逃燈
「何をしてるんですか!?」
そんなところに入ってきたのはキミカさんだった。ヒカリを僕から引き剥がす。引き剥がされたヒカリを見て、ああ、手加減されていたんだ、とわかった。
本気のヒカリなら、キミカさんなんかに引き剥がされたりしない。ヒカリはたぶん、止めてほしかったんだ。嫌がってほしかったんだ。
嫌がらないで、受け入れてしまう僕のことを、やっぱりヒカリは嫌いなのだろうか。かわいそうというのだろうか。ヒカリの琥珀色の目は失望の色を灯していた。
ヒカリと僕では考え方がどこまでも合わない、平行線だ。ヒカリは受け入れてもらえないことが普通で、受け入れてもらえないことによって正常な倫理観を覚えた。僕は逆。倫理に反していても、相手の全部を受け入れることしかしてこなかった。それが自分が死なないためのたった一つの手段だったから。
ヒカリは否定されることで肯定感を得ていた。正しさを覚えてきた子どもだ。「それは駄目だよ」とヒカリは優しく叱ってもらえた。
羨ましくなんかない。僕は僕の人生はあれでよかったと思っている。だから、僕自身が僕の人生を否定するようなことは決して言わない。
そんな僕をヒカリは歯を食い縛って睨む。大きな琥珀色は、涙が滲んで、揺らめいて、綺麗だ。
「大丈夫ですよ、キミカさん」
「大丈夫なわけありますか! 殺されるところだったんですよ?」
僕はにこりと笑む。
「殺されても、死にませんから」
僕は大概、ひどいやつだと思う。この言葉がキミカさんを一番効率的に傷つけることができる。それをわかってやっているのだ。キミカさんを傷つけたいわけじゃないけれど。
けほけほ、と込み上げてきたものを吐き出す。きっと、リクヤさんがいたら、ヒカリを押さえるのはリクヤさんの役目で、キミカさんは咳き込む僕の背中をさすってくれただろう。
背中をさすってもらう必要なんてなかった。この程度の苦しみは日常茶飯事だった。手を差し伸べられて、優しい微笑みを向けられても、惨めになるだけだ。僕はそうしてくれた人を裏切り続けたのだから。
「死ななくても、痛いでしょう?」
僕は目を見開く。
何故って、キミカさんが、凛としていたからだ。僕の言葉に傷つきはしたようだが、毅然として言葉を返す。
「私たちは死神だから、死にません。死ぬほどの重傷も、時間をおけば回復します。それでも、怪我をすれば痛いですし、死ぬときの苦しみはあります。人間と違って死なないからこそ、死の瞬間の痛みがぼやけることはないんです」
セッカから、聞いていたのだろうか。それとも、アイラさんだろうか。キミカさんの言葉は強い根拠のある確信を伴っていた。
僕が、死んだとき。周囲は死体まみれで、息をしている人は誰もいなくて、そのみんなが僕の敵だったから死んだ、僕が殺したって……そう認識したら、「僕」ってなんだろうって、思ってしまって。孤独という寒さで心が霜焼けをしたような気がした。
風に吹かれただけで、痛くて、つらくて、耐えられなかった。
死神になってからも何度か死にかけた。意識が遠退く気配があるのに、冷たさはずっと感じていて、喉を潰されたとか、身体機能が低下したとかじゃなく、息がしづらかった。
何故、この人はそれを知っているかのように語るんだろうか。生前も、今も、大切に大切に、死なないように温室の中に捕らえられていた人なのに。
「シリンくん」
「っ」
呼ばれて、差し出された手が、大佐のそれと重なる。僕は思わず、振り払った。
キミカさんが驚いたような顔をする。僕だってびっくりした。どうして、振り払ったのか、自分でもわからない。
「大切な人なんて、作らなきゃよかったんです」
温もりを知らなければ、凍えても凍えたとしか思わない。だから、僕は平気だった。
平気なままでいたかった。
「シリンくん」
