眼差紫
僕は、何をしているんだろう、とマグカップから立つ湯気を眺めながら思った。
マグカップの中にあるのはココアだ。温かくて甘いココア。実は、今まで飲んだことがなかった。甘過ぎるものは体に悪いと親に禁じられていたのを何故か今の今まで守り抜いていた。守ったところで、意味なんてないのに。
僕は笑うことすらできなかった。寒い。寒い。ずっとそれだけを考えている。助けられてから、ずっと寒い。知覚していなかった……否、知覚したくなかった凍えを自覚してしまって、寒くて仕方なかった。
それで、そう……僕を助けてくれた、僕と同い年くらい……十五歳くらいの綺麗な男の子が、僕の「寒い」というたった一言のためにココアを入れてくれた。
「飲まないんですか?」
その男の子が、僕を見つめる。緑色の綺麗な眼差し。日射しをそのまま紡いだような綺麗なブロンドの髪。「美しい」以外の形容方法が見つからない容姿をした少年。彼もマグカップにココアを入れていた。
別に責めている様子はないのだけれど、僕は焦ってしまった。ココアを飲む義務を放棄しているような気がして。
「ああ、手を温めていたんですね」
「え」
「いいですよ。温まり方は一つではありませんし、冷めても美味しいですからね、ココアは」
少年がにこりと微笑み、僕を真似るようにマグカップを手で包んだ。僕は特に意識せずにマグカップを持っていたが、確かに、指先が温かいように思えた。
少年を眺めていると、少年は愛おしそうに丁寧にカップを口まで運び、こくりと流麗な仕草で一口飲んだ。本当に綺麗な子だ。
「自己紹介がまだでしたね。僕はイリク。イリク・タルデスと言います。あなたは?」
「……シリンです」
タルデス、という苗字に聞き覚えがあった。確か最近大きくなってきた企業の名前が「タルデス社」と言ったはずだ。
一つ思い出せば、いつもの通り、次々と脳から情報が溢れ出してくる。その中でこの少年、イリクが社長のゲルガ・タルデスの子息であることもわかった。が、イリクという少年は、あまりにも……
「両親に似ていないでしょう?」
「えっ」
脳内で考えていたことを言い当てられ、僕は慌てる。そんな疑惑を本人に気取られるなんてもっての他だ。だが、イリクがどうしてそんな返しをしてきたかはわかる。
社長も社長夫人も今や有名人。顔写真くらいは僕も目にしたことがある。イリクの自称する通り、イリクとは似ても似つかない。今まで社長夫妻の子息の顔が一切メディアに出ていないのを少し不思議に思っていたが、なるほど、イリクくらい顔が似ていなければ、伏せたくもなる。
いや、それだけではない。きっと後ろ暗いところがあるのだ。社長夫妻には。藪をつついて蛇を出す趣味はないので、わざわざ言ったりしないが。
イリクはそんな両親の思惑を察しているのかいないのか、にこりとした笑みを湛えたまま言葉を次ぐ。
「実は、よく言われるんですよ、親に顔が似ていないっていうのは」
「……すみません。お気を悪くさせるつもりは」
「いいんです、いいんです! よく言われるから慣れているんですよ。僕も確かに全然似ていなくって、毎朝鏡を見るたびに変な気分になりますから」
鏡? と思ったが、考えすぎだろうか。整形疑惑……なんて。
いや、それはない。整形だとしたら、どこかに歪さや痕跡が残るはずだ。観察すれば、手と顔で肌の色合いが違う、なんてこともないようだし、どこかひきつっているような痕跡も見られない。笑顔は微細な優雅さに彩られ、作り物のようと形容したくなる自然さ、という矛盾した羅列を成立させる。
と、何を考えているのだろう。命の恩人相手に失礼きわまりないだろう。
「まあ、大抵は妬み嫉みの謂われないものなので、無視していますがね。……シリンさんはおそらくそれどころじゃないでしょうから、忘れていいですよ」
「っ……」
忘れていい。その言葉は救いの手のはずなのに、僕にとっては呪いにしかならない。
忘れることなんて、どうせできやしないのだから。そう、どこかで何かが僕を嘲笑っているような気がする。
