忌燈
「過去を知ったところで、ボクはリクヤにもアイラにも同情しないよ」
僕の横で日記をぱたんと閉じたヒカリが言う。彼女はアイラさんが書いたリクヤさんとアイラさんの話を読み終えたらしかった。
育ちの悪いヒカリが文字を読めるのは意外だったが、アカリと一緒に神父に習ったらしい。学ぶことにも意欲的で、時折、こうして日記を読みながら、僕にこの言葉はどういう意味かなどを聞いてくる。
ヒカリはヒカリで、この何千何万とある日記に興味があるらしかった。その半分はセッカが書いたものだからだという。
「アカの過去にも同情しないよ。ボクは同情されるのが嫌いだし、同情することが優しさだと思わない」
「どうして?」
「ボクに同情した人は、みんな死んだよ。殺された」
その呟きは仄暗い感情を伴っていた。苦い実感と共に。
ヒカリに同情した人。ストリートのおじさん。神父さま。アカリ。なるほど、確かに彼ら彼女らは殺された。それは社会にだったり、ヒカリにだったり、様々だけれど。
ヒカリはおそらく死に最も近いところで生きていた。軍属だった僕も、明日の命の保証のない身だったが、ある程度は「軍」という組織に守られていた。生涯を病院で過ごしたキミカさんも、病院という籠の中にいた。
対してヒカリは剥き出しのままの命を晒して生きてきた。彼女を守る者はなかった。守るという行いは、その人物より強いものがようやくできるものなのだ。アカリや神父はヒカリの心を救ったし、守った。けれど、命を守ってやることはできなかった。命に関してはむしろ、彼ら彼女らの方がヒカリに守られる側だったかもしれない。
ヒカリを守れたのは、セッカだけだった。
「でも、シリンには同情するよ」
「えっ」
死んでほしいから? ……なんて、暗い感情が僕の中で揺らめく。この子は悪意なく殺意を振り撒ける、才能に秀でた子だから。
「全部覚えて、全部背負って、最後は一人でいいって思ってるでしょ? 本当は人と関わらない方がいいって知ってるでしょ? 頭がいいから苦しむんでしょ? そんなの、同情以外何すればいいのさ」
かなり的確な同情をされてしまった。
ヒカリは僕より年下で、子どもで、学がないはずなのに、鋭いことを言う。たぶん、鋭利な言葉たちにより育まれたヒカリの感性なのだろう。その感性が僕は嫌いではないし、非難しようとは思わないけれど、ヒカリの言葉はガラス片のような鋭さで、ナイフより痛い。
たぶん、ガラス片を握りしめるのに、布を巻いたりせずにそのまま握ることに慣れて、痛みを感じにくくなっているのだ。あるいは、自分も痛むことで、罪滅ぼしをしているのだろうか。
「でも、最後の最後まで、残るのはシリンじゃないよ」
「……うん」
僕は生前、たくさんの罪を重ねた。けれど、罪の数値を持つ限り、浄化しなければならない罪は有限であり、任務をこなし続ければ、いつかは浄化する。消える。死神じゃなくなる。
死神じゃなくなることを幸せであるかのようにセッカは逝ったが、僕は……
「最後の最後まで残るのはセイムだよ。これから誰が消えて、新しく誰が来ようとね」
「うん……」
虹の死神、青の席。死神になってから僕と友達のように接してくれるセイム。彼は死神の法則に反して死神になった、本来なら死神になるはずのない存在だった。そのために、罪の数値がない。浄化する罪がなければ、いくら任務をこなしたところで、ゼロはゼロのまま。セイムは死神としての生を終えることができない。
顔馴染みが消えて、自分だけが生き残って、また誰かが消えて、自分は残って……そんな、僕の生前と似たような暮らしがセイムには約束されている。そんなセイムを置いていくことが、幸せ?
