結ばれた燈
ユウヒが立ち去ってからしばらくして、
「あの野郎、逃げやがった!」
と動き出すリクヤを制止するのに手間取った。まあ、キミカが言葉をかければそれは鶴の一声となったが。
「何かわけがあるのでしょう。思えば私たちはあの人をどのくらい知っていますか?」
キミカのその問いかけは、おれたちを疑問の大海へ投げ出すには充分だった。リクヤは思わず、ユウヒとこの中で一番付き合いの長いおれを見た。
けれどおれは迷いなく首を横に振った。おれはユウヒという人物をどれほど知っているかと問われれば、答えられるのは僅かに三つ。
彼が長く死神をやっていること。
髪を大切にしていること。
この日記を綴っていること。
それだけだ。
そう告げるとリクヤは落胆したようだが、何も悪態は吐いてこなかった。リクヤはおれが言ったことすら知らなかったのだろう。無理もない。彼が虹の死神に入ってから、まだ日は浅いのだから。
キミカは、別のことを考えていたようで、突然「ああ」と声を上げる。
「どうした?」
「思い出したんです、鳳仙花の花言葉」
鳳仙花とは花が散り、種子のなったところに触れるとぱぁんと勢いよく弾ける花だ。
「『私に触れないで』」
キミカが口にした答えは、鳳仙花の様相にも、先程のユウヒの対応にも、ぴたりと当てはまる言葉だった。
「つまりは、拒絶か」
「そうですね。……けれど、私たちはもっとユウヒさんについて知るべきです」
リクヤはつーんと反応を示さなかった。おれはキミカに同意だ。故に少々リクヤの説得を試みることにした。
「さっきの空気」
その言葉だけでぴくりと反応する。一応、原因が自分にある自覚はあるらしい。
「ああならないためにも、必要だと思うぞ」
それに、ちょうどいいものがある。
「ユウヒの過去を調べてみよう」
おれが告げると二人がきょとんとする。どうやって? ということだろう。
ユウヒ自身は忘れているらしいし、先程のこともある。本人には聞けまい。
おれはこのノートを持ち上げた。
「それは?」
そういえば、リクヤにはこれが何か話していなかったな。
「ユウヒが死神について一万年綴ってきたものだ。おれが受け継ぐことになっている。過去のものも大量にあるだろうから、その中から最初の方のものを見つければ、ユウヒの過去が書いてあるかもしれない」
「なるほど」
キミカが頷く。
「その過去の日記ってのはどこにあんだ?」
リクヤが指摘する。
……
「盲点だった」
「おいおい」
「マザーに聞けばわかるのでは?」
キミカがすかさず、フォローを入れてくれた。
なるほど、マザーなら何か知っているかもしれない。死神の管理をしているし……
『呼びましたか?』
そう考えていると、いきなり頭にマザーの声が響いてくる。聞いていたのか、地獄耳か……前者だろうか。
狙ったのは間違いあるまい。気が利いているのかいないのか。
『ユウヒの部屋なら、右の扉を出ればすぐです』
確実に聞いていたな。
しかしながら、わざわざ繋いでくれたのか。マザーにしては珍しい好意だ。ひとまず受け取っておこう。
おれたちは迷わず、右の扉の向こうに向かうことにした。
かちゃり。
マザーが空間を繋げば鍵などなくとも自由に様々な部屋を行き来できる。
ある意味最強の管理人マザーなわけだが、場合によりノリが軽いので考えものだ。
今だってさらっとユウヒの私室に通してくれたし……
「へぇ、私室なんて持ってんだ、あいつ」
虹の死神には私室が一部屋与えられている。入ってきたばかりのリクヤにはまだ与えられていないのだろう。じと目である。
ユウヒの部屋は、そこそこに広い。が、ベッドと窓がある簡素な部屋だ。
私物はほとんどというか、全くない。あるのはクローゼット。おれやキミカの部屋も似たようなものだが。机があったり、壁紙が貼られていたりともう少し各々の色が出ている。だが、ユウヒのは、既製品をそのまま置いているような感じだ。
ただ、目についたのは、クローゼットの中。本棚のようになっており、おれの持つ日記と同じノートが、途方もない冊数並んでいた。
「うわ……あいつ、わりかしまめなのか?」
リクヤ、それは色々と失礼だぞ。
きっとユウヒは「自分は忘れやすい質だから」と言っていたから、それを気にして書き留めているのだろう。記憶が鮮明なうちに、細やかに。
おれの記憶や、アイラの話だって、鮮明に描かれていた。それだけ、「伝えたい」という思いが強いのだと思う。
初代、橙の席──一万年前から存在する、原初の死神だ。それくらいの年月なら、今ここにあるだけでは足りないにちがいない。
……そういえば、マザーは何故すんなりおれたちをここに通したのだろう?