「すみません、何か琴線に触れてしまいましたか? そんな顔をさせたいわけではないのです」
イリクの言葉と心配を宿した表情に、僕は思わず人たらしめ、と思ってしまった。同族嫌悪も含まれるため、出そうになった言葉を奥歯で噛み砕く。
僕のこの考えは、イリクを謗る有象無象と同じ、妬み嫉みからくるものだ、とわかっていた。ついでに言うなら無い物ねだりだ。僕は忘れてしまいたいのに、忘れられないから、忘れる方法を探している。だから、他人に成り代わる、なんて突拍子のないことも考えたりするのだ。
イリクに成り代われたら、いくらか楽になれるのだろうか。
「話したくなったら、仰ってください。どんなにとりとめがなくても、お話を聞くくらいはしますから」
「ありがとうございます」
ココアには口をつけられないままでいた。すると、イリクは僕に「ココア入れ直しますね」と言って、新しいマグカップを用意する。
「い、いいです。これを飲みますから!」
「いえ、お客様に温まってほしいのに、冷めたものばかり飲ませられませんよ。差し出がましいですか?」
「……いいえ……」
こういう、強引さが僕にもあれば、少しは楽なのだろうか。人の言葉に上手く返すことができなくなるのは、何か……強さが足りないからのような気がする。
「シリンさん」
「は、はい」
名前を呼ばれて、顔を上げると、結構な至近にまでイリクの顔が近づいていて、驚くと同時にどきりとした。恐ろしくなるほどに精巧な顔立ちが眼前にあるのは、なんだか心臓に悪い。
それに、名前を呼ぶ声も、僕と同い年というには、かなり艶めいているのではないだろうか。美しく妖しいイリクの雰囲気に呑まれてしまいそうだ。
「あなたは他人を拒絶するのが苦手なんですね?」
断定的に言われ、ぎくりとする。返す言葉もない。事実、その通りだからだ。
逃げるな、という言葉からも、ただ逃げるだけで、立ち向かうこと、真っ向から否定することができていない。
「自分がされて嫌なことは、人にはしてはいけない、と倫理か何かで習うでしょう?」
「ふむ、否定されたくないから否定しない、と。一理ありますね」
「……おかしいことですか?」
どうしても、喉の奥が震えて、声も震える。イリクの口からきっと僕を否定する言葉が出てくるだろう、と心が勝手に予測して、勝手に身構えて、勝手に傷つく準備を始める。あるいは傷つく言い訳の準備だ。
「一理あると言ったでしょう? けれど、おかしな話です。人は他人を否定して初めて自己を自分の中に確信できる。だからされたくなくても、他人を否定しないと、自分の存在が確立できない。本当におかしなことです」
難しいことを言うなあ、と感じた。けれど、思うより単純なことなのかもしれない。イリクが言いたいのはたぶん「あなたと私は違う生き物だ。だから私はあなたの意見に同意しない。つまり否定する」ということなのだろう。違う生き物だから違うと主張するのは自己存在の肯定において重要なことである。
「あなたはたぶん、アイデンティティの否定と意見の否定を混同しているんだと思います。例えば、拒絶されないことの方が怖いということだってあるでしょう? 自分が正しくないことを知っているから」
はっと息を飲む。それはその通りだ。それこそ、僕が生前に成したこと全てを「正しい」と肯定されたなら、僕は安堵より恐怖するだろう。
つまり、間違っていることは止めてほしい、拒絶してほしい、という心の反応だ。そう例えられれば、ヒカリの言葉の意味もわかってくる。
……わかってくる、と言ったが、たぶん、僕はわかっていた。わかりたくなくて、わからないふりをしたんだ。
ヒカリも、キミカさんも、傷つきながらでも僕を諭してくれたのに、僕は痛みから逃げようとした。それは「逃げるな」とも言われるだろう。
「とはいえ、シリンさんに非がないことと、相手に非があることはイコールになるわけではありません。人は誰も間違っていなくて、故に誰もが間違っている、というのは、修道士アカリの言葉です」
そこで思わぬ名前に頓狂な声が出た。
「あ、アカリ?」