呉藍
目を覚ますと、くちゃくちゃという音がした。咀嚼音だ。獣が生肉を食うような、湿り気のある嫌な音……
「ヒカリ!!」
おれの意識は一気に覚醒した。おれは死んでない。なら、この音は? まさか、ヒカリが──
おれはぞっとしながら音の方を向き、別な意味でぞっとした。
広がる血肉。無造作にべしゃりと崩れている死体。血溜まりは赤く、赤く、広がっていて、小さな池のようになっていた。ただし、死んでいるのは、ヒカリではなく熊だ。肉をぺちゃぺちゃと食べているのは、熊ではなくヒカリだ。
「ああ!」
おれが起き上がったことに気づいたヒカリが喜色満面に笑う。その無邪気さが怖かった。ぞぞぞ、と背筋を悪寒が這う。ヒカリはまだ一年も生きたかどうかわからないような、赤ん坊だ。首は据わっているし、母音の発音はできるが、まだ乳飲み子だ。その、はずだ。
「な、んだ、これ、は……」
なんだこれは。
何故、熊が臓物を撒き散らして倒れている? 何故熊の肉にヒカリが囓りついている? 何故生きているのが熊ではなくヒカリ?
「うえ、うえっ……あ、あ、おいい、あい」
ヒカリが血と共に何かを吐き出す。悪食に目覚めたようではなかった。血腥い肉はお気に召さなかったらしい。何よりだ。
おれはヒカリを抱き抱えて、熊の死体から離れた。赤赤赤赤赤にまみれた光景を見ていると、おれまでおかしくなりそうだ。弔ってはやれない。ごめんな。
「ふっ……くく、何が、ごめんな、だよ……」
おれは嗚咽のように呟いた。気を失う前、ヒカリを拐おうとする母熊をひどく憎んだはずなのに。死んでしまえと呪いすらしたのに。ごめんって、なんだ。
赤が飽和していたため、赤という情報を処理しきれなかったヒカリの脳は、今ほわほわしているらしい。からからと笑うばかりで、噛んでこない。今のうちに、ヒカリもおれも、身を清めなきゃ。でも、ああ、雨が降ってきた。川の水は増水するかもしれないから危ないな。
おれはけらけら笑うヒカリを抱きしめて、何一つ躊躇することなく走った。跳躍して、木の上に立つ。山から川を見下ろし、川の向こうへ視線を辿らせた。
川は海に繋がっていた。
海も荒れるだろうが、海には防波堤がある。それを辿っていけば、あまり人目につかず、穏やかなところまで行けるかもしれない。
おれは紐をいつもと逆に縛った。ヒカリを抱き抱えるように縛りつけて、抱き抱えて走ることにした。これならヒカリの体に負担がかかりにくいはずだ。おれが全力を出しても。
鳥のように飛んで、防波堤に着地する。そこから風よりも速く、おれは駆けた。
考えることはやめていた。だから、どのくらいの時間、どのくらいの距離を走ったかわからない。雨雲が過ぎ、晴れやかで穏やかな海へついた。全力を出したのと、太陽の光とで、おれはくたくただ。水に入って、そのまま沈んで眠ってしまいたいくらいの倦怠感がおれを支配する。
でも駄目だ。ヒカリがいる。おれの腕の中に小さな命がある。熊を殺すほどの才覚を持った恐ろしい赤子だけれど、この小さな命を守らなければ。いつか守れなかった、小さいやつらへの贖罪ができない。
「ヒカリ」
背中をぽんぽん、と叩いてやると、ヒカリはもぞもぞと動いた。
「ああ?」
「ん。ヒカリ、海に来たぞ」
「うい?」
海を見るのは初めてか、初めてだよな、と笑い、ヒカリに海を見せてやった。
ゆらゆらと波打つ海面。時折日の光を反射する。底知れない青は、おれでは到底図り知れないような深く深くまで続いているらしい。
「ああ! ああ!」
「はは、綺麗だろ?」
おれは紐をほどく。ヒカリは海に入りたくてうずうずしているようだ。
「海には魚がいるらしいぞ。人を食べる大きい魚もいるらしい。血の臭いに寄ってくるから、体を洗わないとな」
「ああ、うい!」
「ああ、海だ」
「へっくし!」
ヒカリがくしゃみをして、笑ってしまった。緊張が解けていく。意識が薄れていく。体が言うことを利かない。
「ひ、かり……」
伸ばした手を小さい手が握ってくれたような気がした。
体が重い。頭の中に鉛でも詰められているのだろうか。それくらい怠いながらに、おれは目を開けた。う、と吐息のような呻きが零れる。
