第7楽章 誰ガタメノ唄
ぎゃぁぁ……と何処かで獣が甲高く鳴いている。
魔術師の手によって放たれた魔物は全て狩り尽くし、もはや残るのはこの居城に叶奏神器を持ち去ったアグニエルのみとなった。魔物は存在しないはずだ。だからこの声は正真正銘ただの獣の声だろう。
それにしては、まるで絶命する寸前に発した断末魔のように聞こえてしまい気味が悪いが──それに脳を刺激され、礫は目を覚ました。
すぐ傍にはホロウがいる。横倒しになった女性の像に腰を下ろし、相変わらず前髪で隠した顔をこちらに向けていた。口に何かを咥えている。
「お目覚めですかな、お嬢様」
ぱき、と咥えているものを噛み砕きながら、半分からかっているような口調で言う。
礫は身を起こした。
彼女が身を横たえていたのはホロウが椅子代わりにしている彫像の台座と思わしき丸い石の上で、そこにどの程度の時間横になっていたのかは分からないが、何となく肩や腰が痛かった。少なくとも数分という短い時間でないことだけは確かだ。
周囲は背の高い樹木に囲まれ、現在が夜ということもあってか、闇に包まれているような錯覚に陥る。所々に設置された彫像が皆燭台を手にしており、それに点った炎のおかげで視界に不自由はなかったが。
もっとも、むやみやたらに歩き回りたいとは思わない。雑草は伸び放題で、倒壊した彫像の一部が瓦礫となって散乱している箇所が、見える範囲内だけでも相当ある。何が潜んでいてもおかしくない状況だった。うっかり足を踏み入れて変な虫に刺されました、とでもなったら笑うに笑えない。
彼女たちから少し離れた位置に、石畳の道があった。そちらは雑草だらけの地面と比較したら綺麗に手入れされている。
それはまっすぐに、正面に建つ巨大な建物の入り口に向かって延びていた。
剣と魔法の世界では典型的と言える、バロック建築様式の城である。
通常、邪悪な魔術師の居城ともなればもっと悪趣味な装飾だらけの建築物というのが王道だが、目の前のそれは普通の王族や貴族が住んでいても不思議ではないと思える『普通の上品な城』だった。
あくまで見た目の話なので、足を踏み入れた途端に刃物を吊るしたシャンデリアが落下してくる、などといったことがないとは言い切れないわけだが。
「頭、まだぼーっとしてるってんなら言えよ」
口中のものを飲み下し、唇を舐めながらホロウは言う。
「どうなんだ」
「あ、うん……ちょっとだけ」
「じゃあ、良くなったら言いな」
特に咎める様子もなく、彼は自分の鞄を腰の留め具から外して膝の上に乗せると、中を探り始めた。
そして何かを引っ張り出す。
赤いジャムを挟んだビスケットだった。
彼が鞄から手を抜いた瞬間に中身がちらりと見えたが、飴玉やらチョコレートやら、その大半は菓子のようだった。他の系統に分類される品が一切見当たらない。
ひょっとすると、菓子以外のものは入っていないのではなかろうかと思えてしまうほどだ。
子供が遠足に持ってくるリュックサックでも、流石にこれほどまでに菓子だらけというのはない。
いや。実は菓子に見えても、魔術師にとっては重要な効果を齎す薬品の類なのかもしれない。
服用することによって、一時的に身体能力を引き上げる効果を持つ薬品、というものが存在する。いわゆるドーピング剤だ。
わざわざ最終決戦地に持ってくるような代物だし、何より荷物を作ったのはアグニエルのことを含めてこの世界のことを熟知したホロウである。彼に限って余計なことをするはずがないのだ。
と。ビスケットを半分近く食したところで、ふと、ホロウは食べるのをやめた。
何やら小首を傾げて、ビスケットをまじまじと見つめる。
しばしすると、ぼそりと呟くのが聞こえた。
「やっぱ、オレンジにすりゃ良かったな……」
──礫は唖然とした。
文句を言いつつもしっかりとビスケットを平らげ、相棒の視線に気付いたのか、彼は再度彼女の方を見る。
「何だ? もういいのか?」
「……うん」
「んじゃ、行くか」
手に付いたビスケットの粉をはたき、彼は彫像から降りた。
置いていた空っぽのランタンを拾うと、壊すなよと言いつつ礫へと渡す。
