燈りあれ
何度夜が来たって、必ず日は昇る。朝が来る。どんなに長い夜だって、いつかは必ず明けるから。
そんな感じのポップスが聞き飽きるほどに流れていた。音楽に造詣がないから詳しいことはわからないが、戦争から回復を図る国の中ではこういう希望を歌うのが人に好まれるのだろうか。
おれにとっては疎ましい。必ず朝が来るということは、太陽が昇るということだ。偉そうに空から地平を見下ろす太陽は、おれの肌を焼くばかりで忌々しい。どうせ太陽もおれのことを忌々しく思っているのだろう。だから、赤子を救おうとしていようが、容赦なくおれの肌を焼いて、おれを苛んでくるのだ。
おれの体力は化け物級という自負があったのだが、太陽に当たると、痛みで足が鈍くなる。まあ、それでいいのかもしれない。おれの足は戦車より速いから、赤子は風圧に耐えきれずに潰れてしまうかもしれない。そうなったら事だ。
「ああ、川が見えてきたよ、ヒカリ」
おれはおぶった赤ん坊に声をかける。赤ん坊はおれの声に応えるように、あー、と意味のない母音を発した。
赤ん坊に、ヒカリという名前をつけた。この子にとって、栄誉ある名前であるように。おれにとっては忌み名だけれど、死神に祝福されるなんて微妙だから、人にとっての希望であればいい。
いつか離れ離れになってしまうのはわかっていた。だからおれにとっては忌むべき「ヒカリ」という名前をつけた。
お前が疎まれるのが、おれだけであるように。そんな陳腐な祈りが宿っている。
親でもないくせに、図々しいことをしたものだ。だが、引き取り手が見つかるまで、長い付き合いになることだろう。いつまでも「お前」呼ばわりはこいつだって不本意にちがいない。
川が見えた。おれは紐をほどいて、ヒカリを下ろす。ヒカリを見るとその目はユウヒと似たような琥珀色をしていた。太陽の光を返すと金みたいにきらきらとして綺麗だ。
ヒカリの症状について、わかったことを記しておこう。
ヒカリは十中八九、「色覚衝動症候群」だ。赤を見ると殺人衝動に歯止めが利かなくなる。まだ言葉も話せない赤ん坊だから、道徳やら倫理やらを説いたところで理解はできないだろう。ただ、言葉を介するようになって、人の言葉、行いの理由に心が向いたとき、殺人衝動をいくらか抑えられるようになればいいな、と思う。
思うだけなのは、色覚衝動症候群の研究文書にこうあったからだ。トリガーとなる色を見て発動した衝動は良心、倫理観などによる歯止めが利かなくなる。どんな人格者も、簡単に殺人鬼になるような恐ろしい奇病、それが色覚衝動症候群である。とのことだ。
おれはそれで悩むことがある。ヒカリに、人の道を教えるべきか、否か。
ヒカリが人を殺す前に死んでしまった方がいいのではないか、というときは「死なせたくないから」という理由で簡単に結論を出せた。だが、これはわからない。抑えられない衝動で人を殺してしまったとき、ヒカリが良心を持っていたなら、ヒカリが苦しむだけではないか。苦しんで、殺したものの遺族に詰られて、傷ついて。そんな責め苦ばかりの未来をこの赤ん坊に授けるのが正しさか?
色覚衝動症候群は今のところ治療法がない。症状を和らげる方法もない。ヒカリは望んでこんな病気になったわけではない。おれが望んで白い子どもに生まれたわけではないように。
殺したいと自分で思って殺すわけじゃないのだ、ヒカリは。それは倫理を学んでも抑えられない、どうしようもない病気。言い訳に聞こえるかもしれないが、これが全ての事実だ。
人の道を知らなければ、人に疎まれても、嫌われても、体は傷つくかもしれないけれど、心は傷つかないで済む。傷は少ない方がいい。そう心の中でおれが叫ぶのは、ただのエゴだろうか。
世の中にとっての正しさじゃないことはわかる。でも、世の中だって正しくないじゃないか。変な奇病があったり、変な容姿があったり、変な能力があったりして、差別される。あるいは利用される。差別された子どもは石礫を避けることすら許されない。利用された子どもは必要がなくなれば蝋燭の火を消すみたいに命や存在を抹消される。そういう子どもが存在して、死神になってまで償わなければならない世界のどこが正しい? 乳飲み子が捨てられる世界の何が正しい?
