緑繁る場所
死神界は外の世界から隔離されているけれど、自然がないわけではない。扉を開ければ草原に繋がっていることもあるし、森もあれば川もあり、湖もある。
マスター曰くマザーが模倣した仮想世界が死神界の扉の向こうなのだという。でも、ただの映像や虚像ではなく、ちゃんと草の種類によって効能を持っていたりする。マザーに薬草の知識はないから、僕が培った知識そのままの草花でないことはままあるけれど。
「すごい、空気が美味しいですね」
「キミカさんが気に入ってくれてよかったです」
というわけで、僕はキミカさんを連れて森に来ていた。木が犇めいて木陰を作ってくれていて、涼しい。ここならセッカも過ごしやすいんじゃないだろうか、なんて考えもした。
普通の森と違い、この森には熊や狸などの野生動物がいないから、襲われる心配がない。死神界とは死神のための世界なので、害になるものは基本的に置かないとのことだった。
「死神界について、よく調べているんですね」
「永く過ごすことになる場所ですから、しっかり調査しておかないと」
言ってから、苦笑した。癖が抜けない。
潜入工作員というのはばれないことが命だ。不自然であることが死に直結する仕事だったから、記憶力を生かして、よく下調べをした。
僕の中でまだ死神界という世界を許容できていない証だった。敵地なんかじゃないのに。そう育てられて染み着いてしまった癖というのは死んでも消えないらしい。僕は心のどこかで、僕の居場所はここにはないと思っているらしかった。
キミカさんはそういうのに聡い。疎外感を感じて、傷ついている心に寄り添おうとする。そういうところが人からすれば神様みたいで、崇めたくなるんだろうな、とは思う。
僕には神様なんていないから、崇めようとかは思わないけれど。
キミカさんは気が細かいから、気にかけられてしまうと、なんだか申し訳ないと思うのだ。僕みたいなのなんかにいちいち心を割いていたら、足りなくなるから。
「この辺りに洗剤になる草があったはずです」
「試したことあるんですか?」
「はい。大体の草の効能は食べればわかりますから」
「え」
キミカさんの表情が固まる。
やってしまった。通常洗剤に使われる養分というのは人の体に害があることが多いのだ。それを平気で食べて確かめるなんていうのは頭がおかしい。自殺方法の中の一つにも「洗剤を飲む」というのが普通に存在するくらいだ。
「や、あの! 植物由来のものは体に害のないものが多いですし! 僕は毒の耐性つけてますんで!」
「毒って言いましたね、普通に」
あ。
キミカさんがにこにこ笑っている。それはもうにこにこにこにこと、いい笑顔だ。その笑顔でにじり寄ってくる姿は迫力がありすぎる。
なるほどなあ。セッカやアイラさんがキミカさんに頭が上がらないのはこういうところかあ、なんて現実逃避もそこそこに、キミカさんにぎゅっと手首を掴まれる。反射的に振り払ってしまった。手首の関節が痛むけれど、まあいいや。
「シリンくん」
「……はい」
「命は大切にしてください」
「……善処します」
「善処しますはね、やってはみるけどできないかもしれないっていう意味なんですよ?」
うわわわわ。キミカさんがゴゴゴゴ言ってる。怒ってるよ、明らかに。
命を大切に。言葉の上面ならわかるけれど、どこか理解できない響きだ。
戦争がなくても人は毎日死んでいくのに、戦争の時代に生きたことで、僕の中の命の価値は鳥の羽一枚よりも軽い。他者の命もそうだけれど、僕自身の命は特に軽い。砂の一粒にも勝るかもしれない。
命をどうやって大切にしたらいいか、大人は教えてくれなかった。命を大切に、という言葉は道徳や社会活動家のポスターでよく見たから知っている。命というのは神様からの賜り物だ。母が腹を痛めて産んでくれた命を粗末にしてはいけない。そんな標語を腐るほど目にしてきた。
たぶん、普通の人はその意味がわかって、守るために戦える。でも僕は、大切にされたことがなかったから、わからなかった。
子どもに毒を飲ませるような女から産まれましたよ、と笑って語れる。子どもに鞭を打ち、爪を剥ぎ、電気椅子に縛りつけるような家庭で育ちました。だから実感はありません。──なんて言ったところで、誰も理解してくれないし、誰かに共感を求めた時点で「お前は欠陥品だ」と折檻を受けるのは目に見えている。だから、諦めていた。
