人殺紫
積み上げた本の上にレモンを置いて、爆弾に見立てた阿呆がどこかの世界に存在したって、バカみたいな話があった。
でも、果物が爆弾になることはあるみたい。
ボクの前に投げられたのは赤い爆弾だった。
爆弾は人を殺すための道具だ、とオジサンから教えてもらった。
オジサンたちは戦争から生き延びた人たちだった。帰る家がないのは、爆弾で家が吹き飛ばされたからだという。人を殺すのは悪いことで、爆弾は人を殺す道具だから悪いもので、戦争は爆弾をいっぱい使って人をたくさんたくさん殺すから悪いものなんだって。
でもボクは人殺しって呼ばれた。ボクは悪いものなのって聞いたら、ガキンチョは聞き分けがつかないから、ボクみたいに言葉を覚えたら、いいものや悪いものの分別を教えるものなんだってオジサンは教えてくれた。
人殺しの病気は悪いものだから、でもボクが自力で止められるようなものでもないから、赤いものを見ないようにしろ、と言われた。
オジサンたちの中には戦争で戦って人を殺した人もいた。でも、戦争があったのは、ボクが生まれるよりずっとずうっと前のこと。だからオジサンには人を殺す力はないって言っていた。
ボクは食べられないものがそれなりにあった。まず、林檎はダメ。トマトもダメ。芋も種類によってはダメ。人参もダメ。葡萄もダメ。カブもダメ。ダメダメダメ。
ボクが「赤」と認識する範囲はそれなりに広いらしく、人参がダメだったときは、皆一様に首を傾げていた。病気の法則性なんて、ボクが知りたいくらいだよ。
オバサンが、ボクがお酒のリンゴを食べているのを見て、その理由を聞いたら、オジサンたちのこと「おたんこなす!」って怒ってたっけな。あれは面白かった。「おたんこなす」という言葉の響きだけで、一日中けらけら笑えたくらいだ。
そうしてオバサンは、たまにボクに剥いた林檎をくれた。林檎は皮が赤いだけで、皮を剥けば食べられる、と。林檎の中身は黄色だった。
「リキュールのリンゴはなんで赤くないの?」
「お酒にするのは発酵って言って、簡単に言うと腐らすのサ。物は腐ると色が変わるんだよ。あとはまあ、長い間浸けてると、色が抜けるのサ」
怒鳴り声が大きいオバサンはそう言って剥いた林檎をくれた。ボクの病気のことを知って、難儀だねえ、と言ってくれた。
次第にボクの病気のことは広まっていった。だから、ボクへの理解も広まっていった。
そのはずだった。
ある日。
真っ赤な林檎が、路地裏中に撒かれていた。赤い絨毯みたいに。いや、それはボクの錯覚かもしれないけど。
赤。赤赤赤赤、赤、赤、真っ赤っか。
「アハッ、アハハハハ!!」
ボクは心臓が跳び跳ねるような心地になった。久しぶりに赤を見たから、なんだかすごく嬉しくなってしまった。
だって、赤はボクにとって、大切な色だ。
ボクを見つめてくれた目の色だ。
ボクに名前をくれた。ヒカリという名前はボクの道標。ボクの燈。
燈の色は赤色だ。
「キレイだねえ、キレイだねえ」
ボクはそう言いながら、走り回った。すごく気分がいい。途中、ぐちゃりと腐ったリンゴを踏んだような気がしたが、赤くて綺麗だったのでボクはご機嫌だった。
オバサン、オバサン、ボク、林檎を見ても平気だよ、なんて伝えてみたかった。林檎がボクの足を掴むまでは。
違う。林檎に手足はない。ボクの足を掴むなんて、林檎にはできない。
一つ気づけば、瞬く間にボクの目に真実が映ってくる。
赤い絨毯みたいにしているのは、林檎じゃなくて、血だ。林檎の中身は赤くない。林檎の中身は黄色いから、皮を剥けば食べられるんだ。
血は赤い。人の肌が赤みを帯びているのは、血が赤いからだってオジサンが言ってた。それはその通りだ。
「ひ、かり……ヒカリ……ダメ、だ……」
ボクの足を掴んだやつが言う。真っ赤なそれはオジサンだった。血塗れのオジサンだった。
怪我をしたらダメよ、血が出たら人を殺すかもしれないからねえ、と言っていたオジサンたちが、そこら中に散らばって、血反吐を吐き、怪我程度では済まない傷を負い、それでも這いつくばって、地面に赤を引きずりながら、ボクを止めようと蠢いている。
お腹から伸びてる赤い紐みたいなのは何?