セイムを幸せにできないのに、幸せなんて思っていいのかな。
と、物思いに耽っていると、ぴん、と額を弾かれた。細い指なのに、ヒカリのでこぴんは痛い。
「シリンは考えすぎー。考えすぎるから幸せになれないんだよ。少なくともシリンは」
「……ヒカリは幸せなの?」
「幸せだったよ」
間髪入れずに断言された。……いや、過去形だな。
「ストリートのおじさんたちは面白かったし、神父さまは優しかったし、アカリと出会えた。アカに再会できた。鬼の子どもにしちゃ、贅沢な人生送れてたよ。ボクは、ボクを捨てない人に出会えた。みんなそうだよ。……だから、シリンだけが、かわいそう」
「どうして? みんな死に様は孤独だったよ」
「生き様の話をしてるんだよ」
すん、と胸の奥から凍りついていくような心地がした。ぱきぱき、と凍った部分に、とん、と尖った何かを突き立てられたようだ。
ヒカリは子どもだからか、容赦がない。
「みんな、生きてるときは幸せだったよ。アカでさえ、アカを捨てないお姉さんに出会った。キミカは敬虔な信者に。リクヤは友達に。アイラは恋人に。セイムは身代わりになってでも守りたい親友に。……シリンにはいないでしょ」
「そんなことは」
「シリンがセイムに求めてるのは何!?」
びくん、と肩が跳ねた。それはあまりにも的確に僕の衝かれたくない本音を暴く言葉だった。
僕の「絶対に忘れない記憶力」が僕の能力なのだとしたら、ヒカリのこれはヒカリの能力だ。きっと、人の醜いところばかり見て育ったからこそ鋭く育った「心を見抜く目」。
「セイムをアキサンの代替にしようとしてる。そしてシリン自身はセイムにとっての親友の代替になろうとしている。セイムもシリンも唯一のもののはずなのに、セイムでさえ、わかっているのに、シリンはわかっていても、誰かの『替え』になることしか考えられない。そんなの、かわいそう以外の、何?」
「……っ五月蝿い……」
図星だ。情けない。語彙力なく返すことしかできない。
僕がヒカリにこんなことを言えるのは、ヒカリのことを実力で下に見ているからだ。ヒカリは人と戦うために力を持っているわけじゃない。人を殺すために、力を洗練してきた。それは強さの途中経過でしかない。
僕は人と戦うために技術を磨いてきた。それは殺すことに繋がるが、殺すまでに長い長い過程を存在させる。例えば「もういっそ殺してくれ」と叫び出したくなるような、無為な痛苦。
人を見下すなんて、最低だ。こんな血濡れた実力で傲るなんて、最悪だ。
僕は幸せになんてなってはいけない、人格破綻者だ。
「シリンはどうして、そうやって幸せを忌避するの?」
「……え?」
「シリンが一番かわいそうなのは、シリン自身が幸せになりたくなさそうなところだよ。幸せって、疎ましい? 憎らしい? 資格がないと、なっちゃいけない? 幸せになる資格って何?」
どどど、と大した分量ではないはずなのに、ヒカリの声が情報の洪水であるかのように僕の脳内に雪崩れ込んでくる。その情報を僕は処理しきれない。軍の機密文書一式や基地の内部構造より、よっぽど単純なことのはずなのに。
自分の頭でそこまで理解できるからこそ。
「わからない……」
幸せになりたいと思ったことがない。だって幸せになれないことが生まれる前から決まっていたから。僕は不幸を義務づけられて、最期の瞬間すら、誰にも許されることはなかった。
戦争が終わったのが、僕の功績なら、慰めになったかもしれないけど、そんなことはなかったし。
幸せというものに対して、思うところがない。拘りがなく、執着もない。漠然と自分は幸せにはなれないと知っていた。
幸せになっていいなんて、誰も言わなかったし、どうしたら幸せになれるかなんて、教えてもらえなかった。せいぜいできるのは他人が「幸せ」と評するものの模倣。
「わからないよ。どうしてそんなこと言うの?」
「どうしてって……」
「まるで僕が不幸であることが不幸せみたいに言うの?」
ヒカリはその言葉に目を細めた。ちら、と赤い焔が彼女の目の奥に閃く。
途端、ヒカリは僕の首を絞めた。真っ赤な目で。
「オマエが不幸だとボクたちまで不幸みたいで、惨めになるからだよ、わからず屋」
……人のために、幸せになるの?
なら、わからず屋でいいよ。