赤ない
ミアカが消えた。
ショックを受けたシリンはそれでもすぐに切り替え、日記の情報を取り込んでいる。おれの手を握りしめる手が冷たい。
ミアカが消えた、というのはただ姿が見えないだけではない。
あの日のことを思い出すと、おれも背筋がぞっと粟立つ。
ミアカが白い空間にマントだけ残して消えた。おれとシリンは当然、ミアカの姿を探した。
しかし、その空間には、出入り口の扉と、もう一つの扉しかない。だからまず、もう一つの扉の向こうを調べようと思った。そこで予想外のことが起こる。
開かない。
扉が開かない。
今まで、死神界で扉が開かないことなんてなかった。どこに繋がっているにせよ、扉は開いた。どんな場所にでも行けた。扉は軋んだ音を立てることもなく、いつも油を射しているみたいにするりと開いたから、扉が押しても引いても開かないなんて、想定していなかった。
「ここ以外に出入り口は……」
シリンはすぐ、壁を探った。白いばかりで何もわからない。つらつらと続く回廊のようで、白い空間は巡っているうちにいつの間にか元の扉の前に戻ってくる。
ミアカがこの部屋にいないことだけがわかった。
それなら、残る可能性は、出入り口の扉から、おれの部屋ではなく、別の部屋に行った可能性がある。おれたちはミアカの目撃証言がないか、リビングで確かめることにした。
何故リビングにしたかといえば、リクヤとセイムVSアイラという対戦カードが繰り広げられていたからだ。アイラの前髪を執拗に狙うリクヤとセイムのお遊びである。いつものように、アイラは片手間で相手をしていた。
セイムはおれを見るなり声を上げる。
「あ、セッカ! 手伝って!」
「ちょっと待て、セッカがそっちにつくとパワーバランスがおかしくなるだろ」
「元からパワーバランスのおかしいやつがなんか言ってやがるぜ」
けっというリクヤの機嫌の悪さは相変わらずだ。アイラとおれは殺し合いができるレベルの戦闘能力を持つ。それは確かに、リクヤとセイムに加勢したら、パワーバランスが崩れるだろうが、アイラに加勢してもそれは同じことだろう。
シリンが切羽詰まった声で投げかける。
「皆さん、ミアカさんを見ませんでしたか?」
シリンの演技力におれは感嘆する。先程まで真っ白な空間を何十周もしていた。走り回ったわけではないが、それなりの体力を消耗するくらいには歩き回った。それでもシリンは呼吸を一切乱さなかった。
そんなシリンが、息を切らして必死に問いかけている。なかなか役者だ。まあ、それも潜入工作員だった頃の影響なのだろうが……自分がどういう声色で、とんな表情で訴えかければ相手が答えるかを把握しているのだ。
だから、リクヤも、セイムも、アイラも、素直に答えてくれた。教えてくれたのではない。
その答えは「はい」でも「いいえ」でもなかったのだ。
三人は声を揃えて言う。
「ミアカって、誰?」
心臓が正常な鼓動を打たなかったように思う。呼吸が上手くできなくなった。頭から血が下っていくのを感覚的に知る。シリンを見れば、彼も顔色を失っていた。ミアカのものだったはずの死神のマントをきつく抱きしめて。
「え、ぼく、何かおかしいこと言った?」
セイムが何事でもないように問いかけてくる声を掻き消すように、どくん、と心臓の音が五月蝿くなった。聞きたくない。
「オレらはあのくそマスター含めて七人しかいねーだろ。セッカ、キミカ、オレ、セイム、シリン、アイラの野郎にマスターの七人だけだ」
聞きたくない。
「キミカなら自室だが……ミアカって、人の名前か?」
聞きたくない。
聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくな聞きたくな聞きたくな聞きたくな聞きたく聞きた聞きたく聞きた聞きたくな聞きたく聞きたくな聞きたく聞きたく聞きた聞きたくな聞きた聞きたく聞き聞き聞き聞き聞き聞き聞き聞きききききききききききききキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキタクナイキキタクナイキキキキキキキキキキキキききききききききききききききたくききききききききききききききききききききききききききききききききききききききたくなききたくききたくききたく聞き聞き聞き、あ、聞き、聞き、き、き……聞きたく、ない……
なんで。
「セッカさん」
シリンに腕を引かれてたたらを踏む。シリンは振り切るように扉へ向かった。
「シリン、セッカ? 探し物ならぼくも手伝」
「キミカさんに聞いてみる」
セイムの提案を蹴って、シリンは逃げるように、扉の向こうへ入った。おれもそれに引きずられていく。
ぱたん。
扉の閉まる音をどこか現実味なく感じていた。
「セッカ?」
柔らかい声が耳朶を打つ。泣きそうな気持ちになりながら、振り向いた。
キミカが金色の目で気遣わしげにおれを見ていた。
キミカの目を見ていると、いつぞやのキミカの信者がキミカの目を「ひまわり」と形容したのがよくわかった。キミカの目は金なんて人の強欲の罪を集約したような色ではない。路地裏でも気丈に佇む花のようだ。いつか雪の日に、おれは黄色い花に心を救われたことを思い出した。
あれは「福寿草」だ。春の訪れを告げる花。あの花がおれは好きだった。春の訪れを告げるために雪の中で咲き誇る姿は希望をもたらしてくれるような気がしていた。
けれど。
「キミカさん、ミアカさんを知りませんか?」
「え?」
キミカは。
「ミアカさんって、誰ですか?」
希望をもたらしてはくれなかった。
おれとシリンはおれの部屋に戻った。
明らかに異常事態だ。
「ミアカさんのことを誰も覚えていない……」
少し落ち着いて、物を考えられるようになってから、口を開く。
「逆に、どうしておれたちは覚えているんだろうな? それにあいつらが何故忘れたのか……ミアカが消された原因が、何かあるはずだ」
「消された……?」
ああ、シリンも頭が回っていないらしい。一つ、提示する。
「おれたちはまだユウヒに確認に行っていない。つまり、ユウヒは何かを知っている可能性がある。だが、ユウヒはただの死神じゃない。捉えようによってはもう死神ですらない。ユウヒはマザーと融合し、マスターという存在になった。ユウヒとマザーの意識は同じと考えていい。そして、死神界で起こったことをマザーが把握していないはずがないし、死神界で死神を消すのは、マザーにとって、造作もないことだろう」
十中八九、ミアカが消えたのはマザーの仕業だ。わかりきったことを聞きに行って、どうして、と問いかけたところで、のらりくらりかわされるか、シラを切られるかのどちらかだ。わかりきったことで、苛立つ必要はない。
それなら、「何故」を知りたいおれたちがすべきことは何か。
おれは日記を取り出した。
「何かあるはずだ。読もう。おれにはもう時間がないけれど……シリン、お前の記憶は消えない。それがきっと鍵になる。やろうと思えば、おれの記憶もシリンの記憶も消せたはずだ。マザーがそれをしなかったのは、できなかったから、という可能性が高い。だから、託す」
シリンの目が、灰色から、ぽう、と翠を灯す。
「わかりました」
細かいことは知ってから考えよう。
悲しみを置き去りにしなくちゃいけないけれど、それでも、前に、前に、進むために。