名前もわからない。慈母神と呼ばれる存在。そんな、ぼんやりとしたものをクレナイは崇めていた。
クレナイが言うには、クレナイが祈れば、大抵のことは叶えてくれるという。
例えば、干魃に見舞われている地域に慈雨を降らすとか、
例えば、洪水の絶えない地域の雨を鎮めるとか、
例えば、流行り病を鎮めるとか。
どれもこれも規模の大きいものだった。確かに、救いと言えば救いだ。それを施された民はどれだけ救われたことだろうか。
けれどそれを素直に受け止める者ばかりだったなら、この村でこんなに揉めることはないだろう。
「どうだか。干魃だったところは逆に洪水で困っているかもしれないぞ。逆も然りだ」
「流行り病も鎮めたというが全員が死んだだけじゃないのか」
そんな心無い、懐疑的な声。
無情だな、と私は思った。
こんな心無い言葉ばかり並べられる村民が。それなら未来を常に憂えているクレナイの方が余程優しい。……と思ったが、クレナイの神もどうなのだか。クレナイは訪れた地のその後を知らないというから、村民の言葉が当たっていてもわからないのだ。
「……小難しい世の中だなぁ」
私はそんなことをぼんやり呟いたが、事を小難しく考えているのは、私だ。私が勝手に難しく思っているだけで、本当は大したことなんかないんじゃないか。そう思った。思ったが、いつも難しい顔をして悩むクレナイを前に、そんなこと、口にできるわけもなく、私はただ、疑問を自分の中に仕舞って、日々を送るのだ。
ほどなくして、転機は訪れる。
クレナイの散髪をしていたときのことだ。髪は女の命というから、それを託してくれるくらい、私とクレナイの間には信頼関係が築かれていたのだと思う。まあ、私の勝手な妄想かもしれない。けれど、私にとってのクレナイはそれくらいの位置にいた。
「毎度のことながら、勿体ないなぁ」
鋏を入れるたびにさらりと落ちていく赤い髪。クレナイの綺麗な髪だ。私の煤けたような灰色では到底及ばないような艶のある髪。
私の髪は伸ばしっぱなしであるが、彼女のは定期的にこうして切っている。なんでも、髪を切って神に捧げるというのがこの宗教の通例らしい。髪と神の音をかけたのだろうか。なんとも面白い儀式である。
儀式であるということはそれなりに神聖なものでたあるはずだが、彼女はこの村に来て私と出会ってから、これを決まって私にやらせる。というか、私以外にやらせない。村からすると、私こそが最も「どこの馬の骨とも知れぬ」人間なので、おそらくそれがより村の反感を買う要素になっているのだと思うが……クレナイは気にした様子はない。
私を信頼してくれているのはいいが、それで布教が遅れているのでは元も子もないというか……
「ふむ? 勿体ないとは?」
クレナイが率直に聞いてくる。……何度も話したはずだが。
「クレナイは髪が綺麗だから、伸ばしたらきっと美人だろうに」
「変わった口説き文句ね」
まただ。
毎度こんなやりとりを続けている。私が余程神や宗教というものに理解がないからだろうか、と疑えてしまう。
口説くとか、そういうつもりはないのだが。
「でもわたくしは神子。捧げるものは神に捧げなければ」
「信仰心というか忠義心というか……その言葉には感服するよ」
よく飽きないものだ、と思うが、それはこんなクレナイに付き合い続けている私にも言えることだ。
「貴方と出会ったことは運命だと思うのですよ。あるいは宿命」
随分と、大袈裟なことを言う。
「……こんな日々も、悪くないでしょう?」
「確かに」
布教は相変わらず進んでいないし、教会の建設は反対意見が多く、放置状態だ。
それが故で、クレナイの村の滞在は長引いていた。信徒は懸念の声を上げていたが、クレナイは、この状況を楽しんでいるように思えた。
それはつまり、こんな日常の継続を、彼女は望んでいるのだ。
「ユウヒにこうして髪を切ってもらうのが、わたくしは好きです」
「……そう」
私は正直、何と言ったらいいのかわからない。
「運命って言ってたけど、君は神子でしょう? 神に全てを捧げて、他には割り振れないんじゃない?」
暗に、私と関係を持つ気なのか、と訊いた。
それはあっさり否定された。
「我が神は平等を重んじます。貴方がこれまで他者と平等でなかったから、わたくしはその埋め合わせをしているの。──貴方がこれを幸せと受け止めてくれているなら、幸いなのだけれど」
「平等、ねぇ。さすが慈悲の神様。不信心者にも親切なことだ」
平等? そんなものあり得ないだろう。神が神子という存在を欲している時点で、神子と他とは、平等じゃない。
いつかクレナイは私に言った。自分は神のために髪を捧げ続けなければならない。それを惜しむのなら、貴方は貴方の髪を大切にして、と。あの約束を交わしたときのクレナイの儚げな笑顔には胸を締め付けられた。こういうものを不平等というのではないか。私はそう思った。
世界が救われても、クレナイが報われないんじゃ、意味がない、とさえ。
私は……クレナイに少々肩入れをしすぎていた。クレナイも同様に。
私たちはそんな自分に気づかないふりをして、あの日、過ちに触れた。
異変は、何かの焦げる臭いだった。次第に、景色が灰色にくすむ。
「……クレナイ」
私が鋏を止めると、クレナイは一つ頷いた。
「火事、ですね」
クレナイはすぐ、祈り始めた。この悪意を消し去りたまえ、と。
私は火元を探す。するとそこには。
「……父さん? 母さん?」
父と母がいた。
マッチで火をつけ、薪をくべて燃やす、両親。
明らかな、犯人。
「何をしているんです?」
「見ての通り、神子殺しさ」
父はなんでもないことのように告げた。神子殺しとは……クレナイを?
わけがわからない。父と母はクレナイを受け入れている側の人間だったはずだ。でなければ何年も隣に住まわせてはくれないだろう。……それが? クレナイを?
現状が全くわからなかった。
「何故……?」
「救いをもたらさぬ神子など、偽物だ」
偽物。
私がよく、言われていた言葉だ。
「クレナイは、そんなんじゃ……」
「まあ、そんなことは建前よ」
母が言うことはもっと意味がわからない。
建前?
「神子様には人柱になってもらう予定だったのだから」
「ひと、ばしら……?」
「慈母神様を顕現するためのね」
母が微笑む。
「神子様は言ってらしたでしょう? 捧げられるものは、全て捧げなければ、と」
それは、命も、ということか──
それが、この宗教の意味なのか?
神子を、クレナイを犠牲にして、得る救い。
そんなものが?
「そろそろ村の者を信じさせなければ、破滅は近いのだ。ならば慈母神様にご降臨いただくのが一番早い」
「それで、クレナイを……?」
「もちろん、我々も代価を用意している」
そう言って父が示したのは……私。
「お前は名をトモシビという。クレナイ様と共に生まれた、神子なのだよ。その事実を隠して、我々が我が子として育てた。我が子を手放す親の気持ちがわかるか? 胸が張り裂けるように痛い」
言葉が上滑りしていく。
どれだけ綺麗事を並べてもそれは、
私を殺すということだろう?
「そ、れで?」
私の思考回路は、焼ききれそうだった。
「それで、救われた世界は? 私たちをどうするのです? 犠牲は、私たちの、生きた、意味は……?」
「生きた意味? 神子がおかしなことを言う神子とは神に命を捧げるため──死ぬために生きているのだよ?」
父がそう、笑った。
そこから先は、よく覚えていない。




