燈なくして
久しぶりに出た外は花の匂いがした。
死神としての初任務がボクに与えられた、とシリンが教えてくれた。シリンは暗い顔をしていたけれど、ボクの足取りは軽い。
だって懐かしい道を歩いている。本当は神父さまの弔いをしたかったのに、それどころじゃないまま死神になって、ずっと行けていなかったのだ。
教会。
ボクやアカリのためにステンドグラスをなくした教会。中には壁画も絵画もない。色のあるものをなるべくなくすことで、色覚なんたら症候群の対策をしていた。
病気の名前を覚える気にならない。今更覚えたところで、ボク、死んでるんだし。別に自分が死んだことはそんなに悲しくない。最後まで神父さまを守れなかったのは悔しかったし、またいつかアカリには会いたかった。でも、アカに会えた。
ボクにはオトーサンやオカーサンの記憶がない。誰かに愛されたことはない。愛があったとすれば、アカ一人。アカはたぶん、オトーサンやオカーサンの分の愛をボクに与えてくれた。本来なら許されなかったかもしれないことをボクに教えてくれた。
実のところ、アカの容姿なんてよく覚えていなくて、アカをアカだとわかったのは、アカの血の匂いがしたからだ。
目が赤いことしか覚えていない、ボクの育ての親。ボクが自立できるまで、命を繋いでくれた人。
感謝してもしたりない。アカがいなかったら、神父さまやアカリに出会えていなかったわけだし。
「いつか、ヒカリを育ててくれたっていうアカって人に会いたいな」
「そう? ボクですら顔、よく覚えてないくらい前の人なんだけど」
「でも、その人がヒカリを守ってくれたから、今のヒカリがあるんでしょ?」
アカリにそう言われたとき、ボクはじんわりと胸の奥が熱くなるような感じがした。
アカリ、アカに会いたいっていう願いは、もう叶えてあげられないけれど……
ボクはきい、と扉を開いた。十字架に向かって祈りを捧げていた女性用の修道服を着た人物がボクに振り向く。
宵闇の暗い中に溶けるような紫の瞳。白いすべすべした肌。天窓から射し込む月光を密やかに返す赤い髪は淡い。
「だれ……?」
ボクはその声が聞けて、その顔が見られて、とても嬉しかった。こんな形だとしても。
ボクに与えられた初任務。初任務とは大抵、死神の本来の役割である人の命を刈る任務をするのだという。ボクは任務を与えられるまでに間があったけれど、例に漏れず、初任務は人の命を刈る任務だった。
シリンが教えてくれた。死神のルールでは、殺人を重ねすぎた人と自傷を重ねすぎた人を罪人とするんだって。
だからこの再会はそうなるべくしてなったんだろう。
「……久しぶり、アカリ」
月明かりに煌めく紫色が見開かれる。その色はとても綺麗だった。涙が込み上げて、震えても。
「ヒカリ、なの……?」
空気に溶けてしまいそうな透明な声。聞き間違えようがない。あの頃からずっと変わっていないアカリの声だ。ボクの大切な人。
アカリは信じられない、というようにボクを見て呆然としている。ボクは開け放った扉から、こつ、こつ、とゆっくり、アカリに歩み寄る。長いボクの髪が月明かりを返して昼空のような色を紡ぎ出す。
アカリが驚くのも無理はない。今ボクがアカリの目の前にいるということは、死者が蘇ったようなものだ。あれから三年。ボクが死んでから三年の月日が経っている。あの日のことは事件として街に広まったはずだ。少ないない人間が死んだんだもの。そのうちの何人かはアカたちが殺してくれたのだというけれど、死神が実在するなんてみんなは知らない。アカリ以外の誰かから見たら、ボクはあの惨劇を引き起こした死神などと呼ぶにちがいない。けしかけたのはそっちだろうに、笑っちゃうよね。ボクをいらない子だって、ボクは生きていちゃいけないって、みんな思ったから止めなかったんでしょう? ボクは知ってるんだ。
