赤を消す
各々、寂しさに浸っていると、一つの扉が開いた。
そこから出てきたのはマスターだ。眼帯をしている。何故眼帯をしているかというと、眼帯の奥の目はマザーと共有され、現実世界を映さないのだという。映しても、情報量が多すぎて、マスターの脳が焼ききれてしまうから、それを防ぐために眼帯をしているのだという。
そんな説明をする前にセッカはいなくなってしまったけれど。
「なんてことをしてくれたんですか」
マスターは僕につかつかと歩み寄りながら、纏う穏やかさとは似合わない声色で言った。僕の襟首を掴み、持ち上げる。少し首が絞められているけど、これくらい、家にいたときに比べればなんともない。
とはいえ、僕以外はそうではないらしく、アイラさんとリクヤさんが殺気立つ。マスターはお構い無しに続ける。
「セッカはあと少しで、もう一人のマスターになるはずだったのに。もう一人、マスターが揃えば、死神は永久きか」
マスターの言葉は続かなかった。アイラさんとリクヤさんは固まったまま、目を見開いている。ごとり、と僕の足元に重たいものが落ちた。それはマスターの首だった。
嘘のような一瞬の出来事。限りなく一方的な殺戮。僕とアイラさんを除いて、それができるのはこの場に一人きり。
「五月蝿いなあ、おじさん。みんな悲しんでるんだから、空気読んでよね。おじさんはセッカがいなくても悲しくないんだろうけど」
無邪気な声。携えられた鎌からは赤い血が滴る。目が大きい、あまりにもいたいけな面差しの中に鎮座する真っ赤な目。それは怒りにも憎しみにも囚われない、けれど明らかに殺戮者の目だった。
返り血まみれの白いマントを羽織った死神の姿に僕はぞっとした。その鎌が通常の首刈り鎌のように大きければ、マスターだけでなく、僕の首もろとも刈り取っていたことは想像に易い。今でこそ目から迸る殺気が凄まじいものであるが、マスターの首が落ちるまで、僕はヒカリが動いたことにすら気づかなかった。
気配の沈黙。殺意の静けさ。下手な暗殺者より、それが自然にできている。
僕はマスターの血を浴びながら、マスターの体が崩れていくと共に床に落ちる。カーペットに赤が染み込んでいき、暗く深い色に染まっていく。
「シリン大丈夫?」
「うん……」
正直呆気にとられていた。ヒカリがそこそこの殺人技能を持っていることは知っていたが、まさかあそこまでとは。それとも死神になったことで更に能力が上がったのだろうか。
死神になることによって、障害や病気などが治ることはないものの、任務を恙無くこなすために身体能力向上が見られることは知っていた。僕、セッカ、アイラさんクラスになると、生前からすれば誤差程度でしかないが、セイムやキミカさんなど、生前人殺しをすることのなかった人たちが、簡単に人の首を飛ばすことができるようになっている要因としては身体能力の向上が一番だろう。
ヒカリは人間時代は僕より弱かったかもしれないけれど、僕にとって誤差程度しか上がらなかった身体能力がここまで上がるものだろうか。
それに、身体能力だけじゃない。殺気や殺意は身体能力でどうこうできるものじゃない。僕は暗殺任務が多かった傾向上、殺気を抑えることはできるけれど、ヒカリはそんなことはなかったはずだ。
戦争が終わって、数十年経った世界。いかに過酷な環境下で生きていたとしても、後ろめたいことをしているわけでない限り、隠密に特化する必要はない。
そう思考を巡らせていると。
むくり。
「ひゃっ」
見ていた中でキミカさんとセイムが悲鳴を上げる。無理もない。首を切り落とされたマスターの体がひとりでに起き上がったのだから。
リクヤさんはあーあ、という顔をしている。大方予想はついていたのだろう。アイラさんも驚いてはいない。長命の吸血鬼だった上に五千年も封印という名目で様々な吸血鬼の有り様を見てきたのだ。何もないことの方がおかしい。
さて、首を飛ばした本人であるヒカリはというと……
「死体が動いた」
「ひどいですねえ。私は死体じゃありませんよ。生命という存在を超越したマスターです。君たち虹の死神の上位互換の存在」
首のない体が手探りで自分の生首を拾い上げる。ヒカリは淡々と「死体が喋った」とまるで話を聞いていないかのように言い放った。
マスターの体は頭部に生首を乗せ、角度調整をし、よし、と人として真っ当な位置に顔面をセットした。首を回す間、ぐちょりぐちょりと音がして、そのたびに傷口から垂れる血にキミカさんは耐えられず、口元を押さえて目を逸らす。セイムはびっくりこそしたものの、持ち前の順応力で「ほえー」と間抜けな声を出して、興味深げに観察していた。
