第6楽章 マガツヨミ
雲ひとつない澄んだ青空が広がっている。降り注ぐ太陽の光がいつにも増して眩しい。そのせいか、眼前に広がる海の色も心なしか明るく見える。
此処には海を汚すものがないからってだけかもしれないけど。
などと胸中で呟きながら、礫は甲板の先端の方へと移動した。
彼女がいるのは、ゆっくりと海上を滑るように移動する旅客船の上だった。
礫が単身でもそれなりに立ち回れるように冒険者として成長したということもあってか、ホロウの提案で、新しい土地へと拠点を移すことになったのである。
この世界の船は、機械の動力を用いて動く現実世界の船とは異なり風と人の力で動いているために、その速度はかなり遅い。ひょっとしたら人が歩く速度と同じ程度のスピードしか出ていないのかもしれない。
だが、とても静かだった。それに海を汚すこともない。
こちらの方が断然良いと彼女は思っていた。
同席しているホロウは退屈そうだったが。
次の目的地となる大陸に到着するまでには、半日ほどの時間がある。
その間にできることといえば、階下の食堂で食事を楽しむか、客室で昼寝するかくらいだ。望むわけではないが、船が魔物の襲撃に遭うまでは退屈な時間を過ごすことになりそうだった。
「なぁ」
甲板の手摺りに腰掛けているホロウが、欠伸混じりの声を礫に掛けてきた。
「何?」
呼ばれて、礫は振り向いた。
ホロウは目尻に浮かんだ涙──髪に隠れて礫からそれが見えるわけではないが──を指先で拭いつつ、
「あんた、願い事は決めてあるのか?」
「……え?」
唐突な話だった。
思わず首を傾げる彼女に、今度はホロウが唖然とする番だった。ぽかんと口を開いて、おいおいと言う。
「大会に優勝したら、だよ。勝者はネガイウタの力で1個だけ願いを叶えられる──何だよ、ひょっとして忘れてんのか?」
「忘れてるも何も……ボク、優勝した後のことなんて何も聞いてないよ」
それどころか、これが『ネガイウタ』の公式大会の本戦内容であることすら、忘れかけている始末だ。
「……マジかよ……」
本当に信じられない、とでも言いたげな表情で礫の顔を見つめ、……ややあって、何か思い当たることでもあったのか、後頭部を掻きながら続ける。
「……まぁ、そりゃそうだよな……今の質問はするだけ馬鹿だったな……」
「何のこと?」
訝る礫に、ホロウは言葉の代わりにぱたぱたと手を振って応えた。気にするな、という意味らしい。
手摺りから飛び降り、彼女の横まで歩いてくる。そしてすぐ横の手摺りに先程と同じように腰掛けた。
ぼんやりと前に広がる海に視線を移す。
人は何か記憶を掘り起こそうとした時に、無意識のうちに何処か一点を見る癖がある。それは人によって自分の足元だったり、遥か彼方だったり様々だ。もしかしたら彼も、昔のことを思い出しているのかもしれない。
「最後まで残った勝者は、その報酬として何でもひとつだけ、ネガイウタの力で叶えてもらえる」
何かの話でよく聞くような非現実的な話を、さらりとホロウは口にする。
しかしそれを語る彼の表情は、おおよそ冗談を言うには似つかわしくない真面目なものだった。
「ただ、全部を知った時に、それでも願い事を言えるのか──それだけの覚悟があんたにはあるのか、それにおれが協力するだけの価値があるのか、それをおれは見てぇんだ」
「さっきから、何の話?」
礫の問いかけに、ホロウはかぶりを振った。
「今のは独り言だ。聞き流してくれていい。
けど、忘れるな。奇跡はタダじゃねぇ。てめぇの願いを後で後悔に変えねぇようにしろよ」
「……何だかよく分からないけど、それはその時になって決めても遅くないんじゃないのかな」
「かもな」
肩を竦めて笑い出す少年を見て、それにつられた礫も一緒になって笑い出す。
結局ホロウが何を言いたかったのかはよく分からなかったが、船旅の時間潰しにはなった。
願う覚悟、か……
頭上を横切り、まだ見えぬ大陸を目指して翼を広げる海鳥の群れ。それらに視線を送りつつ礫は考える。
全てを知り、なお願いを口にする覚悟。それに協力する価値があるのかを見定めたいと言うホロウ。
覚悟を決めなければならないほどの『全て』とは一体何なのか。
そしてそれらを生み出した『ネガイウタ』の世界を創り出した企業ラセン・サークル。
これがヴァーチャルシミュレーションシステムを用いて創り上げた仮想世界であったとしても、何故現実世界に多大な影響を及ぼせるほどの力を持たせることができたのだろうか。
「喋ってたら腹減ったな」
ホロウが唐突に言った。
言われて、礫も自分が空腹であることに気が付いた。
そういえば朝早く宿を発つ前に軽い食事はしたものの、それ以外のものを何も腹に入れていない。
ぐう、と鳴る腹を撫でながら、ホロウは手摺りから降りた。
「食堂で何か食おうぜ」
『ネガイウタ』の生みの親はイタリアン好きなのだろうか。
至極どうでも良いことだが、食事時になると礫が必ず頭に浮かべる疑問がそれだった。
宿屋の食事。酒場のメニュー。そこで出される料理がほぼ全てと言って良いほど、イタリアン料理ばかりなのだ。
それなのに酒だけは焼酎やらプルケやら色々とあるのだから余計に意味が分からない。
まあ、誰かが考えた仮想世界なんてそういうものなのかもしれないし、明らかに西洋一色の世界観の中で出される料理が寿司ばかり、とつまらないことでイメージを破壊されるよりかは、こちらの方がファンタジーらしくて良いのかもしれない。
トマト料理は好きだし、いいんだけどね。
野菜サラダに入っているケッパーをフォークの先でつつきながら、礫は顔を上げる。
彼女の正面に座るホロウは、レバーの炒め物の上に乗ったレーズンを1粒ずつ皿の横に取り分ける作業に没頭していた。
臓物料理が好物という変な嗜好の持ち主のくせに、妙な部分で子供っぽいところがある。現在は子供用の椅子に座っているせいで、余計にそう見えて仕方がない。
言ったら怒られそうなので、言わないことにしておくが。
「駄目よ。子供じゃあるまいし、好き嫌いしないで食べなさい」
ぱこん。
トレイの裏で後頭部をはたかれ、ホロウはぎゃっという声を上げた。レーズンの取り分けに使っていたフォークが床を跳ねていく。
あまりにも唐突だったので、見ていただけの礫の目まで丸くなった。
ホロウをトレイで叩いたのは、外見は20代後半くらいの金髪の女性だった。
言わずもがな、礫の知らない顔である。
動きやすさを重視しているのか、防具としての意味があまりなさそうな肌の露出度が高い鎧を纏い、両の腰に1本ずつ、長めの剣を下げている。柄のデザインは鎧同様に至ってシンプルだ。
装飾品が嫌いなのだろうか、この世界では比較的よく見かける宝飾の類が一切ない。
ネックレスの類であればまだ分かるが、耳にも何も着けていないというのは珍しい。
ホロウは叩かれた箇所を掌で押さえながら女性の方を振り返り──
小首を傾げると、特にこれといった目立った反応を見せることもなく、正面へと向き直った。
……え、スルーしちゃうんだ?