中にあった灯は、今はホロウの中にある。元々音泉のランタンは『音を鋳型に回収するための道具』であり、それ以上の意味はないというが、全ての『音』を回収した後でも用途があるのだろうか。
礫を先導するように、彼は歩き出す。
向かう先には石畳の道が、そしておそらく幻の居城と皆が呼んでいるであろう巨大な城がある。
階段を上がると、閉ざされていた入口の扉が低い音を立てながらゆっくりと左右に開いた。
内部は、眩い、とまではいかないものの、あちこちに設置された燭台の灯のおかげで明るかった。
炎の色の影響で若干山吹色に染まった白い壁、それに様々な絵画が掛けられている。ほとんどが風景画だが、1枚だけ、2人の正面に掛けられた絵だけは人物を描いたものだった。
錫杖を抱え、金糸の刺繍を施した紫の法衣を纏った金髪碧眼の青年の絵だ。整った面持ちがまるで彫像のように見える。
「──ようこそ。私の城へ」
絵画に気を取られていたので、気付かなかったらしい。突如沸いて出た声に意識を引き戻された礫の目は、眼前に佇む黒い影の姿を捉えた。
2人の正面に、巨大な階段がある。バロック建築といえばお決まりとも言える、豪華な刺繍が施された臙脂色の絨毯が敷かれた階段である。
細かな彫刻が施された手摺りに、来訪者を注視するように佇む2体の青銅の甲冑。1体は剣と盾を、もう1体は弓を携えている。
その前に、黒い外套を纏った死面の男は立っていた。
旅客船の上で声だけ姿を現した時とは異なり、明確な気配がある。
紛れもない、本物の魔術師アグニエルだろう。
今のところ、相手に何かを仕掛けてきそうな気配はない。
しかし敵意はないが、言葉通りに心から歓迎している様子もない淡々とした口調で、魔術師は言った。
「君たちが此処に来るまでの間、私は考えていたよ」
「…………?」
訝しがる礫を庇うように片腕を広げ、ホロウは小声で彼女に告げた。
「隙を見せるな。気を緩めた瞬間に首が吹っ飛ぶかもしれねぇぞ」
「どうすれば君たちに喜んでもらえるかと──何しろ、特別な客人だからね……」
「ふん、どうせロクなことじゃねぇだろ。てめぇはいつだってそうだ」
ホロウは段上のアグニエルを睨みつけた。
「てめぇにゃでっかい借りがあるからよ。万倍にして返してやっから、有り難く受け取りな!」
叫ぶと同時に、ホロウの姿は暗殺者へと変化した。
変身したと同時に手にしていたものを、アグニエルに向けて投げ放つ。
しかしアグニエルはそれを跳躍し、かわした。
代わりにその奥にあった青年の肖像画に当たり、絵は瞬時に業火に包まれる。
投げ放ったのは火薬か何かだったのだろう。絵に当たって砕け、生じた破片に傍の燭台の火が引火したのである。
絵が灰となり、額縁が壁から外れて落ちる。
それを半分呆れた様子で、アグニエルは宙に浮いたまま見つめた。
「……全く、話の途中だというのに。君は随分とせっかちだ。昔から変わっていない」
「うっせぇな!」
足下で吠えるホロウを、やれやれと肩を竦めながらアグニエルは見下ろした。
「まあ、良いだろう。むしろ変わりがないからこそ、今まで待った意味があるというものだ」
そのまま、ふっと姿を消す。何処か別の場所へと転移したようだ。
声だけが、何処からともなく響いてくる。
「では、始めようではないか。8年前に紡がれた物語、『始まりの日』の後日談を──」
「!?」
空気に混ざった僅かな異質の気配を察し、ホロウが振り向く。
同時に、それは動いた。
入口のすぐ横に掛けられていた絵画の1枚が、急に描かれた偶像の形を変化させたのだ。
大小様々な時計を抽象画のように描いていたその作品は、絵具を混ぜ合わせるようにひとつの古めかしい振り子時計の絵に変わった。骨董品屋辺りに今でも置かれていそうな、人の背の高さほどの大きさがある種類のものだ。振り子を収めた腹の部分が真っ黒に塗りたくられており、まるで時計の中に底のない空洞が広がっているように見える。
そして。
