紡赤
「そうか」
セッカにセイムと話したことを告げると、セッカは優しい眼差しでそう言った。
「そうか、そうだよな。セイムはそういうやつだ。忘れていたよ。おれは背負うことに慣れていたから」
「慣れていたんですか?」
僕が聞き返すと、セッカはにや、と笑った。
「五千年だぞ?」
言われて、気づく。セッカは死神になってすぐ、この日記を託され、今日まで綴ってきた。時折キミカさんたちが綴ることもあったけれど、五千年のほとんどをセッカが背負ってきたのだ。
セッカは五千年も、罪と記憶を背負ってきた。
「まあ、背負うといっても、お前ほどじゃないさ、シリン。おれはほどよく忘れているよ」
「大事なことは忘れてないじゃないですか」
「そりゃ、大事なことは忘れないさ。大事なことだからな」
五千年も、自分を守ってくれた義理の姉を忘れず、守れなかった小さい子どもたちのことを忘れずにいて、何を言っているのだろう。充分背負っている。重い荷物を五千年も。
みんな、僕のことを背負いすぎだというけれど、五十歩百歩だと思う。忘れる方が楽なのと同じで、忘れてしまうことが怖いことだってある。僕は後者だ。忘れないことが当たり前だから、忘れてしまうことが怖い。
大佐のことを思い出したときだってそうだ。こんな大事な人のことを忘れていたのか、と思ってぞっとした。今まで、拷問で爪を剥がされたって、電気を流されたって、食事に死なない程度の毒物を盛られたって、こんなに怖いことはなかった。一番怖いのは、当たり前のことができなくなることだ。
だから、何かを覚えていることの方が僕にとっては自然で、当たり前で……何かを抱えるという「使命」みたいなものがないと、僕は生きていくことすら許されないような、そんな錯覚をしていた。
錯覚のままに生きてもいいだろうと思う。そう錯覚するのは僕らしさの一つだ。みんなは悲しいというけれど、僕は僕らしさを誇りに思える。ただそれだけでいいのだと思う。
「でもシリン。お前は一度、失いたいと思ったんじゃなかったのか? その類稀なる記憶能力。お前が大人に利用され続け、貶められ続けた力を、お前は一度、疎んだはずだ」
セッカの指摘は確かだ。僕は一度「こんな記憶、なくなってしまえばいいのに」と願った。それはマザーによって叶えられ、僕は死神になった当初、生前の記憶を失くしていた。
あっという間に思い出してしまったけれど。
「疎みましたよ、ええ。でも、僕も人間で、愚かな生き物だったんですよ。失って初めて、大切だったことに気づいたんです。記憶は、そんなに簡単に捨てていいものじゃなかった」
確かにセッカの言う通り、大人に散々利用されたし、弄ばれたといっても過言ではなかっただろう。
嫌気が射すような能力だった。この記憶能力さえなければ、もっと楽に生きられただろうと思う。でも、悪い記憶ばかりじゃなかった。悪くない記憶は敵軍に潜入していたときのものばかりだけれど。
全部忘れる必要はなかった。普通の人のようにほどよく自分に都合のいいことばかり覚えていられる頭が欲しかった。でもそれは僕じゃない。
「死神になれて、僕は嬉しかったんですよ。僕にこの記憶能力がなければ、あんなにたくさん人を殺すことはなかったでしょうけどね。きっと人を殺したとして、虹の死神の誰かに刈られるだけで終わったでしょうけどね、僕は……セッカに会えて、嬉しかったんですよ」
「セイムじゃなくてか?」
「セイムともですけど」
きっとこの力がなきゃ、ただ戦争に巻き込まれて死ぬだけの人間で終わった。誰にも出会えないまま終わったはずだ。大佐やミアカさんやセッカたちに会えないなんて、寂しすぎる。
不運な人生だったかもしれないけど、不幸なだけの人生ではなかったと思う。
そう語ると、セッカは何故だか寂しげな表情をした。
「どうしたんですか?」
「いや、シリンの言う通りではあるんだが、悲しいな」
そう思う流れだっただろうか?