無関心同然の顔をしているホロウに、尋ねてみる。
「……知り合い?」
「知らね」
ホロウは半眼になって呻いた。
知らないふりをしているわけではなく、本当に知らないらしい。
特にこれといった興味もないようで、彼はすぐに自分の皿の上に視線を戻した。今の彼にとって1番興味を引く存在になっているのは、突如自分の脳天にトレイを落としてきた女性ではなく皿の上のレーズンのようだ。
改めて彼女の全身を観察してみるが、やはり礫にも彼女に関する記憶は全くなかった。この世界ですれ違ったこともなければ、知人に似た顔の人間もいない。そもそも、こんな特徴的な姿の人間が視界内に入れば、それがすれ違い同然の出会いだったとしても、記憶の何処かに残っているはずである。
「……私が何者か。それが気になって仕方がないって顔ね」
礫と視線がぶつかると。女性は意味深な笑みを浮かべ、言った。
「分からなくて当然。だって私たちは初対面だから。でもね、私は貴女のことを知っているのよ──来栖礫さん」
「!」
びくっと肩を跳ねさせて、礫は相手の顔を凝視した。
今の単語は──紛れもない、礫のフルネームだ。ホロウにすら話していない、本名である。
この世界に来てからは1度たりとして口にしたことがないその名前を、何故通りすがり同然のこの女性が知っているのか。
その疑問は、さほどの時間もかけずにあっさりと解消されることになった。
「貴女のことを、待ってる人がいるの。寛いでいるところを申し訳ないのだけれど、一緒に来てもらえないかしら?」
テラと名乗った女性に案内されて2人がやって来たのは、つい先程まで滞在していた甲板の上だった。
甲板には先客がいた。
白と金という眩い組み合わせの色彩のコートを身に付けた栗色の髪の娘だ。
礫が纏う呪術師のローブも割と裾が長い部類に入るが、目の前のそれは完全に裾を引き摺っている。それでいて端が擦り切れている様子が全くないので、特殊な布地を使った服なのだろう。
頭に黄銅の歯車のような形状の装飾が施された大きな帽子を載せ、背には帽子の飾りと同じ形の模様が入ったマントを身に着け、その上から杖を背負っている。先端に巨大な石の塊のような物体が付いているので、ひょっとしたら杖ではなく柄の長い鈍器なのかもしれないが。
コートの中には同色の法衣を着ているが、こちらは引き摺るほどの裾の長さではない。下にスロップスを履いている様子が見える。
色合いは神官の服と似ている──が、決定的に違う点がひとつだけ、ある。
四肢が何本もの鎖で繋がれているのだ。
無論拘束されているのではなく、そういうデザインの衣裳なのである。鎖自体には動くに差し支えがない程度の長さが確保されているし、位置も足を引っ掛けて転倒しないように考慮された箇所に付いている。
魔術師だろうか。
しかし純粋な魔術師は、此処まで巨大な得物を持つことはほとんどないと言って良い。得物が見た目通りに振り回して使うための品だとすると、彼女は魔術師とはまた異なったスタンスの職業なのかもしれない。
娘は足元に若葉色の炎を灯したランタンを置き、左手に陶器の皿を持っていた。皿の上にはピザが一切れ、乗っかっている。
テラは1番に甲板へと出ると、真っ先に娘の元へと向かった。
「白亜」
「!?」
礫は絶句した。無意識のうちに歩みも止まる。
名を呼ばれた娘が、ピザを咥えたままのんびりと相棒の方へと顔を向け──礫と目が合うと、啜り上げるようにピザの残りを口の中に放り込んだ。
大して噛みもせずにそれを飲み下し、ふう、と一呼吸置いてから、聞き慣れた声を発する。
「礫は流石ね。ちゃんと勝ち残ってたんだ」
「知り合いか」
礫の背後に立っていたホロウが、2人を交互に見比べながら問う。
礫は頷いた。
「うん……ボクの友達」
「……そうか」
ホロウはそれ以上は追及してこなかった。彼女の横を通り前へと歩み出ながら、左手に魔力棍を生み出す。
その先端に魔術光が点ったので、礫は驚愕して相棒の肩を掴んで引き留めた。
「ちょっと、何する気なのさ」
「何って。複数の英雄候補が顔を合わせたのなら、することはひとつしかないでしょう? 貴女にも、経験はあるはずよ。ないとは言わせないわ」
振り向くホロウの代わりに答えたのはテラだった。
「私たちの目的は、魔術師アグニエルを倒して唄と楽器を取り戻すこと。そのためには、砕かれたネガイウタを元通りに復元して、この世界の何処かに隠されているアグニエルの居城への道を拓かなければならないの。唄を復元するためには、貴女たちが持っている『音』も必要なのよ」
それは、魔物を倒して『音』を回収することと何ら変わりはない。
他者が持つランタンから『音』を取り出すには、ランタンを破壊する以外に方法はないのだ。仮に戦闘を拒否してこの場でランタンを渡したとしても、結局はランタンを破壊されることに変わりはないのである。
だから、これは避けられないことなのだ。
礫と白亜──両者が勝ち残っていたら、道中出会うことがあったら、戦わなければならないということは。
「目的は同じ、条件も同じよ。勝った方が、この場に集まった『音』を手に入れる。
だから、どうか遠慮はしないで。貴女たちがどう思っているかは分からないけれど、少なくとも私たちは、この一戦を正々堂々と悔いが残らないものにしたいから」
テラもまた、両腰の剣を鞘から抜き放つ。
やたらと細身の両刃剣だ。斬るというよりかは突く方にウェイトを置いた得物だろう。少々豪華な柄が付いた指揮棒と言われても疑わないかもしれない。それを体の横で静かに構える。
「……そうか。てめぇは連れに喋ったんだな」