金属片を絡ませたチューブやパイプの他に、明らかにからくりには含まれていないであろう生物の器官らしき触手が、幾重にも絡み合いながらその中から生えてきた。時計の中どころか絵画の世界をも抜け出して、機械油と何かの体液に塗れたそれらは、一瞬にしてホロウの全身に纏わり付く。
「……っな──」
抗うも、人の力ではどうにもならなかった。無抵抗とほとんど変わらない状態で、ホロウは絵画の中へと引き摺り込まれた。
時計の腹に飲み込まれる瞬間に、彼が僅かに動く手で何かを投げ付けるような仕草をしたのが見えた。
しかし一瞬で、見間違いだったかもしれない。抵抗の力は何ひとつ働かず、彼の姿は触手もろとも時計の中へと消えていった。
「ホロウ!?」
弾かれたように絵画へと駆け寄る礫。
絵画は、元の抽象画に戻っていた。手を触れてみても何も反応はない。ただ絵画に使われたであろう画材の質感が、指先に感じ取れるだけだった。
おそらく、絵画自体には何の力も秘められてはいないのだろう。アグニエルが用いた魔術の媒体として利用されただけなのだ。
「ホロウを何処に連れてったの」
アグニエルがこの様子を未だに何処かで観察していると信じ、礫は彼に向けて言った。
「少しの間、大人しくしていてもらうだけだよ」
と、アグニエル。その声は何処か踊るようで、嬉しそうな様が伝わってきた。
「これからお嬢さんに聞かせる、『始まりの日』の話が終わるまで。
後日談を語るには、お嬢さんの存在も必要だからね。まずは知ってもらわなければ──」
話って、一体──
彼女は問う。
しかしアグニエルからの返答はない。
それもそのはずだった。尋ねたつもりが、言葉になっていなかったのだ。
舌が、麻痺していた。
否、舌だけではない。全身を鈍い痺れが覆っていた。
気付かないうちに、礫もまた相手の魔術の支配下に置かれていたのである。
彼女の意識は急速に混濁していった。たまらず、その場にうつ伏せに倒れ伏す。
その中で、何処かから響いてくる鐘音だけが、潮騒のように耳の中に余韻を残していた。
──そして次に意識が覚醒した時も、やはり最初に頭が認識したのは鐘の音だった。
しかし、先程と比較すると何処となく異質だ。先のは重厚な響きがあったが、これは真新しい鋼を叩くような鋭い音質である。
鐘は10回、等間隔で時報を告げた後に静かになった。
それに導かれるようにして、2人の人間が赤い絨毯が敷かれた廊下を歩いている。
礫はそれを遥か上空から見下ろしていた。
立っているのか座っているのか、それとも寝転がっているのか。体は何も感じない。ただその場所に自分はいる、という認識だけが彼女の中にあった。
全身を取り巻くのは、奇妙な浮遊感だった。まるで清流の上を流されていく笹舟のような、自らの意思とは無関係に場が移ろいでいく感覚だ。
何となく思い出すのは、夢の中で自分が「これは夢だ」と確信する時の感覚だった。
これも夢なのかもしれない、と胸中で独りごちる。そう思えば、突然別の場所にいるこの状況も何となくだが納得できるのだった。
この景色は、礫にとっては見覚えがない場所だった。
絵画があり、彫刻が並び、燭台の炎が黄金に全てを染める、ゴシック調の造りの廊下だ。
だが何となく、この場所が城内の何処かに実在しているであろうことだけは感じ取る。
雰囲気もそうだが、城内を飾るために誂えられた装飾の数々に、先程目にしたばかりの玄関にも置かれていた品々との共通点が多く見受けられたからだった。全く同じ嗜好の持ち主が準備したのでもない限りは、此処を飾り立てたのは同一人物だと考えるのが自然だ。
「螺旋」
声がする。2人のうちどちらが発したのかは、礫の位置からは見えない。
小柄な方が、連れの顔を見上げた。
腰辺りまで伸びた銀髪を群青のリボンで結った少年だ。歳は10か、どんなに多く見ても15には達していないだろう。徐々に成熟の時を迎えつつも、未だ濃く幼さが残る顔には大人のそれと遜色のない貫禄が宿っている。リボンと同じ群青の模様が映える純白の貫頭衣を纏い、雫形の色水晶をいくつも下げた銀の鎖で頭を飾っている。
見覚えのある──と言うより、礫の記憶の中にある姿と全く同じものだった。
……あれは、ホロウ?