「ああ、おいた!」
ヒカリの声が聞こえた。ばっと起き上がり、全身を痛みが突き抜けるのを感じた。それで、おれが今、粗末ながらにベッドの上にいることに気づく。きし、と木が軋む音がして、おれはゆっくりと辺りを見回した。
屋内だ。風のない場所にいるのはひどく久しぶりのように思う。
「これこれ、急に動きなさんな」
声がして、そちらを見ると鍋をかき混ぜているおばあさんがいた。他に人の気配はない。おそらく家主だろう。
「あの、あなたは……」
「アタシャ、ハチってもんだよ。まあ、本当の名前なんか知らない、みんなが勝手にハチって呼ぶから、そういうことにしてる。しかし、赤子抱えて海辺で倒れとるとは、穏やかじゃないねえ。まあ、服は血塗れだけど、怪我がないようでよかったよ」
「服は……」
「洗って干してるよ。乾燥機なんて便利なもんないからねえ。まあ白神様を拾ったのはびっくりじゃった。長生きはするもんだねえ」
白神様。おそらく、アルビノを神の子とする考えの頂点に立つ考えなのだろう。あまり聞こうとは思わない。
とりあえず、この親切なおばあさんがおれとヒカリを保護してくれたらしい。
「びっくりしたわい。カモメが騒がしいと思ったら、海辺で赤ん坊がわんわん言ってるんだもの。保護者が倒れて助けを呼んでいたのね。賢い子さあ」
「……ヒカリ」
「ああ!」
呼ぶと、ヒカリはおれのベッドによじ登ってきた。おれは小さく、ありがとう、と頭を撫でる。
「ハチさん、ヒカリ共々保護してくださり、ありがとうございます」
「アンタ、大丈夫なのかい? 子どもを持つような年端には見えんが」
「ああ、ああ」
ヒカリがおれの顔を覗こうとする。それから目を逸らしながら、ハチと話す。ハチはヒカリの方を向かないおれを訝しむ。
「相手しておやりよ。アンタ、三日も眠っとったんよ?」
「三日……」
これまで過ごしてきた年月から考えると、瞬き一つ分にもならないような時間だが、激動の日々が過ぎている。
ハチの様子を見るに、ヒカリが何かしでかしたというのはなさそうだ。今のうちに事情を話しておこうか。
と思ったら。
「もごっ」
「ほれ、ちゃんと食べんさい。アンタ、背ぇは高いのにひょろひょろじゃないの。ちゃんと食べないから倒れるんよ」
口に放られたのは、林檎だった。食べ物を口にするのはそれこそ久しぶりだ。年単位で。
食事でどうにかなる体質なら、努力するのだが、と思ったところでヒカリが動く。
赤ん坊とは思えない跳躍で、ハチに飛びかかる。ハチは包丁を持っていて危ない。いや、それよりハチの手には林檎がある。林檎の皮は赤い。
おれは二人の間に体を割り込ませ、乱暴だが、ひとまずハチの手から包丁を叩き落とす。それからヒカリと頭をかち合わせ、抱き抱えた。
ヒカリから、あー、うー、と唸り声が聞こえる。目は爛々と赤く燃えていた。
昔、おれの赤い目を見て、「悪魔」と呼ばれたのを思い出す。おれもこんな風に見えたんだろうか。
事実、人を素手で殺せる悪魔だったから、彼らは間違っていない。
どさっと崩れる。包丁を部屋の隅へ飛ばしておいた。ハチも崩れて、怯えている。
「介抱してもらったところすまない、訳ありなんだ。外は……あっちか」
ヒカリを抱えて、外に出る。日差しが眩しくて目を閉じた。
「あ゛ー、う゛ー、う゛ー!!」
唸るヒカリを抱え込む。ヒカリはおれの腕から逃れようともがくが、それをおれは許さない。
だが。
ずさ、と後ろから胸を刺された。
「あ……?」
目が、ちかちかする。日差しが眩しくて、何が起こったのか、わからない。肌が、ひりひり焼ける。ヒカリの爪がおれの腕を引っ掻いて、離れていった。
「はーあ、逃げられるところだった、危ない危ない」
ハチの声が聞こえる。
「白神様、いい顔だねえ。アタシャ、そういう顔が見たかったから、アンタが目を覚ますのを、わざわざ待ってたんだ。ガキはもらってくよ」
「ま、て……」
「その傷で動けるのかい? 化け物が」
ハチはヒカリを抱えると、拳銃をおれに向けた。
「音が目立つから撃ちたくないんだけどね。まあ、この赤ん坊を売ったら、その金で引っ越しゃいいか」
ぱぁん!!
海辺は静寂に包まれた。