ホロウは棍の先端で軽く弧を描いた。
発生した黄金の光が彼と礫の2人を包み込み、間を置かずに白い光が、更に青い光が同じように彼らを覆う。
全て身を守るための防御魔術の類だが、これだけ多種の魔術を1度に施すというのは珍しい。
これまでの魔物との戦いでホロウは、これも特訓のうちと称し、礫に対して率先した援護をすることがほとんどなかった。
だから、今目の前にいる相手が修練云々の話を抜きに考えるほどに手強い相手であることが分かる。
親友だから、友好的だからと遠慮していたら、やられる。
一通りの強化魔術を自分たちに施した後、ホロウは暗殺者へと姿を変えた。
少年が突然目の前で若者に変身したので、驚いた白亜が目を丸くする。
ホロウ、顔はいいもんね。性格はアレだけど。
友人の嗜好を知る礫は誰にも分からない程度に肩を竦めた。場違いかもしれないが、白亜の様子が滑稽に思えたのだ。
「全部じゃないわ」
テラは白亜に目配せする。
視線を受け止めた彼女が、背負っていた杖を手に取る。見た目通りに重量もそれなりにあるようだ。握っている様子を見ているだけでもそれが伝わってくる。
「私たちモールダーのこと。ネガイウタのこと。今知っておくべきことは全部、伝えてある。……貴方もそうでしょう? 彼女を見ていれば分かるわ」
と、テラは礫の方へと視線をずらした。一瞬だけ。すぐに、ホロウの方へと注意を戻す。
「白亜。全力でやるのよ。貴女のお友達は、今までの連中とは違うからね」
「……ええ」
杖を体の前に垂直に立て、白亜は念じ始める。やはり服装の通り、彼女も魔術師らしい。
お互いに頑張ろ。手加減しないからね。
何も知らずに交わした最後の会話から、何日経っただろう。
あの時は、まさかこんな形で対峙することになるとは思ってもいなかった。
願わくば、互いに顔を合わせることなく──そう思わなかったと言えば嘘だ。自らの手で友を倒す姿など、想像したくはなかったから。
だが、彼女は礫にとって最高の親友であり、また最大のライバルでもあった。
そんな彼女から送られた言葉を、つまらないことで蔑ろにするわけにはいかない。それは親友に対する裏切りとなる。
礫は大きく息を吸い、吐いた。杖を手に、相手の姿を真っ向から見据える。
白亜……ボクも手加減はしない。全力で戦うよ。
「【Ray】!」
戦闘の火蓋を切って落としたのは、礫が放った魔術だった。
狙ったのは未だ甲板の上に放置されている白亜の音泉のランタンだ。
やはり礫が持つランタンと同じように彼女の携帯電話が付いているそれを、何と白亜は勢い良く蹴り上げた。
かぁん、と軽快な音と共に緑の炎を宿したランタンは宙を舞い、礫の魔術は空しく甲板に突き刺さる。
確かにわざわざ手で拾っていたのでは、光線の速度に追い付かない。最良の回避方法と言える……が、随分と思い切ったことをするものだ。ひとつ力加減を間違えれば、そのまま海へと落としてしまいかねないというのに。
ランタンは弧を描きながらテラの方へと落ちた。
テラはそれを右手の剣の腹で無造作に白亜へと打ち返す。同時に左手の剣で、突っ込んできたホロウの小刀を受け止めた。
組み合いながら、笑う。
「……噂は聞いてたけど、やっぱり、他のモールダーとは違うわね。『型無の道化』──か」
「うるせぇよ」
押し返される小刀を、ホロウはそのまま身を捻って横へと受け流す。
体重を乗せていたため思わず体勢を崩すテラの背後に一瞬にして回ると、小刀を振り下ろした。
狙ったのは延髄──ホロウは、本気で相手を殺すつもりなのだ。
だが、刃の先が皮膚に触れようとした瞬間、それはテラが斬り返す剣に弾かれてしまった。
ホロウの手を離れた得物は甲板の手摺りを越え、海へと落ちる。
水の音はしなかった。水没する前に具現力を失ってしまったのだろう。
指先に残る鈍い痺れ。ホロウはそれを、掌を握り締めて無理矢理追い払った。
テラが使用している武器は細身の剣だが、受ける衝撃が半端ではなかった。突進してきた巨大牛と力比べをした後のような感覚である。
暗殺者の腕力では対等に張り合えそうにない。そう判断したのか、一旦彼女から身を遠ざけたホロウは黒騎士へと変身した。
「……礫のパートナーって、変わった能力持ってるのね」
白亜の杖の先端には、輪状になっている箇所がある。彼女はそこに自らのランタンを吊り下げた。
ランタンを掛ける位置は基本的に自由だ。礫の場合は最初から腰に掛けるところがあったのでそこが定位置となっているが、必ずしもそこにランタンを置かなければならないというルールは存在しない。所有者が持ち歩きやすい箇所があればそこでも良いし、極論を述べるならば引っ掛けて持ち歩く必要もないのだ。
とはいえ杖の先端とは、また狙撃されやすい位置を選択したものである。万が一杖を手放した場合、それをフォローする手段がない。
何度か杖の先端を揺らし、ランタンが完全に固定されているのを確認し、白亜は礫へと視線を戻す。
「しかもカッコイイし。何だか羨ましいな」
「こんな時に、それを言うんだ?」
ぷ、と礫は吹いた。
「この状況で言うような台詞じゃないよ、それ」
「……そうかも」
互いの顔を見合わせ、2人は同時に破顔した。
普段何気なく交わしていた他愛のない世間話。流行ものの話題だったり、何処かで仕入れてきた噂話だったり。本当にごくありきたりの、日常の会話。今交わしているのは、それと何ら変わらない話。
自分たちはやはり友人同士なのだと、改めて実感する。
だからこそ、負けられない。
「礫、あたしが勝たせてもらうよ!」
高らかと宣言し、白亜は杖を頭上に掲げた。
ぴぎッ!