礫は眉を顰めた。
螺旋、というのは名前なのだろう。もう1人が、ホロウの方を向く。
金髪に碧眼、白色の肌。全体的に痩躯だが、不健康というよりも芸術という言葉の方が似合っていそうな雰囲気の体つき。錫杖を抱え、金糸の刺繍を施した紫の法衣を纏っている。こちらも何処かで見たような気がする面持ち。それも、そう昔ではない──一体何処だったか。
すぐに、思い出した。城の玄関に飾られていた肖像画である。あれに描かれた人物と、眼前の青年が同じ外見をしているのだ。
「いくら此処が無人の城だと言っても、アグニエルの城だ。罠が全くないと断言できないだろう。自信満々なのは構わないが──」
「全く、何度も言わせんなよ。
言ったろ? おれは『ネガイウタ』の全てを知ってるってよ」
螺旋は唇を舐めながら、周囲を見回した。床、壁、それらを彩る美術品の数々、天井──視線がぶつかり礫はびくっとしたが、彼らには彼女の存在は認識できないらしい。一通りを確認して、再度ホロウを見る。
ホロウは肩を竦めた。普段から幾度となく繰り返されてきたやりとりに、いちいち真面目に返す気はないようだった。
礫がまばたきをすると、場面が変化した。
元々は礼拝堂だったのだろうか。次に彼女が佇んでいたのは、椅子が並んでいれば真っ先にそれを思い浮かべただろう、巨大なステンドグラスが見事な大部屋だった。横手の壁はそっくり抜かれてバルコニーへと続いており、そこから時計塔が見えた。満月が非常に大きく、その風景自体が1枚の絵画のようだ。
ステンドグラスの前には祭壇があり、巨大な黄金色の細工物が祀られていた。
竪琴型の蓄音機、とでも称すると最も近いかもしれない。振り子時計の内部を見ているような発条が複雑に組み込まれた形状の竪琴に、彫刻が見事な金属の花が咲いている。
叶奏神器クインテット・カルバールだ。
その前に佇む螺旋とホロウ。
その2人から楽器を護るように立っているのは、漆黒の衣裳を纏った1人の男だった。
魔術師には典型的な中肉中背の体躯で、黒髪。紅く猫目のような縦長の瞳孔が何処となく不気味だが、外見はごく普通の人間の男である。
しかし全身から滲み出る感情は研ぎ澄まされた刃物の如く、冷たく鋭利に周囲を威圧していた。端で見ているだけの礫ですら思わず鳥肌を立てるほどだ。
手にした錫杖で床をとんと突き、螺旋は構えを取った。
「やっと此処まで来たぜ」
その傍らでホロウが魔力を練り始める。
「予定をちょいとばかし過ぎちまったけどよ、まぁ問題ねぇよな。
……アグニエル、ろくな挨拶もしねぇで悪ィが、倒させてもらうぜ!」
ホロウが魔術を放つ。その光に視界が塗り潰され──
光が消える。また場面が変わったのだろうか、次に礫が見た時には魔術師の姿はなく、祭壇の前に立つ螺旋とホロウの様子が見えただけだった。
螺旋は手に何かを持ち、楽器に向けて掲げていた。
礫も持っている、音泉のランタンだ。炎はないが、7色に色彩を変化させながら輝く光を内に有している。
揃えた『音』を、楽曲へと復元しようとしているのだろう。
──問おう。汝が願いを──
何処からか、声が響いた。
男性のものとも女性のものともつかない、透明感があり、しかし重みのある声色だった。
それが眼前の楽器からの声であると礫が気付くのに、それほど時間を要さなかった。
螺旋は満足げに頷いた。
その隣にホロウが移動してきた。やはり彼も楽器を見上げているが、その表情に笑顔はない。
「……予定よりも時間を食っちまったな」
