黄呪
アイラさんがふい、とよそを向く。
「俺が物理的に傷をつけるよりはましだろう」
まあ、言いたいことはわかる。
アイラさんの暴走によって、僕たちは物理的に傷つくことになるだろう。今はアイラさんを唯一止められるセッカがいない。僕ではアイラさんを止められない。
戦場で生き残るには実力はもちろん、相手の実力も正確に推し量る能力も必要になる。格上の相手にはなるべく挑まない方がいい。僕は諜報員だったから、尚更目立ってはいけなかった。だから実力者相手の立ち居振る舞いにはひどく気を遣ったものだ。
もう戦争の時代じゃないし、死神界はそんなところではない。けれど、僕はアイラさんとセッカの実力にはぞっとするものを感じていた。
他の虹の死神のメンバーは本気を出さなくても止められる。ちょっと失礼かもしれないけど。年嵩はみんなの方が上かもしれないけれど、対人戦闘において僕の実戦経験には及ばないだろう。しかも、人殺しが日常じゃなかった人たちが人殺し専門だった僕の人殺し経験に及ぶはずがない。実際、手合わせをセイムやリクヤさんとしてみたけれど、命の危険に直結するような気配は感じられなかった。
キミカさんは僕との手合わせを断ったし、任務にも積極的ではない。セッカやアイラさんが怪我をして、血を流しているのを見るだけで顔を青ざめさせるような人だ。……まあ、セッカとアイラさんが血を流すと、普通の人なら死んでる出血量だからかもしれないけれど。
僕が強い弱いはこの際どうでもいい。セッカとアイラさんはとにかく別格だ。身のこなしなんかもそうだけれど、心根が強い。芯が強いというよりか……殺戮に対する、執着、貪欲、関心、執念。最後の最後で勝敗を分けるであろう部分が強く、深く、体にまで根づいている。
普段は力を抑えているようだが、抑えていても強いのだ。もし、本気になったら……考えるとぞっとする。普段でも僕は勝てないのに。
ただ、力を抑えるのにも理由がある。
「暴走に怯えて、いつまでも向き合わないのも、どうかと思うんですが」
「……」
ぎろ、と睨まれた気がした。包帯の下の藍色は見えないけれど。アイラさんは雰囲気だけで人を失神させられそうな厳かさを放つことがある。その強い力を誇示するためではなく、近づく愚かしき者への警告のために。
僕は愚かでもいい。けれど、これはアイラさんに誰かが突きつけなければならない問題だった。
「アイラさん。セッカは、いなくなる準備をしています。セッカがいなくなったら、あなたを止められる人は、虹の死神の中にいなくなる。だから、もうセッカの強さに甘えていちゃいけません。暴走しても、自分で戻って来られるようにならないと」
セッカは直に、死神の役目から解放される。そのために後悔のないように旅をしている。それは僕たちに与えられた余暇でもあった。
セッカがいなくなっても、悲しみすぎないように。困らないように。
僕らは強くない。普通の人間よりは多少頑丈なだけで、人の命を速やかに刈り取ることに躊躇いのある死神が多い。当然だ。元々は人間だったのだから。普通は同胞を屠ろうとは思わない。
それでも、死神の役目として、任務に行かなければならない。新たな死神を生み出さないために。
彼らが飲む涙の量を減らせるのは、殺人への箍が緩い、僕とアイラさんだ。
「お前に何ができるんだ」
それは僕に言っているようで、自分に言っているように見えた。
「何もできませんよ。アイラさんが拒み続けるんですもん」
「それは責任転嫁だろう」
「いいえ。逃げているのはあなたです」
僕は真っ直ぐアイラさんを見た。半分ほど包帯に覆われ、元々なのか、喜怒哀楽の薄い口元からは感情が読み取れない。けれど、言葉を選ぶように確実に間を置いているのはわかる。
「傷つけないようにすることの何が悪いんだ」
「長い時間を共に過ごすのに、傷一つつけずにいることなんてできません。僕やセイムはまだいいですけど、キミカさんとリクヤさんには向き合わなくちゃならないでしょう?」
「何を」
「あなたの過去を見ました」
日記で読んだ。アイラさんが何故虹の死神になったか。
それは、人をたくさん殺したから、というのもあるけれど……
「あなたの最大の罪は、リクヤさんから過去を奪ったことだ。薄々気づいているんでしょう? だから死神としての罪にならない分を腕に刻んで、罪を増やすんです」
「……」
「確かに、忘れた方が幸せなこともあるでしょうけど」
親友との愛憎の記憶。大切な人を失うこと。罪を自覚した瞬間。そのどれもがつらく、苦しい。初めて人を殺したとき、僕は自分の手についた他人の血液の色を、温度を、痕を、なかなか忘れられなくて、夜も眠れなかった。そもそも僕は、忘れられないのだけれど。忘れられないから、忘れたいと何度も願った。
そんな都合のいい頭を持っていられたら、人間はみんな幸せに生きているはずで。けれどそれが本当に幸せかと言われると苦悩してしまうのが人間らしさだ。
人間らしさを奪われて、何を誇れるだろうか。
全てを忘れるということは、幸せな記憶さえ忘れるということだ。短い間だったけれど、僕だって大佐といられて幸せだった。それを忘れていたのを知ったとき、絶望して、自分に失望した。
こんなことまで忘れたくなかったって。
アイラさんがリクヤさんにしているのは、それに似ている。目の前で想い人に自害される、なんてショッキングなことは、覚えていたくないだろうけれど、その人が好きだったこと、その人が自分の人生に存在した事実まで取り上げられているのだ。リクヤさんは僕のように陰鬱でないから、普通に見えるけれど、思い出すのが遅くなれば遅くなるほど、思い出したときに生まれる負の感情は膨らみ続ける。
それを一番ぶつけられるのは、アイラさんだろう。アイラさんもそう望んでいる。──そんなの、あまりにも勝手だ。
「あなたがみんなを傷つけたくないように、あなたのことを傷つけたくない人だっているでしょう。それに、後先考えないあなたの行動で、精神的に深く傷ついたり、傷つくことが確定していたりするんですよ。
あなたが今していることは、細かくとも、小さくとも、あなたが守りたい人の心を傷つけているんです。傷つけ続けているんです。いい加減、逃げるのはやめてください」
「……無理だ」
アイラさんは顔を両手で覆う。
「大切なものを失い続けている。もう俺は逃げることでしか相手の傷を減らせない」
「なら」
僕はアイラさんとの間を詰めた。殺気がなかったからだろう。アイラさんの反応が遅れた。
僕はその隙に、アイラさんの目を覆う包帯を千切り取った。宝石も見劣りするほどの美しい瞳が、そこにあった。
「終わらせましょう」
もう傷つけないためには、一つ、確実な方法があるのだ。
その相手がいなくなること。