耳障りな音を立て、テラの剣に亀裂が入る。
向かい来る暗黒剣を受け止めたが、その細い刀身では勢いを殺し切れなかったのだ。
今は何とか耐えたものの、おそらく次の負荷には耐えられまい。
罅が入った剣をホロウに向けて投げつけ、テラは彼から距離を置く。投げた剣はホロウの顔の横を掠めもせずに飛んでいく。
元々狙ったわけではないので、当たろうが当たるまいがそれはどうでも良かった。
「脆いな」
ホロウが笑う。テラはそれをあっさりと肯定した。
「そうね」
これでも並の武器よりは上等な業物なのよ、と言う。
テラが捨てた剣を拾いに向かう気配はない。どうやら本当に放棄したようである。
しかし、ホロウは決して彼女から視線を外さなかった。
これは勝算がない人間の取る言動じゃない。彼の直感が、そう告げていたからだ。
通常、二刀流で武器を扱う者は、その一方を失うと戦力が著しく低下すると言われている。2本の武器を振るうタイミングを一種のリズムとして捉えているため、片手武器になるとそのリズムが崩れるからだ──という話が存在するが、それが誰にでも当てはまるかどうかは不明だ。少なくともホロウは例外だったし、そもそもそういった類の都市伝説みたいな話は、彼は鵜呑みにしない性分だった。
テラは、この逸話をどのように捉えているのだろう。それはホロウの知るところではなかったが、今まで二刀流だった武器を1本失っても、彼女の態度に見える余裕が全く変わっていないことからして、少なくとも彼女の主戦力は二刀流ではないことだけは分かる。
格好からして他に武器を携帯している様子はない。だから剣以外の何かが彼女にはあるのだ。
「けど、それは貴方も同じ。『型無の道化』とはいえ無敵じゃない……でしょう?」
「…………」
彼女の言葉に、僅かだがホロウは片眉を跳ねさせる。
テラは微笑むと、剣を腰の鞘へと戻した。逆にホロウの顔からは笑みが消える。
「貴方は強いわ。私が今までに戦ってきたどんな相手よりも。
──でも、残念だったわね」
彼女はゆっくりと、左の掌をホロウへと向けた。
魔術攻撃か?
ホロウは咄嗟に身構えた。暗黒剣を盾代わりに顔の前で構え──しかし、彼女の掌からは何も生まれない。
モールダーは力ある言葉を紡がずとも、脳内で念じるだけで魔術効果を引き出すことができる。だがそれでも、最低限の動作は必要になる。何より魔術光が発生するので、何か魔術を使えば相手にそれが分かるのだ。
不発か。そう思い剣の構えを解いた瞬間。
どくん。
世界が脈打った。
実際には違うだろうが、そのような感覚がホロウを襲った。
視界が揺らぎ、息が詰まる圧迫感が彼の体内に広がっていく。
これは、警鐘だ。身体の何処かが、まだ見えぬ脅威に対して警告音を発している。
一体何が──
訝り、それと同時に彼は見た。
彼と対峙するテラに、異変が生じている。
彼女は先程のポーズを取ったまま身じろぎひとつしていない。手を翳した体勢のままその場に佇んでいる。
引き締まった肉体──それが、まるで沸騰した液体のようにぼこぼこと泡立ち始めていた。
無論見た目は普通の皮膚なのだが、泡立っている箇所だけが液状と化しているかのように。
泡立ちが激しくなっていく。幾つもの泡が弾け、その度に肌色の液体が飛び、甲板に落ちた。
鉄錆のような異様な臭気が漂ってくる。きっと沸騰した皮膚の臭いだろう。全身血みどろで絶命した生き物が発する臭いに似ていた。長時間嗅いでいると胃が痙攣を起こしそうな、嫌な臭いだ。
テラは変わらず微笑んでいた。その顔も、皮膚が不自然に歪み、溶け落ちている。
引き攣った脂肪に隠れるようにして、瞼を失い剥き出しとなった眼球がぎょろりとホロウを見つめていた。
「…………!?」
異様な視線を向けられ、ホロウは思わず両肩をびくんと跳ねさせた。
その様子を楽しんでいるらしい。テラの笑みに喜悦の色が宿る。その唇も皮膚が引き攣り、糸を引いている。
ぼたり。
彼女の顔から何かが零れて落ちた。甲板にぶつかり、弾けて、潰れる。
それを一瞬だけ見やり、すぐにテラへと注意を戻し、ホロウはかぶりを振った。その際に視界の端に映った自分の足首から、薄桃と赤が混ざった粘液が鎧の継ぎ目から染み出てきているのがちらりと見えたが、その存在を否定して奥歯を強く噛む。
心臓が早い鼓動を打っている。
それに対して何でもないと自分に言い聞かせ、瞼を閉じ、大きく深呼吸をした。
先程はやけに気になっていた腐臭も、今は全く感じられない。潮の香りがするだけだ。
当然である。腐臭も何も、元々此処には腐ったものなど存在しないのだから。
心が落ち着きを取り戻すと、自然に、これまでの異常現象の正体についても気が付いた。
相手の精神に直接干渉する魔術がある。