「その程度のことは、問題ないだろう」
「まあな」
ホロウは視線を向ける先をクインテット・カルバールから相棒へと移した。
手を伸ばし、彼の背に触れる。
「【Paralysis】」
小さな掌から生まれた黄金の網が、螺旋の全身を絡め取った。
対象の神経を麻痺させる弱体系の魔術だ。視覚的には地味だが、相手の行動力を奪うため戦闘中では絶大な効果を発揮する。
螺旋はその場に両膝をついた。顔面を床に打つのは何とか耐えたようだが、身動きが取れなくなってしまったらしい。床に付けた両手が小刻みに震えている。
驚愕で目を見開きながら、何とか少年の方を見やる。
ホロウは嬉々とした表情で足元に跪く螺旋を見下ろすと、そのまま彼の横を通り過ぎ、クインテット・カルバールの前へと歩み出た。
「──悪いな」
「……な、に……を」
麻痺の影響で呂律が回らなくなった舌を懸命に動かし、螺旋は呻く。
ホロウは振り向きながら微笑んだ。片膝をつき、螺旋の頭に触れる。
「『具現化した螺旋の願望』から逃れ、自由を得る。その願いがやっと、叶えられる……礼を言うよ」
優しく金髪を撫でる。親が自分の子供にするように。
虚ろな少年の微笑が、螺旋に悟らせた。相棒が何をしようと目論んでいるのかを彼は知ったのだ。
可能な限り出せる声で、叫ぶ。
「この──!……」
「【Death】」
淡々としたホロウの声が、凛と響く。
礫は息を呑んだ。
ホロウが螺旋に対して唱えたのは、強力な呪詛の力で対象の生命活動を停止させる暗黒魔術だった。
効果を発揮すればどんな強靭な生命体でも一瞬にして死に至らしめることが可能だが、効果を発揮することの方が珍しいために扱いづらい部類に入る魔術に位置付けられている代物である。実際礫も習得している魔術ではあるが、実際に使ったことは1度もなかった。同じ『生命ある存在』なのに何故こうも効果に差が出るのだろう、と彼女はいつも思っていたが──
波紋のように静寂が広がる。
そして。
螺旋が、突如悲鳴を上げた。
虚空を凝視し、喉を垂直に立て、金属を引っ掻いたような声を発し始める。
眼前にある何かに恐怖している、それはそういう叫び方だった。
無論、現実には彼の前には何もない。
呪詛の影響で、彼だけには何かが見えているのだ。目にしただけで心臓が止まってしまうような何かが──
あぁそうか、と礫は思った。
呪詛によって生み出された幻影を本物だと僅かでも思ってしまったら、魔術に魂を抜き取られてしまうのだろう。
だから相手によって効果があったりなかったりするのだ。そういうことなのだ。
ひゅう、と乾いた音を立てて悲鳴が止まる。
螺旋は凝視した瞳を懸命に彷徨わせ、自分を無機質的な表情で見下ろしている少年に焦点を合わせた。
震える唇が、か細い声で言葉を紡ぎ出す。
「…… …………」
螺旋がホロウに対して何と言ったのか。礫には聞き取ることはできなかった。
ごどん、と床に頭を落とし、青年はそれきり動かなくなった。
相変わらず宙を睨みつけたままの双眸に輝きは既になく、開きっ放しの口からは泡混じりの唾液が垂れている。
礫は口元を両手で覆った。体が実際にそう動いたかどうかは分からなかったが、意識ではそうしたつもりだった。
込み上げてくる嘔吐感を必死で堪え、ホロウを見つめる。
……これは……
瞬きをすると、景色は元に戻っていた。臙脂色の絨毯が敷かれた階段に、細かな彫刻が施された手摺りに、来訪者を注視するように佇む2体の青銅の甲冑。──しかし見慣れた相棒の姿はなかった。先程まで何処か遠くで鳴り響いていた鐘の音も止まっている。
