藍と紫
神父さまが気づいて、すぐ来てくれたおかげでアカリは助かった。致命傷になるものがなかったから無事で済んだのだという。
もし、あのとき、喉笛を掻ききってしまっていたら、と想像するとぞっとする……と同時に、好奇心のようなものが湧く。
ボクの大好きなアカリの血。それはどんな味がするんだろう。どれだけ美味しいんだろう。……そんな想像をしてしまうのだ。
まるで人の肉を食べたことがあるみたいな空想だ。けれどたぶん、食べたことがあるんだろう。ボクの記憶は血塗れだ。血じゃない赤はアカの目の色だけ。記憶の中のアカは赤い目以外は肌も髪も服も真っ白だった。ボクの記憶が真っ白なんじゃなくて、アカが本当に真っ白だったんだ。
それはそれで白子という稀子らしい。色のない人間だ、と神父さまが教えてくれた。
「ヒカリはもしかしたら、本当に神の導きにより、生き延びてきたのかもしれませんね。白い稀子はまっさらな魂を持つ神の御子と言われています」
「だーかーら、神様は信じないってば。アカが特別だったのはそうだけど」
むうっと口を尖らせる。神父さまはすぐ神様の話にしてしまう。ボクは神様を信じたくないのに。
でも、それは仕方のないことだ、とアカリに諭された。神父さまは神様を信じるのが仕事なのだ。神様のことをたくさん知って、神様を尊ばなければならない。神父さまのその在り方をボクは窮屈そうだと思った。
ボクは思考を一つのことに縛られるのが苦手なのだと思う。だから、宗教や倫理を始めとした「思想」のことを考えると、頭がこんがらがる。
それはもしかしたら、病気の影響かもしれない、と神父さまは告げた。ボクの病気は殺人衝動に作用する。殺人衝動というのは、人間の強い理性によって通常は抑えられているものだ。それが色というたった一つのトリガーで解放されてしまうのは、倫理や道徳が上手く理解できない脳の構造をしているからかもしれない、と。
ボクは簡単な言葉で、オジサンたちから色々教わってきたけど、それは簡単で緩い決まり事だから受け入れられたのだろうと神父さまは言う。
「人殺しは悪いことだと理解できているだけで、ヒカリは充分だと思いますよ」
神父さまは優しく微笑んだ。
アカリとボクの病気が作用し合って、ボクがアカリを傷つけることは、それから何回もあった。ボクはなんとかアカリを殺さずに済んでいる。
アカリの澄んだ声で「ありがとう」と言われると、正気に戻れるのだ。アカリは無意識らしいけれど、非力な自分に代わって、自分を殺そうとしてくれるボクに感謝しているのだという。
アカリの自殺衝動というのはある程度の自傷行為、血を流すことで充足され、収まるのだという。そのときに口から出るのが「ありがとう」という言葉なのだろう。
ボクが正気に戻れるのは、感謝されるからだ、と推測した。たぶんだけど、ボクはボクの殺人衝動を止められたり、恐れられたりしたことはあったけど、感謝されたことはなかったから、びっくりして止まるのだと思う。あるいは……誰からも歓迎されなかったボクが、感謝されることで「必要とされた」と勘違いの充足感を得ているのだ。自分勝手な話である。
それでも、衝動を止める方法が見つかったのは一歩前進だ。アカリのは全然前進してないけれど。
紫の目の差別に関しては、目隠しをすることで和らいだ。元々アカリは温厚な性格で、人当たりがいいから、目さえ隠していれば、みんなが親切にした。現金なものだ。アカリが死にかけたとき、ありがとうと言って、ボクに拍手喝采までしたくせに、「アカリちゃんはいい子だね」「アカリちゃんみたいな子なら、うちに欲しいわあ」だなんて、一体どの口が言うんだ。
アカリがいい子なのは否定しないし、むしろ広めていきたいことだけれど。大人たちの掌返しが気持ち悪かった。
でも、里親が現れたら、教会としては、その子を里親のところに送ってあげなければならないんだって。せっかくボクはアカリと出会えたのに、離れ離れになるんだ。そのことが悲しくて、呆然と泣いたり、アカリにすがって、どこにも行かないで、と言ったりした。
でも、アカリは泣き笑いみたいにして、言うんだ。
「大丈夫だよ、ヒカリ。私がどこかに引き取られても、死ぬわけじゃないんだから、生きている限り、また会えるよ。それに、引き取られても、たまに教会には来るから、そのときまた一緒に遊ぼう」
そう、そうだ。アカリは死ぬわけじゃないんだ。アカリの居場所が教会きら誰かの家になるだけでいなくなるけど、それは死ぬってことじゃない。そのことにボクは感動を覚えた。