干渉されると色々な幻覚を見たり、幻聴が起きたり、そこにありもしない物の匂いを感じたりと五感が狂わされる。程度によっては正常な判断力をも奪われ、身体能力にまで影響が出ることもある。丁度今ホロウが体感したように。
だが非常に強力な反面、正面からでは相手にはほとんど効果を及ぼさない。この系統の魔術は脆く、例え効果があったとしても簡単に破られてしまうのだ。
今見ていた死人は幻覚だ。
胸中でそう断言し、彼は顔を上げた。
幻覚は消えていた。甲板を汚した液体も、潰れた眼球もなくなっている。眼前に佇むテラも普段通りの姿に戻っており、
べしゃ。
肉片が飛び散っていた辺りの床板を、今度は生温かい濃色の液体が濡らした。
「……ふむ……『狂乱の災姫』でも、この程度か……」
聞き覚えのある男の声が、テラの口をついて出る。
否。彼女の腹にある黒いもの──実際に声を発しているのはそれだった。
胸の中央よりも少し下辺りに、人間の手首が生えている。
濃色の糸を幾本も絡み付かせた細い5本の指。見覚えのある、枯れ枝を連想させる細い指。
それは言葉を発する度に、自らの指を弄ぶ。
「そこの男の方が……まだ、私の気配を察することができたよ」
名指しされ、ホロウは身構える。
迂闊に動けば、今は手首だけとはいえ何をしでかしてくるか分からないからだ。
だが彼の警戒心も何処吹く風。それは、ただ淡々と言葉を紡ぐだけだった。
──まさか、この状況でこの場所に現れるとは。
魔術師アグニエル=ジルヤード。
ホロウの剣を持つ手に力が籠り、震えた。
この震えは、恐怖ではない。
怒りだった。アグニエルの存在を察知できなかった自分の不甲斐なさに対しての。
これは想定外のことだった。
しかし──今になって思えば、思い当たる部分もある。
甲板であれだけ騒いでいたにも拘らず、これまでに他の乗客が1人も姿を見せていない。
此処は隔離結界の中なのだ。アグニエルは元々此処にいたのである。
確認するまでもなく、これは本物の魔術によって生み出された『影』の方だろう。
本物が本拠地を離れることはありえない。本物は本拠地にあるクインテット・カルバールを護っているからである。
口ぶりからするに、これは以前彼らがアルクレイドで遭遇した個体と同一のものだろう。
たまたま同じ個体が此処に居合わせただけなのか、それとも『影』は元々ひとつしか存在しないのか、それは分からない。分からないが、どうでも良かった。本物であれ偽者であれ、倒さなければならない相手であることに変わりはない。
生えてきた手首を鷲掴みにして、それに剣先を突きつけつつ、テラは肩越しに背後を振り返る。
腹を突き抜けて手が生えているのなら、当然背後に魔術師本体がいるはず──しかし彼女の予想に反し、背後には何もない。甲板と、手摺りと、それを越えた向こう側に広がる大海と。見えるのはそれだけだった。
直接、内部から手が生えている。石壁を破って力強く生えている雑草の如く。
実際にアグニエルの本体が体内に潜んでいるわけではないので、実際は体内に時空転移の通り道を開き、そこから手だけが姿を見せている状態なのだろう。破られているのは皮膚だけで中の方までは何ともなっていないから、腹を貫かれているように見えても、比較的冷静に物事を捉えていられるのだ。内臓まで全てを串刺しにされていたら、今頃は立ってなどいられなかったはずだから。
でも、いずれは……
冷静に物事を捉えられるということは、その先に起こりうる事象を予測できてしまうということ。
それは、幸か不幸か。彼女には分からなかった。
自分の身に降りかかることは、良い。モールダーとしての宿命を背負った時から、行く末についての覚悟もできていた。今更この境遇を呪おうという気も起こらない。
だがそのために、相棒の白亜は道連れになってしまうのだ。
彼女はホロウの背後にいる2人の少女たちへと視線を向けた。
礫たちは、混乱しているようだった。突如起こった出来事にどう対処して良いのかが分からないのだろう。それぞれ杖を胸元に抱き寄せたまま、刃を向け合うことも忘れ、ただその場に肩を並べて立っている。悲鳴じみた声を上げているが、何を言っているのかはテラには聞こえなかった。
これまでに、どれだけの数の魔物を討伐してきたかは分からない。少なくともそれらの中にはアンデッドと呼ばれる生命の輪廻の輪から外れた者たちの存在もあり、強烈な見た目のものも多くいた。慣れてはいないだろうが、血が流れたり臓物が飛び散ったりする様を見るのは今回が初めてではない。
しかし、仲間に寄生するような形で現れたのは初めてだろう。少なくとも白亜にとっては初めての体験だ。だから自分がどう動けば良いのか、何をするべきなのか──攻めあぐねているのである。
悪趣味な野郎だぜ!