礫は身を起こした。
一体どれほどの間此処で昏倒していたのだろうか──全身に痛みを感じることはなく、さほど長時間ではないだろうということだけは何となく分かった。
頬の辺りがひやりとしたので、マスクに触れる。
血を吸って硬くなったはずの薄布は、湿って柔らかくなっていた。
頬を、筋状の涙が濡らしていた。
何故、自分は泣いているのだろう。
考えてみるが、決定的な理由は思い当たらなかった。
ホロウが相棒を殺す瞬間を目の当たりにした時は気分が悪くなったものの、流石に泣き出すほどのことではない。比較するべきではないのかもしれないが、親友が禍黄泉の騎兵に殺された時の方が余程ショックを受けたほどだ。
あれと比べれば、今のホロウの凶行など──
──────
──今のが、アグニエルが言っていた『始まりの日』の話?
礫はホロウの全てを知っているわけではない。
特に、彼の過去についてはほとんど聞かされていないと断言して良かった。礫と出会う前のホロウが、この世界で何をして過ごしていたのかも。
彼女は背筋に悪寒を感じ、身震いした。
表向きは彼女の相棒として協力的だが、それが本心からの献身だとは限らない。ホロウが密かに抱いている願望が、先程の幻視の中で口にされたものと同じなのだとしたら。その願いを未だに叶えておらず、彼がそれを諦めていないのだとしたら。
再度、モールダーという枷から脱却し、願いを叶えるために……自分の身代わりとなる存在を用意して、ネガイウタを利用しようとする。その可能性がある。
できれば間違いであると信じたいが──
最悪の予想が、彼女の脳裏を過る。
ホロウが唄と楽器を取り戻したがってる本当の理由は……自分の願いを叶えるため?
「…………」
鼻腔にこびり付くような鉄錆の臭いは、きっと機械油のせいだけではないだろう。そのようなことを頭の片隅で考えつつ、ホロウは辛うじて動く頭を持ち上げて前を見た。
巨大なステンドグラスが宝石のように輝いている。その前には祭壇があり、巨大な黄金の物体が鎮座している──かつて目にした、あの時と全く同じ光景がそこにある。そしてそれを見上げている漆黒の外套姿の男も同じだ。
ただあの時と違うのは、今自分は1人で、縛られて転がされているということ。
そして眼前にいる魔術師アグニエル=ジルヤードを名乗る男が、あの時の男とは違うという明確な事実だった。
今頃礫は、真実を知ったことだろう。8年前に此処で何が起き、そして自分が、今此処に存在しているアグニエルが何者なのか。
いずれは知られることだ。それは覚悟していた。だからそれは別に良かった。
アグニエルは何処か楽しそうに、死面を被った顔をホロウに向けている。表情はないが、雰囲気で笑っているのが何となくだが分かる。
身動きが取れないホロウを足元に転がしているだけで、何もしてこない。
おそらく彼は、待っているのだろう。
礫が此処まで辿り着くのを。全てを知った彼女が見せる反応を。
そしてそれを見て満足したら、アグニエルは躊躇うことなく殺すだろう。彼女をではなく、ホロウを。
アグニエルにとって、礫の存在の有無は問題ではない。元々彼にとってホロウ以外の存在は眼中にはないのだ。
過去、そして現在、ずっとそうだった。あの魔術師は、自らの手でホロウを仕留めることだけを思い描き、そのためだけに魔術師アグニエルでいたのだから。
たった1人のエゴのために、過去に大勢の何も知らない夢見る者たちが巻き込まれ、犠牲となった。
