赤を落とす
セッカが旅に出ていた間のことを綴ろうと思う。
僕の能力は卑怯だ。触れたものの記憶を読み取ることができるばかりか、読み取ったことを気取られもしない。記憶というデータは僕の中に降り積もって、記憶に伴う感情までもが蓄積されていく。
セッカがいない数年間、僕らはそれなりに上手くやっていた。はずだ。確信を持てないのはみんなで話す機会がなかったから。
みんなばらばらに行動していた。僕は任務のとき以外はほとんどセイムに連れ回されていた。セイムは誰よりも元気で、死神の任務に対して「人を殺している」という実感を持っていない。危ない子だと思った。だから、僕が手を握っていなければいけないような気がして、目を離せなかった。
セイムはマザーの作ってくれた草原の空間が好きで、よく僕と草原で過ごす。緑に囲まれていると落ち着くんだという。
「シリンといると、安心するんだよね。たぶんぼくが生前大切にしてた誰かに似てるのかも。その人のことは忘れちゃったけど、きっとなんとなく覚えてるんだ」
セイムは僕の頭に花冠を乗せる。
「だからずっと一緒にいてね」
僕は「うん」と答えられなかった。
僕の罪の数値は圧倒的に多い。けれど、任務をこなすのに充分すぎるほどの能力を持っている。だからキミカさんのように躓くことはないだろう。
そうしたら、罪の数値を持たないセイムをいつか置いていく側になる。だから「ずっと一緒」なんて約束はできなかった。
それに、日記を読んで知ったけれど、セイムは僕が参加していた戦争の種火になった人だ。そのことを思うと複雑な心境になる。セイムがいなければ、何か一つ違えば、僕は生まれなかったかもしれないのに。僕はデータベースになんかならないで済んだのに。なんて、見当違いも甚だしい憤りを覚えることがある。
セイムが僕に見ている幻影は、最期までセイムを守ろうとした本来の青の席候補の人だろう。僕は誰かの身代わりなんてごめんだ。
結局、一番大切な誰かなんてそのときのその人しかいなくて、別の誰かが穴を埋められることなんてない。セイムは心の空洞が寒くて寒くて仕方ないのかもしれないけれど、僕は君を温められないから頼らないでほしい。
そんなことを言えないままでいる。
キミカさんはお気に入りのストールを毎日洗っている。何度も。何度も何度も。何度も何度も何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
ストールの記憶が擦りきれるくらい何度も洗うので、僕は止めた。
「キミカさん。それじゃあ汚れを取るんじゃなくて、ストールが擦りきれてなくなってしまいます」
それでもキミカさんはごしごしと洗うのをやめなかった。
気持ちはわかる。ストールには一目見てわかるほどに血のしみがついていた。それがストールの柔らかな色を汚している。
ストールの元の色はひまわりの花びらみたいな色のようだ。キミカさんはその色を気に入っているようで、だからこそ強迫観念に囚われている。
キミカさんの手も傷ついて血を流し始めていたから、僕は手を掴んで止めた。止まったのはキミカさんの手じゃなくて、僕の息だったけれど。
大量に流れ込んでくるキミカさんの記憶と心象。ある喪服の女性が語る「キミカさま」を追い続けた人の人生。その人にとって、金色とされる「キミカさま」の瞳はひまわりのような優しい色に見えた、と繰り返し語られる。
嬉しい。悲しい。やめて。私も誰かの。神様になれた? たった一人でも。嬉しかった。やめて。私は神様ではなかったの。微笑まないで。「キミカさま」なんて呼ばないで。嬉しい。ひまわり。金貨にばかり例えられていたから。心温かなあの人に幸あらんことを。何を言っているんです、あの人は死んだでしょう。そう。私の腕の中で冷たくなっていくのを感じた。癒しの力を得ても結局人一人救えない。どうして。どうして。どうして。セッカ。ああ、セッカ、ユウヒ。やめて。なんで。どうして。もう私を苛むのはやめて。私の大切なものを汚さないで。血が。ユウヒの首が。血が。血が。ひまわり色。赤。赤。赤赤赤赤赤。馬鹿みたいに赤。しみになっちゃう。どうしたら赤が抜ける? 落とさなきゃ。戻さなきゃ。大好きだったあの色。奪われてたまるか。セッカ。どこにもいかないで。しみが落ちない。落ちない。落ちて。お願い。戻って。返して。いやだ。どうしよう。洗い物なんてしたことなくてわからない。でも洗えば取れるはず。洗うのは水。水。水で洗えば。ああ。取れない。どうして。取れない。取れない。なんで。もうやめて。いやだ。止めないで。止めないで。私は。私は。いやだ。
脳髄を貫くような感情の奔流をほんの一瞬で受け止めて、僕は気が遠くなりかけた。
「キミカさ、……キミカさん」
釣られて「キミカさま」と呼びそうになった。危ない。
キミカさんが僕を見上げた。空虚な金色の瞳はなるほど、ひまわりの色に似て見えた。
「血を落とすなら、冷水よりぬるま湯の方がいいです。それから時間が経っているなら洗剤を使ってみるのはどうでしょう」
「え」
キミカさんはきょとんとしていた。僕はあれ、となって焦る。
「ええと、違いました?」
「いえ、合ってます。詳しいんですね」
「僕は軍属でしたから、服を洗うとき一番よく落とす汚れは血なんですよ。それに」
詳しいのは僕じゃない。
「救護班長をしていた方が、教えてくれたことがあったんです」
ミアカさんのことはもう誰も覚えていない。外の世界では、ミアカさんの屋敷はもう別の誰かが住んでいる。
女性であろうと、人の命を繋ぎ止め続けたミアカさんは英雄として扱われた。さすがに彼の英雄ほどではないけれど、国民から讃えられ、突如失踪した英雄を探す人はたくさんいた。
それでも、「キミカさま」を追い続けた人ほど熱心な人はいなかったけれど。
「そうですか。でも、洗剤はどうすれば……」
「植物とかから成分が採れるって聞いたことがあります。もしかしたら草原に生えているかもしれません」
僕はキミカさんに手を差し伸べる。
神様なんかではないこの人に。
「探しに行きませんか?」