テラの手の上からアグニエルの手首を掴むホロウ。
警戒しているだけでは、状況は好転しない。反撃の恐れはあったが、傷付くことを恐れていても何にもならないことだってある。
暗黒剣で、手首を斬り飛ばす。
血は流れなかった。その代わりに、断面は溶けたチーズのように漆黒の液体を零した。斬られた手首は甲板にぼとりと落ち、そちらは丸ごと同じような液体に変化して元の形状を失ってしまった。
「なかなかの業物だ」
もはや手首の断面を晒すだけとなったアグニエルは、感心したような声を漏らした。身体の一部が欠けても全く動じる様子がない。
本物の魔力によって与えられた仮初の肉体には、痛覚が存在しないらしい。
「腕1本だけ……というのは、どうやら失礼だったようだ」
「…………!」
びくんとテラが身を震わせる。
手首が突き破ったことによって生じた穴。そこから、もう一方の手首が出てきたのだ。
腕が辛うじて通る程度の余裕しかない通り道を押し広げるように、ゆっくりと、皮膚を裂きながら指がせり出してくる。
穴が広がる度に鉄砲水の如く血が溢れ、彼女の口から苦痛を表す声が漏れた。
魔術師の両腕が完全に外へと現れる。そこから更に、頭を出そうとしている。
遂に内側からの圧力に耐え切れなくなり、破裂するようにテラの胴が縦に裂けた。そこから絡まった臓物を引きちぎりながら死面を被った頭が、次いで胴体が抜け出てくる。
絶叫する白亜。悲鳴を上げる礫。
ホロウは暗黒剣をアグニエルに向けて振りかぶる。
しかしアグニエルは僅かに面を上げてそれを察知すると、冷静に手首を失った方の腕の先を暗黒剣へと向けた。発生した小さな魔法陣が盾となり、迫り来る漆黒の刃を弾き返す。
靴音が鳴る。アグニエルが自らの足で甲板に立った音だ。
真っ二つ同然になったテラの体は仰向けに倒れ、それきり動かなくなる。
アグニエルは濡れた顔を掌で拭う仕草をすると、彼女の体を興味津々と横目で見下ろした。
「……ショック受けてる場合じゃねぇぞ、礫。構えろ」
アグニエルの意識がテラへと向いているその隙を見て、ホロウは礫たちの方へと後退した。
神官へと姿を変え、身体能力強化の魔術を彼女たちへと施す。礫のみでなく白亜にも強化を施したのは、もののついでだろう。
「向こうの都合なんざ知ったことか。今のうちに潰してやる」
忌々しそうに、吐き捨てる。
テラを惨たらしく殺したアグニエルのやり方に、怒っているようだ。
礫以外の他人にさほどの感情を抱くことのない彼が、他人のことで憤慨するのは珍しいことだった。
アグニエルは横たわるテラをじっと見つめていた。彼にとって興味を引かれる何かがあるのだろう。完全にホロウたちに背を向けている。その存在すら気に掛けていないようだ。
無防備に晒しているその背中が、今はやけに小さく見えた。
「おれが特攻して奴の気を引く。その隙に仕掛けろ。魔術を反射する奴に真っ向から挑むのは危ねぇからな」
「待って」
言いながらすぐにでも飛びかかろうとするホロウを、引き留めたのは白亜だった。
予想外の出来事に思わず足を止める彼に対し、彼女は言う。
「あたしにも……協力させて」
「白亜?」
未だにショックを残したままだが、それでも何とか杖を構えつつ、礫が問う。
「テラは、あたしの大事な相棒だから」
そんな親友に、白亜は答えた。
「勝負に負けてるからとか、そんなのは今更よ。関係ないわ。あたしはただ、テラをこんな目に遭わせた奴にはひと泡吹かせてやらなきゃ気が済まないってだけ。別に貴方たちのためじゃない」
言いながら礫に向けられた白亜の顔は、普段一緒に過ごしていた頃は目にすることがなかった、決意に引き締まった目をしていた。
彼女も、今までの生活で随分と鍛えられて、変わったようだ。礫がそうであったように。
「でも──」
ふっと厳しい表情の中に、微笑が浮かぶ。
「あたしが協力してあげるんだから、優勝はしてもらわないとね」
「………… 言われるまでもねぇな」
肩を竦めて、ホロウは床を蹴った。
魔術師へと飛びかかる少年の姿が一瞬にして双刀使いの暗殺者へと変貌する。
アグニエルが──振り向いた。
鼻先にまで迫っていた小刀を無造作に腕で払い除ける。刃がまともに食い込むが、切れたのは黒い外套だけだった。
表情を持たないはずの死面が、心なしか笑っているように目に映る。
「負の感情を乗せた刃では、私は斬れんよ」
「講釈たぁ随分と余裕じゃねぇか、おい!」
もう一方の小刀も同様に繰り出し、これまた先程と同じように腕で払われる。
しかし、それはホロウの予想の範囲内だった。
攻撃が相手に避けられるとほぼ同時に、彼は右の膝を相手の顎めがけて突き上げる。
流石にこれはかわし切れなかったようで、まともに膝蹴りを食らったアグニエルは大きく仰け反った。
膝を振り上げた勢いでホロウの身体が浮く。
彼はそのまま宙を1回転し、更にその体勢から体を捻ると、爪先を相手の後頭部に叩き込む。ホロウの体の向きが上下反転しているため、相手を地面に向けて蹴りつけるような形になった。
上から力を加えられ、アグニエルはたまらずその場に膝をつく。それからは少し離れた位置に着地すると同時にホロウは床を蹴った。
身構える魔術師のすぐ右脇を掠めるように通り過ぎる瞬間を狙い、左手を相手の顔面に叩き込む。
ぴぎっ──
澄んだ音と共に、漆黒の欠片が幾許か散る。
死面が割れたのだ。
「…………!」
顔を見られると都合が悪いことでもあるのか、アグニエルは咄嗟に掌で顔を押さえた。