「上位互換とか言いながら、下位互換のボクなんかに簡単に首を刈られちゃうのはどうして?」
ヒカリがマスターを煽る。幼さ故の怖いもの知らずかもしれないけれど、それにしては真っ赤な殺意に満たされた目をしている。悪意を孕んだ声色。
マスターはにこやかに答える。
「別に、首を切り落とされようと、臓腑を引きずり出されようと、脳天を撃ち抜かれようと、私は死にませんからね。死という概念が私には存在しません。取れた首はこうやって戻せばいいし、なくなった内臓は体の中ですぐに作り直されます。脳天を撃ち抜かれようと、私の思考、体の操作能力は、この体の肉体的な損失により損なわれることはありません」
「じゃあ」
ヒカリは僕より年下とは思えないほどの残忍な笑みを浮かべて、鎌を構える。その刃を舐めるような蛇のような狡猾で殺戮的な目は、もうただの赤ではなかった。
「何度殺してもいいんだね、おじさんは」
部屋の空気が一気に十度くらい低下したような心地がした。冷たくて、快楽的で愉快犯じみた狂気。それがヒカリの色覚衝動症候群などという病気によるものではなく、理性から放たれている言葉であることがわかって、僕とアイラさんが緊張する。
ヒカリは本気で正気だ。これがヒカリの通常仕様なのだ。それが恐ろしい。
「強いからって調子に乗るなよ、小娘が」
マスターはにこにこしたまま、ヒカリに詰め寄る。首の傷は皮膚と皮膚がくっついて、絡み合い、痕が徐々に薄れていく。
「ともかく、セッカをみすみす浄化させたことの流転が君たちに巡り巡ってくるでしょう。私が今伝えるべきは『そのときを覚悟しておけ』ということです」
話題を戻したマスターの言葉をはっと鼻で笑う者が一人。眼鏡の奥から意志の強い緑を覗かせてマスターを嘲笑する。
「勿体ぶって何かと思えば、ハッタリかよ。つくづく滑稽だな、マスターさんよ。セッカが浄化したのは自分の意志だ」
リクヤさんはつかつかと、マスターに詰め寄る。それから、ぎらりと睨めつけて、マスターに告げる。
「いるかどうかもわからねえ神にかこつけて、てめえらの傀儡になるより、最期に自分の願いを果たして死に際を決めたやつのことをお前らのせいだ、どうこう言われる筋合いはねえ。それに、セッカがいなくなって悲しんでるオレらの前に土足で踏み込んで自己都合ばっか押しつけてくるやつなんざ、仲間も尊敬もねえよ。よそでやれ」
至極真っ当な意見だ。が、そんなリクヤさんを今度はマスターが嘲笑う。
「君がそれを言うのか? 自己都合で他者の心という心を踏みにじり、今、虹の死神となっている君が? はははははっ、片腹痛いね」
「……何?」
リクヤさんが言い返す前に、アイラさんが二人の間に割って入る。ばちばちと交わされていた火花を断ち切るように。
アイラさんは背も高く体格もいい。人間では到底及ばないような年月を生きたことに裏付けられる圧倒的存在感と威圧感。端から見ていても押し潰されそうな心地になる気迫。
僕は冷や汗がつう、と頬を伝っていくのを感じた。先程からずっと、互いの地雷を踏み抜いてばかりの応酬だ。ぴりぴりした空気が肌を伝って頭に痛みをもたらす。正直、ここにいるだけで具合が悪い。険悪と嫌悪が満ちたこの空間から、逃げられるものなら逃げたかった。
「こいつのことについて、こいつが自分で思い出してからなら、好きなように言っていい。だが、こいつがまだ今のままでいるうちに愚弄するな」
アイラさんの殺気は肌が火傷してしまいそうなほどに痛い。アイラさんとリクヤさんの過去は繋がっていて、それを嘲笑する行為は地雷そのものなのだろう。空気が悪くばかりなっていく。
それでもマスターは笑みを絶やさない。
「君が一番怒っていいだろうに、どうしてリクヤを庇うんだい? てんで理解できないね」
「怒りはしたさ、とうの昔に。だから赤の他人のお前が勝手に掘り返すな」
「でも君は君のこ」
会話が途切れたと思うと、アイラはマスターの首をホールドしていた。
そこには殺気を凌駕した冷たさと静けさが共存するのみだ。
「それ以上言うなら、ゆっくり全身の骨を砕いてやろう。死ななくとも痛いものは痛いだろうからな。拷問はし放題だ」
「わ、わかったってば」
全体的に、マスターへの殺意が高いな、と僕は顔を青くした。僕はマスターになる前の彼の行いをあまり知らないけれど、よほどひどいことをしていたのだろうか。
アイラさんから解放されたマスターを見て、ヒカリが言った。
「何もかも、おじさんの思い通りになんかならないよ。ボクは役目を確信した。ボクはおじさんのようにはならない」
ヒカリの指先が、ぐ、とマントを握り込む。
「ボクの役目は、赤を消すことだから」