やがて紫す
「知ったような口を利くじゃん」
セイムの声は冷たかった。
「人は忘れる生き物だよ。そもそも長生きしないんだから、長いこと覚えている必要がない。神様がそう作ったんだよ。セッカが消えて、しばらくしたら、みんなセッカのことを忘れるよ。セッカを知らない新しい死神が空いた席を埋めて、セッカを覚えている死神はいなくなる。ぼくも忘れる。このネックレスをくれた人の名前さえ覚えていないんだ。大切な人だったのに」
セイムがいつもつけているネックレスがしゃらん、と音を立てる。シロツメクサを模した首輪。ただのお洒落じゃなかったんだ。
自然のものをモチーフにしているため、自然の象徴色である緑のシャツによく馴染むネックレス。セイムはお洒落だな、と思って見ていたけれど、誰かからの贈り物らしい。
その「誰か」を思い出せないことがセイムを悲しませているらしいことがわかった。たぶん、思い出してしまった僕のことが羨ましいんだと思う。
「シリンはいいよね。他の誰が忘れても、シリンが生きている限り、その人は死なないっていうことでしょう? 絶対忘れないんだもん。すごいね、救世主だ」
セイムの言い方が少し卑屈に聞こえる。
「どうしたの、セイムらしくないよ」
「ぼくらしいってなに」
セイムが凍えたような……毛布をなくして困っているような目で僕を見る。
「セイムは明るくて、卑屈なところがなくて、突き抜けて前向きに見えるよ。なのに、なんだか僕に怒ってるみたいだ」
「怒ってないよ」
セイムは俯く。
「ただぼくは……やるせなくて情けないだけ」
「死神って、そういうものだよ。みんな、何かにやるせなさを覚えて、自分の力が及ばないことを情けなく思ってる。セッカだって、キミカさんだって、リクヤさんだって、アイラさんだって、ヒカリだって、マスターだって」
「シリンだって?」
迷子の目が僕を覗き込む。無垢な声がどこか悪戯っぽくて、僕は笑った。
「そう、僕だって、やるせなくて情けないよ。まだ大佐のこと、引きずってるんだ。忘れないのがいいことなのかわからない。僕は忘れないんじゃなくて、忘れられない、だから」
そう、僕の記憶能力は僕が自分でどうこう調整できるものではない。忘れたいことも忘れられない。勝手にずっと脳に刻み込まれたまま、忘れることができないでいる。
記憶が色褪せないといえば、心地よく聞こえるだろう。けれど、「忘れない」という行為は自主性があるからこそ美徳へと昇華されるのだ。僕のは覚えようと思って覚えているんじゃない。
もし、神様がいるのだとして、それが僕を作ったのだとして、神様は僕に忘れない能力を与えたんじゃない。忘れる能力を奪ったんだ。
そういう意味では、僕は人間らしくないのかもしれない。それがおそらく「僕らしさ」なのだから、不本意だ。
「今まで何も抱えてなくてごめんね」
「セイムに謝ってほしいわけじゃないよ。今まで、『抱えない』のがセイムらしさだっただけで」
セイムは僕と真逆のような存在だ。決して物覚えが悪いわけじゃないんだけど、忘れっぽい。それは心を守る上で存分に防衛機能を使いこなしている証拠だ。いいことだ。
だって死神は人を殺すのが役目だ。それで、罪を背負っているとはいえ、人を殺して、その人の記憶を垣間見て、その人の分の記憶まで背負って生きていかなきゃならないなんて、あまりにもひどい。だから適度に忘れる必要があるんだ。そのままだと心を痛めて、壊してしまうから。
それにしたって忘れすぎだ、とセイムは思うかもしれないけれど、たぶんそれはセイムが「永遠」に死神であるために作り替えられた結果なのだと思う。一番長生きのマスターは言っていた。忘れないとやっていられない、と。
セイムは少し、マスターに似ていると思う。一番大切な人を失って、本来の目的すら忘れて、それでも死神で居続けるところとか。
きっと、大切な人のためなのだろうと思う。世界って複雑だ。大切な人を守るために、大切な人を失って、大切な人のことを忘れなければいけないことがある。矛盾に見えるこれが、同時に成立するのだから、「矛盾」という概念すら怪しく思える。
僕が物事を難しく考えすぎなのかな。
「困ったらみんなに相談すればいいよ。みんなは日記のこと、知ってるみたいだし、僕やアイラさんなんかは、罪の数値が多いから、しばらくは死神をやることになると思うし」
そこでセイムがきょとんとする。
「罪の数値って何?」
あ、そっか。セイムには罪の数値がないんだっけ。
セイムは僕たちとは少し違う成り行きで死神になった。というのも、セイム自身は生前に何の罪も犯していないのである。大切な人の身代わりに死神になった異端の存在。大切な人の記憶が消えているのは、セイムが身代わりの死神であることの帳尻合わせだと聞いた。セイム自身はあまり理解していないみたいだけど。
だから、セイムには罪の数値がない。僕は左腕を見せることにした。肩に近い辺りに五桁だか六桁だかの数字が刻印されている。
僕がマントをはだけてシャツを脱ぐと、セイムは目を白黒とさせた。
「し、シリン、いきなり服脱いでどうしたの?」
あれ? セイムが何故だかどぎまぎしているんだけど……なんで?
「ほら、僕の左腕。これが罪の数値。みんな、体のどこかにはこの数値が刻まれていて、この数値が零になると、浄化されるんだ」
説明をしたけれど、ちゃんとお洋服着なさい! と言われてしまった。何を恥ずかしがっているんだろう? 同性同士なのだし、意識することはないと思うけどな。
セッカは首筋、キミカさんは背中、アイラさんは左手首に刻まれている。そういえば、ヒカリはどこになったのだろう。
「罪の数値はもういいよ。……シリン、ぼくの代わりに日記を書いて。ぼくはみんなのこと、わかれる気がしないよ」
セイムがセイムなりに思い悩んでいるのだな、と思った。セイムは何かを背負うのが苦手というのもあるのだろうけど、背負うことに向いていないのかもしれない。何も背負わないで生きてきたから、生前に罪がなかったのだろうし。
「わかった。でも、日記の管理はセイムがしてね。セッカの本棚をセイムの部屋に移すだけでいいから」
「うん……それくらいはするよ」
セイムは少し後悔の色を滲ませて、ごめんね、と言った。
「シリンはぼくより年下なのに、ぼくよりたくさんのものを背負っているのに、シリンに押しつけてごめん」
「いいよ」
僕は微笑んだ。
僕は軍の機密情報だったり、敵軍の弁慶の泣き所になるような情報だったり、記憶だったり……確かに十五年という短い人生の割には、たくさんのものを背負っているかもしれないけれど、そんなの、今更だ。
それに、セイムがそのことを申し訳なく思ってくれているだけで、僕は充分だった。生前の僕はデータベースで、大人に都合のいい道具でしかなかったから、荷物を背負うことが当たり前で、申し訳なく、なんて思われたことがなかったから。
死神になって初めて、真っ当に人として扱われた気がするよ。だから、それだけで満足だ。