しかし片方しか残っていない掌で顔を押さえたために、胴体の方ががら空きとなってしまった。
無論、そこを見逃すホロウではない。
瞬時に黒騎士へと姿を変え、得物を振り下ろす。
避け切れなかった。何とか身を捻って胴斬りは免れたものの、結果的に腕を刃の軌道上に晒すことになってしまった。脇の下から掬い上げるように、暗黒剣は手首を失った魔術師の腕を肩口から斬り落とす。
やはり外套と同じ色の液体を撒き散らしながら腕は宙を舞い、そのまま手摺りを越えて海へと落ちていった。
「【Freezing】!」
間髪入れず、礫の声が響く。
斬られた腕を庇い身を縮めるアグニエル。その周囲の空気が、軋む。
小さな氷の結晶が生まれる。小指の先にも満たないほどの小さな粒だ。それがアグニエルを取り囲むように幾つも発生し、粒ひとつひとつが急速に成長していく。連結し、巨大な氷塊と化し、魔術師はその中に閉じ込められた。まるで琥珀に包まれた昆虫のように。
「【Summons Elemental - Undine】!」
アグニエルが行動不能になったと同時に、白亜の魔術が発動する。
彼女から少し離れた位置に、巨大な魔法陣が出現した。見開かれた瞳孔のような模様の巨大な法円である。大人3人が1列に横になってもまだ余るほどの大きさだ。
青白い光が魔法陣の中心に収束する。
線の上を電撃が伝うように光が奔り、ひとつとなり──やがて、それは彼女たちの前に姿を現した。
それは、水である。
しかし単なる水の粒ではなく、明確な形状を持った水だった。
長く鋭利な鰭が特徴の魚が宙を舞う。まるで竜の翼の皮膜を連想させる、王者の風格を感じさせる立派な鰭だ。水中どころか空をも自在に泳げそうである。胴体が普通の魚類と比較すると長いので、手足があれば竜と信じて疑わなかったかもしれない。それに相応しい王者の貫禄が感じられる。何より、水晶の如く透き通った全身が美しい。
水魚は全身の鰭を広げ、空気を掻き分け泳ぎ始めた。
進む先には、氷塊に封じ込められたアグニエルの存在がある。
「破壊して!」
氷塊を指差し、白亜が叫ぶ。
水魚は彼女の呼び掛けに応え、氷塊に取り付くと、その長い胴を絡み付かせた。氷塊は決して小さくはないが、水魚の大きさと比較するとグラスに入れる氷のような細かい存在に見えた。
「……召喚師か!」
水魚から距離を置くように飛び退きながら、ホロウは半ば驚いた様子で白亜を見た。
召喚師。神や精霊、霊魂、時には悪魔といった現世とは異なる世界の住人たちを召喚する才に長けた魔術師のことをそう呼ぶ。現世では物理的な姿を持たないそれらの者たちに一時的な寄り代を与え、いわゆる『神々の力』の一端を借り受けることができるのだ。
超常現象を呼び起こす、という意味では、通常の魔術も召喚魔術もほぼ同じである。
だがあくまで術者のイメージを形にする通常の魔術とは異なり、召喚魔術は『実在する他者』を呼び寄せる儀式的な力に近いため、普通の魔術師と比較すると召喚師の数は圧倒的に少ないと言われていた。魔力を持ちイメージ力が豊かであれば誰でもなれる魔術師とは異なり、召喚師には魔力の他に適性が要求されるからである。
「初めて見たぜ……まさか本当に、術者が存在してたなんてな」
「え?」
思わず独りごちる彼に怪訝そうな顔を向ける礫の声を、受け流す。
「……いゃ、何でもねぇ」
実際、召喚魔術とはそれだけ強力な技法なのだ。
びしっ。
水魚に絞め上げられた氷塊に大きな亀裂が入る。
透明な水魚の胴越しに、氷の面に傷が生まれた様子がはっきりと見えた。
氷に封じられた物体は、自らが保有する水分が凍結するため限りなく氷に近しい状態になる。その状況下で外部から衝撃を加えられ外側の氷が破砕すると、中身も同様に砕けてしまう。氷の中の果物が砕けた際に綺麗な欠片になるのと同じだ。
それが人間であっても、否、人でなくとも肉体に水分を保有した生物であれば同じこと。圧力をかけているのが『神の力』だとしたら、結果は推して知るべしである。
水魚の束縛が解かれる。
拘束が緩んだ胴の隙間から、砕けた氷の欠片がぼろぼろと落ちて甲板に転がった。
役目を終えた水魚の姿が消える。ぱしゃん、と水飛沫が宙で弾け、氷の欠片に降り注いだ。
寄り代としていた水から召喚した精霊が抜けたため、形状を保持する力が失われたのだ。
剣を構えつつ、ホロウは氷の残骸へと駆け寄った。
相手が絶命している様を実際に目で見ない限り、安心はできなかった。
現に、この場に張られた隔離結界はまだ解かれていない。それは少なからず結界を張った術者当人がまだそこに存在しているという証だ。
術者がその場所から消えれば、自動的に結界も解かれるはずなのだ。
全身が砕かれても生き続けられる生物の話など聞いたことはない。しかし相手は魔術によって生み出された、言わば疑似的な生物である。肉体の一部が欠損しても血の1滴すら流れない存在だから、ひょっとして──ということも十分に考えられる。
氷と共に砕け散ったはずの魔術師の姿を探し、彼は視線を残骸へと落とす。
そこにあったものが直視するに耐え難い代物であったとしても、願わくば何かしらそこにはあってほしかった。
だが彼の期待を嘲笑うかのように、目に映るのは氷の残骸のみ。透明の欠片以外のものはなかった。漆黒の外套の切れ端も、死面の欠片も。髪の1本も。
砕かれる直前に氷塊から脱出したと考えたとしても、斬り落とされた腕から絶えず流れ落ちていた体液の跡すら残っていないのはあまりにも不自然だった。
体を構成していた魔力が消えて、消滅した?