ほどなくして、アカリを引き取るという人が現れた。面倒見の良さそうな溌剌とした女の人と、少し頼りなさげな男の人。二人は夫婦で、子どもが欲しいけれど、なかなか子宝に恵まれなかったらしい。だからアカリが欲しい、と言っていた。
「神があなた方に命をもたらさないのは、きっと意味のあることです。この子がその『意味』になれれば幸いです。アカリをよろしくお願いいたします」
そう言って、神父さまはアカリを里子に出した。
ボクはアカリが教会にはまた来ると言っていたから、安心して、お別れの言葉を交わした。
「アカリ、幸せになってね」
「うん、ヒカリも、幸せになってね」
「バイバイ」
「バイバイ」
……まさかそれが、アカリと交わした最後の言葉になるなんて、このときは知りようもなかった。
虎視眈々と、アカリだけがいなくなるときを待ち望んでいる人たちがいた。
それはアカリのシノメのことを知らず、ボクを悪辣な殺人鬼として抹殺しようとする人々だった。ボクは確かに人殺しであることにちがいはないから何も言えないけど。
ヤツらの狙いはそんなボクを保護する神父さまにも向けられていた。
アカリがいなくなって、数週間。それがボクらに許された余暇だった。
神様を信じてはいないボクだけれど、神父さまに感化されて、お祈りの時間の静謐に身を委ねていたときのことだった。
窓を無数の銃弾が砕き、手榴弾が投げ込まれた。
ボクは視認すると同時、神父さまを抱えて、教会から脱出していた。運動神経だけはとてつもなくよかったから、逃げ切れた。
けれど、外にボクらは誘き出されたのだ。武装した人間が、何人もいた。
誰かが号令をかける。
「やれ!!」
同時、銃弾の雨が降ってくる。ボクは必死に神父さまを庇いながら、雨の合間を縫った。ボクの人外の動きに、誰かがひいっと情けない悲鳴を上げる。
その悲鳴を上げた人物に肉薄した。手の銃を蹴飛ばして、振り上げた足をそのまま脳天に落とす。
そんなボクの攻撃の瞬間にボクから少し離れた神父さまの姿をヤツらは見逃さなかった。
「ヒカリ! 逃げ」
たぁんっ
神父さまは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。落ちた地面に広がる赤。ボクの中で渦巻く衝動と激情。ボクを止める人は、もういない。
ボクは神父さまを撃った狙撃手のところに移動し、背後からその首をへし折った。他から飛んでくる銃弾の盾にする。ボロボロになった死体は捨てた。脇目も振らず、次の標的へ駆ける。
ボクの移動速度に、狙いを定めるのは追いつかない。何人いるかは知らないが、さっきのヤツから奪った銃で、一人のこめかみを撃ち抜いてやった。次。
近接用に足にくくりつけてあったナイフを剥ぎ取り、視認できたヤツを銃で撃ち殺しながら、ナイフを横いっぱいに振って投げる。勢いのついたナイフはボクの右側から狙っていたヤツの眉間に見事に刺さった。
殺せば殺すほど、赤にまみれていく。箍が外れていく。でも、コイツらに、容赦なんて必要ないよなぁ?
「死ね! 死ね! 死ね!」
誰かが叫んで、ボクを狙ったらしい銃を撃ってくる。腕前はお粗末なものだ。避けるのが簡単すぎて、ボクはハッ、と鼻で笑った。
そんなので、ボクが殺せると思ったの? おめでたい頭だね。そんな頭、記念に弾いてあげるよ。来世ではもっと頭がよくなるといいね。
ハハハ、ハハハ、キミたちが派手に動いてくれたおかげで、辺り一面赤まみれだ。赤まみれだとどうなるか知ってる? ここはもう、ボクの独壇場だよ?
「アハハ! アハハ! キャハハハハ!」
赤赤赤赤。ボクの大好きな色。ボクを解放してくれる色。しかも赤の中でも大好きな血の赤だ。
ヤツらとは雰囲気の違う、赤い髪の人がやってきた。髪が赤い。鮮烈な赤はボクの衝動を刺激して、より高みへと導く。
その人は身のこなしがよかったけど、素手の方がきっと強い。死神みたいな大鎌なんて邪魔くさいものを振り回すから、弾いてやったら、簡単に隙ができて、懐に入り、内臓をグチャグチャにしてあげる。気持ち悪い音が気持ちいい。
それでも赤髪の人は立ったけど、紫の髪の人に連れ去られていった。残念。
さて、あと何人残ってるかなぁ、と武器を拾って、汚れを払うと、声がした。
「ヒカリ!!」
耳を疑った。
とても、懐かしい声がした。遠い記憶と、寸分違わない声。
振り向くと、白いマントの人物。ボクにわかるように、とフードを取って、その白い髪と白い肌と──赤い目を、晒す。
ボクは呆然と、その名を呼んだ。
「あ、か」
たぁんっ
その声が届いたかわからない。
ボクは心臓を撃ち抜かれたから。
なんとも滑稽で、呆気ない、終わりだった。
最期、懐かしいぬくもりに包まれた気がして、ボクは笑えたかもしれない。