「マザーは卑怯だよ。結果的にお前がよかったと思えたからいいものの、お前が望んだのは記憶喪失じゃない。記憶能力の喪失だ。それを言葉尻を拾って、きちんと本人に確認もしないで叶えるなんて、勝手すぎる。おれは、そう思っているのに、それが正しいはずなのに……お前が、それでよかったっていうから、悲しいんだ」
僕はセッカやキミカさん、リクヤさんが抱えるマザーへの恨みや憎しみを知っていた。あんまりだということは僕にもあったし、理不尽に感じたセッカたちが負の感情を抱いてしまうのは仕方のないことだと思う。
結果よければ全てよし、なんて言うけれど、そんなのは嘘だ。例えば、戦争で自国が勝てば、その過程で生まれたたくさんの兵士や民の死もよかったことになるのか。遺族の悲しみは必ずしも勝利で拭われるとは限らないし、死にたくて死ぬ人なんて戦争に行かない。死にたくなかった人たちが「死にたくなかった」という事実は変わらないのに、それが自国の勝利だけで報われるか。
血塗れのハッピーエンドだ、そんなの。
「セッカは、どうするんですか? これから先、あまり時間はないんでしょう?」
「ああ。虹が七席揃ったという意味でも、時間はない。ヒカリとはお別れを済ませたよ。未練があるとするなら……マザーやユウヒが間違っているということを、本人たちにぶつけられなかったことかな。今更なんだが。でも、おれにあとできること……というか、おれがあとやるべきことは『虹の死神赤の席』を空席にすることくらいなんだ」
「マスターみたいに残ろうとはしないんですね」
「残らない。残ってやらない」
セッカが淡々としながら仄暗く笑う。
「あいつらはおれを同類として引きずり込もうとしているみたいだけど、思い通りになんか、なってやらない。それにあいつらがしてるのは傷の舐め合いだ。二人きりの方がお似合いだよ」
セッカが皮肉っぽく物を言うのは珍しい気がした。感情の起伏はあるけれど、大きくはないし、表情もあまり変わらない。大きな声も滅多なことじゃ出さないセッカに「傷の舐め合い」なんて言わせるマザーとマスターは、一体セッカに何をしたのだろう。
「おれには何もなかったから、ちょうどよかったんだろう。おれは特に願いもなかった。淡々と日記が書けた。だからまだ何もないままだと勘違いできる幸せな頭をしてるんだ」
「セッカ」
「……まあ、確かに、おれの人生には何もなかったよ。でも、死神としての役目を終えた後に期待することが一つあるんだ」
セッカの声は少しだけ嬉しそうだった。表情が変わらないだけで、人並みに幸せになりたかったり、誰かの幸せを願ったりするセッカを、僕は初めて会ったとき「死神らしい」なんて言ったことを後悔していた。
「期待、ですか?」
「輪廻転生だ」
生まれ変わりを信じる無垢な人が、死神らしい? そんなわけないだろう。
「おれは死神をする最中、おれの恩人に再会できた。たぶん、生まれ変わりだ。生まれ変わりの概念があるなら、罪を浄化して、正しく輪廻に戻ったとき、全部忘れたとしても、いつか、会いたい人に会えるかもしれない」
はっとする。会いたい人に会える。それは僕も心のどこかで願っていることだ。
父さん、母さん、殺してしまった人たち、それから誰より……大佐。会いたい。会ってどうするとかはない。ただ、会いたい。
そう願う相手がセッカにもいることが、とても尊いことのような気がした。
「死神として、長いこと生きたよ。だからこんなことに気づけたんだ。生まれ変わった先でおれがおれだったことを忘れたとしても、生まれ変わることにおれは希望を抱けるよ」
そこでセッカは被っていたフードを脱いだ。ハイネックをめくって、首筋の数値を見せてくる。もう二桁だ。
「次で終わる。シリン、後はよろしくな」