僕は普通に生きることなんてできない。
「シリンくんの生前が、私では考えも及ばないような過酷なもので、そのせいでシリンくんが正常な感覚、一般的な感覚を持ち得ないとしても、やっぱり、私はシリンくんに自分を大切にしてほしいと思います」
「でも……」
「知識としては知っているのでしょう? それなら、これから実践していきましょう。与えられた時間は、思うより長いですから」
与えられた時間。
死神となって、特に重い罪を背負う虹の死神は通常の死神より長い期間、罪を償わなければならない。生前軍人だった僕は数えきれないほどたくさんの人を殺し、最期には自分の命まで殺した。死神のルールからすれば、重い罪ばかりを重ねてきた僕は莫大な罪の数値を持っている。それを全て浄化するには、何十年、いや、何百年かかるかもわからない。もしかしたら、何千年かもしれない。十五年しか生きなかった僕からすれば、途方もない年月だ。
それが「与えられた時間」だなんて、キミカさんは僕とは違う考え方をしているんだな。それとも、五千年以上死神をしていると、考え方が変わるのだろうか。
僕は木の側に生えていた草を千切る。
「これなんか、洗剤によかったはずです。色落ちしない程度の洗浄力がありますから。あとはいくつかの植物を混ぜ合わせます」
「そんなこともできるんですか?」
思い切り話を逸らした僕に何か言うでもなく、キミカさんは洗剤の話に食いつく。僕はそのまま、これは洗った後の香りがよくなりますよ、なんて紹介をしながら、草を千切った。持ってきた瓶に草を詰めていく。
「草を擂って、絞り汁を洗剤に使うんです」
「残り滓はどうするんですか?」
「煎じたら薬になります」
「便利ですね」
「たまにはこういうところを歩くのもいいでしょう?」
僕が言うと、キミカさんははにかんだ。
「はい。生前は病弱で、散歩もできませんでしたからね。こうして自分の足で、病院以外の場所を歩くことができるなんて、夢にも思いませんでした」
生前のことをまだ覚えているんだ。失意の中亡くなったと聞いている。
少しでも、心残りを果たすのが「与えられた時間」というのの有効利用だと思うのだが、連れ出されないとわからないものなのかな。それを僕は少し寂しく思った。
黙々と草を摘みながら、森を歩いていると、キミカさんが少し休みましょう、と提案してきた。僕に否やはない。
少し拓けたところに切り株があった。そこに腰掛けて、キミカさんは切り株の断面を撫でる。
生前堪能できなかった自然をキミカさんなりに堪能しているのだろうな、と僕は静かに見守ることにした。呼吸がしやすい場所だから、僕も嫌いじゃない。伏兵が潜んでいることもない、と長い時間をかけて自分を納得させ、今では安心できる空間となった。
「あのストールは」
キミカさんが徐に語り出す。
「ユウヒがマスターになる儀式に利用したんです。聖なるものになっているからって。意味がわかりませんよね」
僕はそれで察した。
「あれはユウヒさんの……」
「そうです。ユウヒの血ですよ。ただ、大切にしていたものを他人に身勝手な理由で汚されたんです」
キミカさんは笑っていた。泣きそうな笑顔だった。
「汚れたら、あの人の大切な想いが消えてなくなりそうで、怖くて。消えないうちに血を落としたくて、焦っていました」
僕は驚く。大切なものを血塗れにしたユウヒさんに怒るのではなく、もういない人の敬虔な想いを失いたくないという気持ちを持てるのか、この人は。
「もう、ユウヒは私の知っているユウヒではありません。彼はあの儀式で、完全にユウヒではなくなった……マスターになったんです」
ユウヒさんと長い付き合いのキミカさんは葛藤などたくさんあっただろう。けれど、その表情はストールを水洗いしていたときより晴れやかだった。
「おかげで踏ん切りをつけられそうです。シリンくんに教わった洗い方で、いくらかでもストールが綺麗になったら……私はユウヒだった彼とさよならします。彼はもうマスターという存在だと受け入れるのです」
そう言って、キミカさんは僕の頭を撫でた。
「ありがとう、シリンくん」