アカリは引き取られたといっても近くに住んでいる。あの事件のことは耳に入っているだろう。だからボクは死んだと思っていたはずだ。譬死体が見つからなかったとしても、三年も月日が経っているし、あんなに血塗れの現場で生き残っていたら、それは奇跡か悪夢だ。
ボクはどちらかというと、悪夢の方なのだろうな。
「アカリ、どうしてこの教会にいるの?」
いなければよかったのに、と心の片隅で思う。
誰が好き好んで大切な人の命を手ずから奪いたいと思うものか。世の中にはそういう考え方をする人もいるらしいけれど、ボクはそうじゃない。
それに……せっかく人に歓迎されたんだから、アカリにはもっともっといっぱい生きてほしかった。幸せになってほしかった。
「あのね、ヒカリは笑っちゃうかもしれないけれど……お世話になった神父さまと、大切なヒカリが死んだって聞いて、わたしはいてもたってもいられなかったの。誰も弔おうとしないからね、死んだ魂のために祈りを捧げていたの。拾ってくれた人のところを出て、三年間、ずっと」
「馬鹿だよ、アカリ」
馬鹿だ。せっかくアカリを受け入れてくれるいい人が現れて、その先に普通の生活や幸せが待っていたはずなのに、それをみすみす逃して、ボクのために祈るなんて。
それでも、アカリが祈った三年という月日がその赤い髪に表れていた。ボクが知る頃には肩ほどもなかったその髪はボクと同じくらい、長く伸ばされていた。その一糸一糸が愛おしい。
幸せを捨てたアカリを馬鹿だと思うのに、ボクのために祈ってくれたのが嬉しい。そこに神様なんかいなくても、祈っていてくれたんだ。
こつこつ、と歩み寄って、アカリのもう一つの変化に気づいた。髪だけじゃなくて、背も伸びた。たぶん、ボクのいない教会にはたくさん寄付がされたのだろう。アカリはふくよかで、女の子らしくなっていた。
どちらからともなく、抱きしめた。思いの丈をぶつけるように、ぎゅう、と。成長したアカリの手は柔らかくて、少し頼もしい。きっとオカーサンがいたら、こんな感じなのかもしれない。
「アカリ、どうして」
今、最も問うべきことは一つ。
「どうして、目を隠していないの?」
アカリがボク、もとい死神に狙われるということは、アカリがある程度罪を重ねた人物であるからに他ならない。アカリはボクみたいに人殺しをしない。それなら何故、アカリは罪人になったのか。
アカリもまた、色覚なんとか症候群。緑色を見ると自殺衝動が湧く。
自殺衝動が湧いたとき、人は自分を傷つける。それが自傷行為。死に近づこうと、大きい血管のある手首を切る。
ボクから離れたアカリがほろ苦く笑う。袖がはらりと零れ、手首に巻かれた包帯が月下に冴え冴えと姿を現した。
「こうしたら、ヒカリとおんなじところに行けると思ったんだ」
「来なくていいよ、馬鹿」
ボクは懐から取り出したナイフを構える。死神の武器だ。どんな形にでもなるらしいけれど、使う機会がなかった。
それを初めて汚すのが、アカリなのは何故だろう。何故だろう、こんなにも嬉しい。悲しい。可笑しい。
ずぶ、と腹に刺さったナイフを受け入れるようにアカリはボクを抱きしめて、笑った。
「おかえり、ヒカリ」
ただいま、なんて返さなかった。
ボクが帰ってきたんじゃない。アカリがこっち側に来てしまったのだ。
ナイフを抜くと、ぼたぼたと血が零れる。ボクの好きな色だ。あか、アカ、赤、紅、緋。
歓喜と悲壮の涙がこぼたれる。
「あはははははははははは!」
ボクはアカリが死んでいくのを笑っていた。
もっとぐちゃぐちゃにしたい、と歪んで。