「呼ばないで!!」
悲鳴のような意思に反する声が零れていく。
「あなたは死んだでしょう!?」
誰に言ったんだろう。
それはあまりにも、正解すぎた。
経緯はどうあれ、キミカという人間は一度死んだ。だからこそ、キミカさんは今、死神としてここに存在する。
正論は時にどんな暴言よりも人を痛めつける暴論だ。それをたぶん、僕は誰よりも知っているはずだった。
「シリン、そういう話じゃない!」
ヒカリが僕とキミカさんの間に割って入る。
五月蝿い。一人にして。
「論点ずらして都合のいい解釈するな」
五月蝿い、五月蝿い。
「ヒカリ、やめなさい」
「シリン、逃げるな」
「ヒカリ!」
──それは、明らかに僕のトリガーとなった。
僕は様々なものから逃げてきた。逃げるために人を殺したし、誤魔化すために人を殺した。論点をずらして、嘯いた。醜いくらい、人間だった。
だって、大人が言うんだ。いつもいつも、「逃げるな」って。「与えられた使命を果たせ」「果たすまでは逃げるな」「死にすら逃げることは許さない」って。
誰も彼もを殺せば、逃げることを許されると思った。誰よりも強ければ、大人の誰からも許されれば、僕は自由になれる、と。
自由って、何?
僕はいつだって、楽な方を選んできた。親に従って、軍に入隊したのだって、その方が楽だからだ。従順にしていれば、僕は傷つけられずに済む。
人並みを望んだ。でも、誰も、僕に「人並み」を許してくれなかった。
逃げるときだけは人並みでいられるような気がした。現実から目を背ければ、そこに「普通」は自分しか存在しなくなる。だから、逃げることを選んだ。
逃げても逃げなくても、誰も褒めてはくれなかったし、待遇が変わるわけでもないし、僕は変わらないなら、やりやすい方を選んだだけだ。
今、死神界から飛び出して、走って逃げているのも。
もう、僕は逃げたっていいはずだ。「逃げるな」と僕に言ったのはヒカリで、ヒカリは子どもで、僕が従う必要はない。ヒカリは言うことを聞かないから、と僕を痛めつけることはしない。
「あれ……?」
視界が滲んで、走るのをやめた。目の前の景色を上手く認識することができない。
僕は何がしたかったんだろう。
リクヤさんに消えて、と言って、アイラさんに弔って、と日記を書かせた。それは二人の傷を抉る行為でしかない。
記憶を見る能力は、僕に感情まで見せてくる。リクヤさんが吐き出したいほど苦しんで逝ったことも、アイラさんがどれだけ懊悩して過去を綴ったかも、この能力の前に、つまびらかになる。
「殺さないで!」
「見捨てないで!」
「死にたくないよ!」
僕の目の前で死んでいった亡霊たちの叫び声も、僕の記憶にまざまざと張りついて、消えないのに。全ての怨嗟が僕を呪い続けているのに。
五月蝿い。
五月蝿い五月蝿い五月蝿い。
どうして僕は忘れられないの? どうして僕は人と違う風に生まれてしまったの?
ヒカリはいいよね、忘れられるもん。明日には僕の首を絞めたことだって、忘れているかもしれない。
……明日って、何?
僕はふらふらと立ち上がり、手近な橋の欄干にすがりついた。
下には、轟々と、街中を流れるにしては、激しい流れの川がある。
「……あ」
思いついた。
一度、死んでしまおう。罪が加算されてしまうかもしれないけれど、このとりとめのない思考をリセットできるかもしれない。どこかに頭をぶつければ、一時的に記憶障害も望める。
欄干の上は、風が心地よかった。
このまま、逆さまに……
「危ない!!」
「……え」
視界が流転した。川に落ちたからではない。橋の内側に、引き戻された。
「ちょっと、危ないでしょう!?」
そう僕を叱りつけたのは少年。
先日いなくなったリクヤさんの目と似た緑色の目をしている、金髪の整った面差しの、子どもだった。