赤梨
目を開けると、不思議な色をした人が、驚いたようにわたしを見ていた。月光でてらてらと銀色みたいでありながら、紫の光が時折ちらつく髪。緑色の燈みたいな瞳……
あ、死ななきゃ。
近くに落ちていたナイフを拾う。血塗れのナイフがどうして都合よく落ちているのか。そんなことはあまり考えない。これがあればわたしは死ねる。それでいい。手首を切ろう。喉に突き刺すのはちょっと怖い。目に刺すのも怖い。死ななきゃならないのに臆病者のわたしは、血塗れのナイフで、少しだぼだぼの袖をまくった。
ナイフについた血はまだ濡れていて、その赤の中にうすらとわたしの顔が映る。輪郭がぼんやりとしていて、よくわからないけれど違和感があった、どうでもいい。
手首に刃を滑らせる。ああ、よかった。血塗れだけどナイフの切れ味が落ちてなくてそんなに痛くない。死にたくたって、痛いのは苦しいもんね、嫌だよね。ああ、生温かいものがわたしの肌を滑り落ちていく。これがどうにもたまらない。頭がくらくらして、意識が遠退く、この感覚はくせになるなあ。痛くないから何回でも繰り返せるし。
なんて、ざくざくと手首を切り刻んでいるうちに、わたしの手を誰かが掴んで止めた。何、やめて。今、最高に気持ちいいから止めないで。
「駄目です」
「ぅ」
ナイフを持った手を捻り上げられた。夢現でわたしは呻き……視界の向こうに見知った姿があるのに気づいた。
明るい色の金髪。周りに溶けないオレンジのようでいて、淡く輝く金糸。長く美しいちょっと手入れの行き届いていない髪。懐かしい。三年前からずっと、ずっと、ずっと。
「ヒカリ……!」
涙腺が壊れたように涙を流す。ヒカリ、ヒカリ、ヒカリ……ずっと会いたかった。
喉を引き裂かれている。ひどい。それは痛いのに、苦しいのに。誰がヒカリにこんなことをしたの。
「ヒカリは死神になりました」
静かな声が後ろからした。不思議な人が、マントの端を裂いた布で、目を隠していた。え、なんで、と思ったけれど。
「アカリさん。あなたの話はヒカリから聞いています。色覚衝動症候群で、緑を見ると発症する。間違いありませんか?」
ああ、そうか。この人、目が緑なんだ。この人の目を見て、わたしは暴走しちゃったんだ。わたしの目を隠すんじゃなくて、自分の目を隠すんだ。優しい人だなぁ。
わたしがこくりと頷くと、その人は続けた。
「死神の役割とは人の寿命に干渉することを罪とし、罪を重ねた人間の命を刈り、その罪を浄化することです。ヒカリはあなたが自身の寿命を自傷行為で削り続けてきた罪を刈り取るために、あなたの元に現れました」
「ヒカリが、わたしの罪を……」
なんだか悪いことをしているみたい。ヒカリがわたしの罪を肩代わりしてくれているみたいで。ヒカリの力になりたいのに、わたしはヒカリに救われてばかりだ。
けれど、不思議な色の人の説明によると、わたしの罪を刈り取ることはヒカリの罪を浄化することにも繋がるんですって。死神は罪を重ねすぎた人間がなるもので、誰かの罪を浄化することで、自分の罪も濯いでいく。告解、懺悔、贖罪。なんだか、聖職であるかのようだ。
「それで……ヒカリではあなたの罪全てを刈りきれず、あなたも死神となることになりました」
「そうですか」
わたしは微笑んだ。不思議な色の人はそんなわたしに驚いたみたい。普通、死神になった、なんて言われたら、いい気はしないでしょう。でも、わたしは嬉しかった。
「これで、ヒカリとずっと一緒にいられます。ありがとうございます」
「アカリさん……」
わたしが嬉しそうにしている以外にも、気になることがあるのだろう。わたしも、何故服がぶかぶかなのかとか、ヒカリと同じくらいの長さだった髪が、顎と同じ高さくらいまで短くなっているのかとか、不自然なことがある。
おそらくこの人やヒカリなど、普通、死神は死んだときの姿のまま死神でいるのだろう。けれど、わたしは違った。
「ヒカリ、ひどい怪我……治るんですか?」
「治りますよ。死神は普通の人間と違って再生能力がありますから。ほら、あなたの手首だって、もう塞がっている」
本当だ。血の痕があるだけで、切った傷など残っていない。どうやら、本当に人間ではなくなったみたい。
「でも、治るからって、どうしてこんな……」
「すみません。でも、手加減をしては、暴走したヒカリを止められませんでした。ですから、一度殺したんです」
わたしは目を見開く。見開いた目が乾いていく痛みなど、どうでもよかった。
殺した。死神だから? この人はどうしてそんな簡単に人の命をどうこうしたというような言葉を発することができるの? この人も死神となるほどに人を傷つけてきたから?
告解、懺悔、贖罪。そのどれにも「心」が伴っていなければ、それは意味のないただの言葉や姿だ。この人にはそれがないの? わたしの病気を理解して自分の目を塞ぐような人なのに?
「ごめんなさい。僕が弱いから、こんな卑怯な手管を取るしかできないんです。……ヒカリは赤を見ると暴走する。人を殺す死神の役目にはどうしたって不向きです。事実、僕が止めていなければ、ヒカリはあなたの身体を心行くまで解体し、手遅れになっていたでしょう」
「ヒカリに殺されるなら、わたしはそれでもよかった」
「そうでしょうね。けれど、徒に死んだ者をいたぶるのもまた、罪となり、浄化しなければならない罪の数値に加算されます」
「数値?」
わたしが聞き返すと、その人は突然服をはだけた……ええっ。あの、年頃は同じくらいで華奢には見えますけれど、殿方ですよね……? 躊躇いとかないんですか……?
と内心で引いていると、その人がはだけた服の下、左肩に五桁くらいの数字が見えた。
「これが罪の数値です。これがゼロになると、死神は浄化され、あの世へ行くことを許されます。……まあ、あの世といっても、正確に天国に行くとか、そういうことはわからないんですけど」
わたしの数値は項にあるらしい。
「その数値が増えると浄化しなければならない罪が増え、浄化が遠退くことになるので、ヒカリを止めました」
「待ってください。それは、ヒカリを傷つけた分、あなたも……」
言いかけたわたしの唇に、不思議な人の白い人差し指が当てられる。
わたしは安心した。この人はちゃんと、優しい人だ。ちゃんと優しい人の側に、ヒカリもいられるんだ。よかった。
「アカリさん、僕からも一つ、聞いていいですか?」
「はい、なんでしょう?」
「アカリさんは何故、死神になって……先程より幼い姿になっているんですか?」
そう、わたしはそのままの姿で死神にはならなかった。サイズの合わない服も着替えなくてはならないだろう。
それでも、わたしはこの姿を選んだ。何故なら──
「ヒカリとおそろいがよかったんです」
そう、ヒカリと離れ離れになって、ヒカリが死んでしまった三年前。そのときのヒカリが知るままのわたしでいたかった。ヒカリがわたしの知るままのヒカリだったから。
ただそれだけのこと。