マザーからすれば、この日記は情報の貯蔵庫だ。ユウヒの書き口から見るに死神というものの特性が細やかに描かれていて、性悪を働かせたいマザーにはルールを逆手に取られかねない、不利な情報だってあるはずなのだ。……何か裏があるのか、それを知られても問題ないと判断しているのか。少し不気味なところだ。
「この量を読むのは骨が折れそうだな……」
「読書は慣れてますよ」
キミカが少しずれた発言をする。
入院生活で外出もままならなかったキミカだ。唯一といってもいい娯楽が読書だったのだろう。趣味と言わない辺り、それほど好きではないようだが。
「探し読みはキミカに任せるか」
「ええ」
「異論はない」
即答した辺り、リクヤはあまり読書は得意ではないのだろう。こう言ってはリクヤに悪いが、アイラの話から見ても、現在進行形を見ても、とてもではないがリクヤは頭が良さそうには見えないし、読書姿は似合いそうになかった。
おれは、背が無駄なまでに高いから、上の方から、おそらく最初と思われる日記を一冊、ひょい、と取った。
そこには、案の定「一」と表紙に書かれていた。内容はわからないが、目的に近いことが書かれていることを願おう。
ふと、自分の日記を見る。表紙には五桁に近い数字。よほどまめにつけていたのだろう。そう厚くもないが、薄すぎるわけでもない日記帳だ。一冊一年換算だろうか。やはり丁寧につけていたのだろう。
なんだか少し、日記が重くなった気がした。
これを受け継いでいくのか、と今までぼんやりしていた実感が、次第に明瞭なものになっていく。
ソファも置かれていないので、ベッドに座り、キミカが神妙な面持ちで一頁目をぴらりと開く。そこにある文字に目を通し、軽く息を飲んだ後、告げる。
「当たり、みたいですよ」
つまり、
「ユウヒの過去が書かれているのか?」
おれの問いにキミカがゆっくり頷く。読み上げますね、と告げて、キミカはしんと沈黙を送ると、その文面を朗々と読み始めた。
「『今日から、日記を書く。その前に、この日記を記す私が何者であるか語っておこう──』」
そんな語り出しから始まった。
***
私は、死神である。
おそらくこれを読むのも死神であろう。死神という存在の詳細は追々綴っていくことにする。
私が前置きとして書き留めておきたいのは、死神になる前──生前、つまりは人間だった頃の記憶のことだ。
私は人間の頃より忘れやすい気質だった。
まあ、あれだけの出来事をそう易々と忘れたりはしないだろうが、書き留めて残しておきたい。
そのためになんでも叶えられる願いに「紙」なんてちんけなものを選んだのだ。
けれど、一度きりしか叶えられない願いをこの日記にしてしまったことに後悔はない。私は最初の死神。最初の死神は二人いた。その片割れ。もう片割れは……すぐに消えることを選んだ。私の親友だ。
私と親友は、どちらかが先に消え、どちらかが末永く残ることを迫られた。親友は消えることを選び、私は残ることに決めた。故にこれは義務だ。
私の義務。死神という存在を正しく伝えていくという義務だ。
それと、少しの我が儘。
親友がくれた私の「結燈」という生前の名。その名前を忘れないために、私は過去という名の経緯を綴っていくと決めたのだ。
これは失ってしまったものに未だすがり続ける私の貪欲と懺悔の物語である。
──