──全ては、業が仕組んだ舞台装置なのだ。人も。魔も。唄も。楽器も。
運命が流転の時を迎えるまで、歪んだ輪廻の輪は廻り続ける。
延々と。延々と。
「私は今、感無量だよ」
アグニエルは言った。
「まさか8年も待たされることになるとは、予想もしていなかった」
「……その間に色々好き勝手にやってくれて、全くもって御苦労なこったな」
けっ、とホロウは毒づいた。口内が乾いていなければ、唾のひとつでも吐き出してやりたい心境だった。
「モールダーを作って、大会と称して一般人に公表して、……まぁそこまでしておれを引き摺り出そうとした努力だけは認めてやるけどよ」
「君の存在が私に対する呪縛になっていたからだよ。そうでもなければ、私とて此処まで手間のかかるような真似はしない」
ホロウは激しく咳き込んだ。アグニエルの爪先が鳩尾に食い込んだのだ。
「何故、今になって表に立つ気になった?」
「…………」
「言いたくないのなら、言わなくても構わない。私には予想はついている。
……あのお嬢さんが現れたからだ。そうだね?」
ホロウの肩が小さく震えた。
それをアグニエルは見逃さなかった。低く笑いを漏らす。
「やはりそうか。……ならばあのお嬢さんには、御礼をしなければならないね。君を招き寄せる『餌』となってくれたのだから」
「……てめぇ……あいつに何かしてみろ、ただじゃおかねぇからな」
掠れ声で言うホロウの首根っこを掴んで吊り上げながら、ほう、とアグニエルはわざとらしく鼻を鳴らす。
「忘れたわけじゃないだろう。この状況を招く原因を作ったのは、他ならぬ君自身なんだよ」
「…………」
沈黙するホロウ。
言いかけた言葉の後半が、喉の奥に引っ掛かって出て来なかった。
あの時、願望を抱かなければ『ネガイウタ』は生まれなかった。
あの時、願望を求めなければこの世界は生まれなかった。
あの時、願望さえ生じなければ数多の犠牲者も生まれなかった。
そうかもしれない。魔術師の言葉は正しい。
この世界を、この状況の根底を生み出したのは他ならない自分なのだから。
だが、違う。正しいが、そうではない。
「私は、何か間違ったことを言っているかな?」
「……ああ、違ってるな」
ホロウは言った。アグニエルを肩越しに見やりながら。
「確かにてめえの言う通りだ。この『ネガイウタ』を生んだのは紛れもない、おれだ」
それは、認める。
「……けどな、おれが願ったのは、作ろうとしたのは、こんな『ネガイウタ』じゃねえ」
歯を噛み締め、叫ぶ。
「てめえがおれの夢を悪夢に変えちまったんだろうが!」
「だとしたらどうする、私を殺して奪られた夢を奪り返すかね? ──あの時と、同じように!」
静寂を裂く哄笑が響いた。
固い音を立て、白い板が床を跳ねて転がっていく。
喜悦の表情を深く刻んだ金髪の青年の面が、月明かりを受けて妖しく浮かび上がった。
「如何様に吠えたところで、今の君はネガイウタの呪縛に囚われた『音の欠片』でしかない! 幻想が現実に抗えるものか!」
「その台詞、リボン付けてそっくりそのまま返してやるぜ! 幻想から抜け出しきれてねぇ半端者が!」
びちっ、とホロウの身体で何かが弾けた。
彼を戒めていた粘液まみれの枷が、細かな欠片となって足下に落ちた。
内側から膨張する力を抑えきれずにちぎれたのだ。
「そっちこそ忘れてんなら、思い出させてやるぜ──おれは『ネガイウタ』の全てを知っている……てめぇのことも、例外じゃねぇってことをな!」




