赤史
ミアカさんが、苦味のある笑みを浮かべる。
「というか、セッカさんに謝りたいことがあるんです。でも、一人で行って、謝った内容が見当違いだったときが怖くて」
「そういうことですか」
僕はぱたりと日記を閉じた。
キミカさんの書いたページに、ミアカさんがセッカさんの気持ちを無視した、と書いてあった。しかも故意に。
ミアカさんとは初対面のはずなのに、セッカさんの様子はおかしかった。僕じゃなくてもわかるほどに。何か言いたいのをこらえて、低い声を出しているように思えた。
セッカさんの言うフィウナという人物はもう死んでいるんだろうし、ミアカさんはミアカさんだと思います。でも、顔が似ていたら、つい重ねてしまうことがあるのは、仕方ない。どうしようもない。どうしようもないけれど、受け入れられないこともある。そういうすれ違いなのだ。
こないだのことなら、一緒にいた僕の方が間に入りやすいだろうし、と思って、快諾した。ちょうど、セッカさんに聞きたいこともあったし。
「じゃあ、行きましょうか。そういえば、リビングはどうなっていました?」
「アイラさんの独壇場ですよ。ちょうど私と同じタイミングで扉を開けたらしいユウヒさんが扉をすぐ閉めましたもの」
おおう。
「なら、僕の部屋から直接セッカさんのところに行きましょう」
壁の扉の一つに手をかける。ドアノブを捻ると、扉の向こうから、ふわっと風が吹いてきた。澄んだ夜の匂いがする。
その先は確かに夜だった。遮るもののない草原の上には満天の星。死神界の中のはずだけれど、外の空気を吸っているような爽快感が呼吸をすると得られた。
死神界の中にはいくつかこういう部屋ではなく「自然」の空間がある。セイムがよく連れていってくれるのは、春の花が咲く草原だ。外と違うのは、いつまで経っても時間が変わらないこと。リビングの柱時計は外の時間に合わせられているらしいが、それが昼の時間を差していても、この空間は夜のままなのだ。
虹の死神が増えたから、こういうリラクゼーション空間を死神界の中に増やした、とユウヒさん……マスターから聞いた。以前は普通に外の世界に出て、気分転換をしていたそうだが、黒装束が何人も外をうろついていては不審がられる、とのことだった。
セッカさんは日に焼けると体調が悪くなってしまう。だからあまり外に出ないし、昼を特に嫌っていた。
けれど夜に取り残されたように、真っ白なセッカさんはそこにいた。
セッカさんはこんなに星が綺麗なのに、星なんて一つも見ていない。地平線を探すみたいにずうっと向こうを眺めていた。たぶん。フードを被っているから、よく見えないのだ。セッカさんの顔が。
「隣、いいですか?」
「ああ、フィウ……ミアカ」
セッカさんの赤い目は虚ろだった。
ミアカさんに似ているというフィウナさんのことを思っていたのだろうか。セッカさんは何気なくその名を呼びかけて、ミアカ、と言い直した。もしかしたら、声も似ているのかもしれない。
「シリンも来ていたのか。探索か?」
「いえ、セッカさんを探していたんです」
「……おれを?」
セッカさんが不思議そうに僕を見る。確かに僕も用事があるけれど、まずは、とミアカさんの背中をそっと押した。
ミアカさんが小さく息を吸い、口を開く。
「セッカさん、ごめんなさい!」
「………………………………え」
予想外だったのだろう。セッカさんがぽかんとする。
ミアカさんは間を持たずに一気に告げた。
「セッカさんと初めて会ったとき、セッカさんが私と誰かを重ねていて、私に何か言ってほしそうにしてたのに、無視してしまってごめんなさい」
「あ…………え…………ええと…………」
セッカさんはおろおろとして、ミアカさんを見ていた。触れたいけど、触れられない、みたいな……ミアカさんに触れることを躊躇う仕草が見てとれた。
セッカさんはきっとこう思っている。誰かの幻影を勝手に重ねて求めて、答えてもらえなくて、一人でむくれた自分の方が悪い、と。そう思うことで、ミアカさんに重なる義姉の面影を「見なかった」ことにしようとしている。
そんなこと、簡単にできはしないのに。
僕は何も忘れられないから知っている。忘れられないことの苦しさを。一度忘れたことがあるから知っている。忘れることで楽になれることはある。けれど、いつか思い出してしまったとき、忘れていたことの虚しさを知ることになる。あんなに忘れたいと願ったはずなのに、どうして忘れようなんて思ったんだろうって、涙が溢れてくることを。
だから、僕は今度はセッカさんの背中を押すように言う。
「フィウナ・アーゼンクロイツさんのことなら、僕もミアカさんも聞いたのでもう知っています。遠いだろうけど、ミアカさんの親戚の方です」
セッカさんが顔を上げ、目を見開いた。まさか本当に血が繋がっているとは思わなかったのだろう。
妙な偶然もあるものだ。けれど、セッカさんからすれば、五千年も死神をやっているのだから、こういう奇跡が起こる確率は僕なんかよりずっと高くなっている。
「顔を上げてくれ。あなたがおれに頭を下げているところなんて、見たくない」
セッカさんの声はどこか苦しげだったが、何か吹っ切れたような雰囲気があった。
ミアカさんがゆらりと顔を上げる。赤い目と青い目が、ようやくの再会を果たした。
セッカさんは少し揺らいだような笑みを浮かべて、首を横に振る。
「すまない」
そうとだけ、言った。
たぶん、五千年経ったって、消毒液を当てれば痛むような傷口なのだ。セッカさんは血の代わりに涙を流すには、長く死神でいすぎた。一言や二言では語り尽くせない思いが胸中に溢れているのだろう。それが何かの形で飛び出すことはない。
セッカさんは「言わない」ことに慣れてしまっていた。感情をさらけ出す、やり方を忘れてしまったのだ。
僕は言わないことが役目だった。だから、最初から「言わない」ような気質のセッカさんが羨ましかった。僕はそういう風に生まれたかった。無い物ねだりというのはわかるけれど。
「セッカさん」
僕は語りかける。
今はもう、僕を縛める枷はない。あるとすれば、虹の死神という役目だろう。
僕は戦場にいたとき、死神のようだと言われ続けてきた。人間なのに。僕を死神にしたのは、僕じゃないのに。
心のどこかでずっと祈っていた。いつか本物の死神が、僕を殺してくれますように、と。束縛されたこの生から解放される方法を「死」にしか見出だせなかった。たぶん、それは正しかった。
死は僕を死神みたいな人間から、本物の死神にしてくれた。本物の死神となった僕は、記憶を多少弄ばれたけれど、生前よりずっと自由だ。
僕は僕の知りたいことを知る。そのために死神としての役目を全うする。
「ご存知のことと思いますが、僕は生前、生けるデータベースと呼ばれたほど、記憶力が優れていました。今でさえ、軍の金庫番号、個人IDやパスワード、機密文書の序文から締めくくりまで、暗唱しろと言われたら、即座にできます。僕はかつて、この力を疎みました」
そんな僕が、この力でやりたいこと。
「僕にこれまでの虹の死神の記録を見せてほしいんです。僕に死神について、記録させてください」
それは純粋な好奇心からのものであり──
セッカさんを役目の一つから解放する、僕にしかできない方法だった。