おれは世界にそれを問いかけたい。その問いの答えを得たい。だから世界を旅することに決めたのだ。
おれはさらさらと流れる川に手を入れた。ひやりとして気持ちがいい。おれは服を着たまま、川に入った。
入水に見えるかもしれないが、そうではない。呼吸をするのに、頭は出しておかないといけないのだが、つまり頭は日に当たる。日に当たるとそれだけで具合が悪くなるのだ。子どものように服を脱いで水浴びもできない。
ヒカリはおれが入った川に興味が湧いたのか、四つん這いで近づいてくる。ヒカリは運動神経や反射神経、危機察知能力が高いようで、危なげなく、見ていられた。
おれはヒカリと目を合わせないように、フードを被り直し、ヒカリに手を伸ばす。ヒカリが川に落ちないように。服を脱がせ、体を洗って、川に入らせた。きゃっきゃっ、と楽しそうな声を上げながら、川の水をぱしゃぱしゃとする。このお転婆は抱えているのが大変だ。
「あーあ! あーあ!」
「どうした、ヒカリ」
「あーあ!」
ぱしゃぱしゃとして、跳ねた雫を示す。たぶん、綺麗だとか、きらきらしているとか、そんなことを言いたいのだと思う。
感性は育ててやりたいな。でも、人の血を綺麗だとか言う子に育たないようにしないと。
そこで気づいて、苦笑する。それは倫理を覚えさせるのと同じだ。人の血を綺麗だとか、汚いだとか覚えさせるのは、倫理観を植え付けるのと一緒だ。結局は、覚えなければならないのか、と溜め息を吐いた。
「あーあ?」
「ん?」
母音しか発音できないヒカリが「あーあ」と言って、腕の中でおれに振り向いた。もしかして、「あーあ」っておれのことなのか。
ああ、そういえば、ヒカリに名前をつけておいてから、自分の名前を教えるのを忘れていた。
「セッカ、だ」
「あーあ?」
「セッカ」
「あっあ」
ちょっと難しいか。
「あか」
「ああ?」
「そう」
いい子と頭を撫でる。
おれの名前は赤い花。だから「あか」だなんて安直だけれど、それでいいと思った。だって、ヒカリにとって「赤」は忌み名だ。おれにとって「光」が忌み名であるように。だから、これでお互い様ということにしよう。
「ああ、ああ!」
ぱしゃん、と水を跳ねさせて、ヒカリがはしゃぐ。おれの名前を気にいったのだろうか。
無邪気に笑う顔をこっそり覗く。ヒカリの無垢な笑顔を見ていると、この子が今後も屈託なく笑顔でいられますように、なんて祈りが湧いてくる。祈る相手なんて、おれにはいないのに。
そうして水浴びをして、おれは空模様を確認した。黒い雲が向こうに見える。降り出す前に上がらないとな。
「ヒカリ、上がるぞ。雨が降る」
「あっあ!」
抱え直すと、あまり暴れなくなった。
「よし、いい子だ。……っ」
風が吹いて、おれは身を竦める。咄嗟に目を瞑ってしまい、気づかなかった。
ヒカリがおれのフードを取ったことを。
目を開けると、ばちりと琥珀色と合う。しまった、と思う頃にはもう遅い。琥珀色は食い入るようにおれを見つめ、その湖面までをも赤く染めていく。
ヒカリの目は元々、琥珀色だ。医学書にあったのだが、人は興奮すると、目に血が集まり、虹彩が赤みを帯びるという。ヒカリの目が赤くなっていくのはその原理からだとおれは考えている。
何に興奮しているか。答えは簡単だ。体の奥底から沸き上がってくる衝動。人が倫理や道徳という枷で、自らの内に押さえ込んでいるもの。
おれはぎゅう、とヒカリを抱きしめた。ざぶざぶ、と上手く動かない足で、川から上がる。川を赤くしないで済んだようだ。日が翳る。喜ばしいことだが、急がなければ。
ヒカリにタオルを被せ、適当に一纏めにした荷物を持って、おれは駆ける。力尽きてしまわないように。キミカが見たら、怒るだろうか。
ヒカリはがぶがぶとおれの首の肉を食っていた。普通の人間なら失血死の前にショック死するだろうが、死神のおれはそんなやわな体をしていない。幸か不幸か。
山に入り、木に凭れる。強引にヒカリをおれから引き剥がした。べりっとおれの肉を持って行かれた気がするが、大丈夫、おれは再生するから、大丈夫。
ああ、でも、ヒカリに人肉の味を覚えさせるのは良くないか。いや、でも、これから先も、ずっとずっとおれがヒカリを育てていけば問題ないか? おれを害する分には、ヒカリの罪にはならないだろうし……
とりとめのない思考をしていると、ぬっと大きな影が差した。おれよりでかい生き物なんて、山には熊くらいしかいない。だが、おれは熊より強い。
普段なら。
駄目だ、体を再生するために眠ろうとして、瞼が落ちてくる。駄目だ、駄目だ。守らなきゃ。守る? 何を? 小さいの、子ども、赤ん坊……そうだ、ヒカリ、ヒカリを守らなきゃ。
意識が浮上してきたところで、おれが目にしたのは、ヒカリを我が子のように抱き上げる母熊。
おれは目を見開いた。
「ヒカリ!」
母熊から、取り戻さないと。
「ヒカリ、ヒカリ、行くな! 待て!! この野郎、ヒカリを連れて行くな、この、っ……れ、を……」
おれを、ひとりに、しないで。