オジサン、怖いよ、オジサン。
「こ、ない、で……」
怖いよ。もういいよ。ダメだよ、赤を散らしたら、赤にまみれたら。
来ないでよ。もういい、もういいんだよ。ボクはもうダメだから。もう諦めてよ。ボクを止めようとしないでよ。
さっきから血の匂いで頭がクラクラするんだ。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ」
ボクは声が嗄れるんじゃないかってくらい叫んで、逃げた。
おかしくなりそうだった。いや、もうおかしいんだっけ。
ボクはオジサンたちを殺した。好きだったのに。
気づいていないだけで、オバサンも殺しているのかもしれない。
ボクに「ヒカリ」と名前をくれた人のことも、殺したかもしれない。
ごめんなさい。
無我夢中で走って、気づいたら、川に入っていた。膝のところまで水がある。
川を見たのはこれが初めてじゃない気がした。いや、川じゃない。もっと水がたくさんあるところをボクは知っている。
「ヒカリ、海だよ」
誰かがそう教えてくれた気がする。
さらさらと流れる水面を見つめると、見つめ返してくる一対の瞳。
その目は赤かった。血みたいに真っ赤だった。
「お願い、もう死んでくれ」
ボクは水面に手を伸ばし、その目を持つ人を殺そうとした。
ペチペチ、と頬を叩かれ、ボクはぼんやり目を開ける。頬を叩いていたのは真っ黒な服を着た人だった。
「ああ、目を覚ました! びっくりしましたよ、川に入っていくのを見て」
「オジサン、だれ……?」
「私は神に仕える者です。きみの話を聞いて、迎えに来たのですよ」
ボクの口から弱々しく笑いが零れる。
神様に仕えている? ヘンなの。
「この世界に、神様なんていないよ……それにしても、オジサンの天使なんてヘン……冗談にしたって、もっと気の利いた人を用意しなよ」
「私は天使ではありません。地上にて神を崇める神父です。きみが川に入っていったのを追いかけて、引き揚げたんです」
……バカみたい……
「なんで助けたの?」
「自殺は神の教えに背く行為だからです」
「ボクは神様を信じていないのに?」
「私が信じているのです。救える命を救わないのも、教えに背く行為です」
「うさんくさ……」
失礼なのはわかっていたけど、そう口にせずにはいられなかった。
ボクは拾われて、捨てられて、売られて、捨てられて、引き取られて、捨てられて、を繰り返して、あの街に来た。あの街は面倒見のいいオジサンたちがいたから、ボクはそこに拾われるたびに捨てられるようになったのだという。
ボクを今まで拾った人たちの中には、神様を奉る教会の人間もいた。でもボクは病気を理由にあっという間に路地裏へ逆戻りだ。神様も神様に仕えるとかいうやつも、信じてやる謂れはない。
「一緒に行きましょう。きみと同じ病気を抱えた子が、もう一人います」
ピク、とボクは神父を見た。
神様には興味がないけれど、ボクと同じ病気の子というのは気になった。
「どんな子なの?」
「これから迎えに行くところですよ。行きますか?」
「……うん」
そうして、ボクは神父に連れられて行った先で、
アカリと出会った。