いや。それでは隔離結界が未だに残っている理由が説明できない。
一体何処へ──
「結界を張った者が刃を交える者である──とは限らない、ということなのだよ」
何処からか響いてくる、声。
脳に直接送り込まれてくる声ではなく、空間自体に直接響いているようだ。
それを証明するように、礫と白亜も杖を構えて周囲を警戒する体勢を取っている。この声は彼女たちにも聞こえているのだ。
アグニエルの声は、誰が聞いてもそうだと分かる上機嫌な声色で語りかけてくる。
「まさか、私の『影』を倒すとはね……3人がかりであったとはいえ、君たちがそこまでの力を持っているということが知れて、私は嬉しいよ」
「ふん、大将自ら御足労ってか。てめぇの城を留守にして、随分余裕じゃねぇかよ」
姿なき相手に突きつけるように、ホロウは暗黒剣の先を頭上に向けて掲げた。
「てめぇが此処にいるってことは、クインテット・カルバールの番人がいねぇってことだ。いいのかよ? 宝ほっぽりだしてこんな場所で油売っててよ」
「もはや、君たち以外に冒険者は残っていないからね。何の不都合もあるまい?」
黒騎士の挑発をあっさりと受け流し、アグニエルは言った。
アグニエルが何処で残る冒険者の数を知ったのかは定かではないが、彼に秘められた力は未知数だ。調べる手段など、彼がその気になれば幾らでもあるのかもしれない。
何にせよ、ホロウたちにとって、それは関係のないことだった。
「後は此処に残ったおれらを始末すれば、てめぇの邪魔になる奴はいなくなる……って寸法か」
「その通り」
アグニエルは笑った。
「だが、それはしない」
「…………?」
意外な一言に、礫は片眉を跳ね上げた。
アグニエルにとって、冒険者をわざわざ自らの本拠地に招き寄せる利点はない。むしろ楽器を奪取されてしまうデメリットの方が大きいだろう。
それを天秤に掛けるほどの価値がある何かが、魔術師にはあるようである。
そうでなければ、このようなことを言ってきたりはしないだろう。
「それではこの邂逅を待ち続けた意味がなくなってしまうからね」
突如白亜が悲鳴を上げた。
振り向くホロウ。
まず視界に入ったのは、色だった。一度目にしたら忘れられそうにない、見た者に強烈な印象を与える赤と黒の斑である。
隔離結界の中へは、術者と標的以外の者は入り込むことは基本的に不可能だ。それが術者の任意によるものでなかった場合、結界を生み出している魔力を上回る魔力を持ってして結界を破る以外に方法はない。あるいはその侵入者自体が現世の理の外にある存在であるかのいずれかか。この者の場合、どちらも当てはまるような気がしてならないが。
禍黄泉の騎兵。
おそらくその名も、あること自体ホロウ以外は知るまい。彼がそう呼んでいる一角の騎士が、白亜の手首を掴んで頭上に吊るし上げている。
動作は無造作に見えるが、少女を吊るす3本の指──薬指と小指は添えているだけで、使っているようには見えない──は、白亜がどんなに全身を揺らして暴れてもがっちりと輪を作っており、形を崩す様子がなかった。
そのすぐ隣で、礫はその光景をただ見つめているだけで身じろぎひとつしない。尻餅をついているのは、突然出現した甲冑姿に驚愕したからだろう。その傍には白亜が持っていた杖が落ちている。
杖の先端に吊るされたランタンは相変わらず中の火種を燃やし続けているが、その燃え方は先程と比較すると随分と頼りない。今にも消え入りそうな小さな灯と化している。
火種がこんな状態になっているのは、炎の勢いを維持する力がランタンから徐々に失われつつあるからだ。
ホロウはテラへと視線を移した。
物言わぬ彼女の全身が、黒い靄に包まれていた。
先の遺跡で敗退したオルバと同じ現象である。
ホロウが、想像していた通りに。
そう。これは彼にとっては想定内のこと。
だが、予想よりもずっと早い訪れだった。
持たなかったか……!
「その『音』は、君たちにあげよう。私からの招待状代わりとして」
礫の膝の上に、黒い炎が出現した。
これまでに赤、青、黄、緑と4色の『音』を目にしてはきたが、黒い炎というのは初めてである。
揺らめく様に、一種の禍々しさすら感じられる。
これは、アグニエルの『影』の核となっていた『音』なのだろうか。
「歓迎するよ──」
言葉の余韻を残し、それきりアグニエルの声は聞こえなくなった。
「ちょっと……離しなさいよっ!」
がん、と乱暴に騎兵を蹴飛ばす白亜。
しかしその程度で相手が動じるはずがない。ただ砕けた鉄の面から僅かに覗く瞳で、静かに白亜を見つめるだけ。
傍らの礫や背後のホロウは全く眼中にないらしい。他のものに興味を持とうとする気配もない。
空いているもう一方の手で、彼女の胸元に触れる。
「離して!」
やっと驚愕から立ち直った礫が、騎兵の脛目がけて杖を振りかぶる。
魔術師の腕力だけで振り抜いた杖など、重厚な鋼を纏った騎兵には通用しないだろう。それは、礫自身にも分かり切っていた。
これは彼女なりに、親友をこの窮地から救おうとしていることの表れなのだ。
しかしそれらとは全く無関係に、礫が振るった杖は騎兵の足元をすり抜けてしまった。
杖が相手に届かなかったわけではない。騎兵が杖を避けたわけでもない。
命中したが、そのまま身体を素通りしてしまったのだ。
「まだだよ……【Flame】!」
それならば、と続けて彼女が騎兵に仕掛けたのは、魔術での一撃だった。
魔物の中には、幽霊や思念体のように物理的な肉体を持たないものも存在する。そういった存在には今のように一切の物理攻撃が通用しないが、魔術であれば干渉することが可能だ。
魔術による攻撃は、効果の程度に差はあれど基本的には必中である。属性の相性で全く効かない、あるいは吸収されてしまったとしても、防御されない限りは命中するのだ。
直撃さえすれば、効果はなくとも注意を引くことはできる。礫の狙いはそこにあった。
しかし。
そんな彼女の思惑を裏切り、放たれた炎の塊は、先程の杖と同じように騎兵の身体をすり抜けた。幻影を撃ち抜いたように手応えはなく、炎はそのまま手摺りにぶつかり、砕け散った。
飛び散った火の粉の幾つかが、礫の足元に落ちる。
魔術は成功している。肌が微妙に感じ取った熱がその証拠だった。
それだけに、今の現象は信じられないものであった。
白亜を吊るし上げているということは、騎兵には間違いなく実体はあるのだ。幻影や幽霊の類ではなく、れっきとした物理的な肉体を持った存在なのである。
何故……何故、自分には干渉できない?
「……何で……!?」
「……おれらにゃ、どうにもできねぇよ」
答を求めて向けられた礫の視線を、避けるようにホロウはそっぽを向いた。
「禍黄泉の騎兵ってのはな──敗者の首を獲りに来た死神なんだよ」
それを口にすること自体が禁忌──とでも言いたげな面持ちで、彼は語る。
禍黄泉の騎兵とは。
曰く。常に冒険者たちを監視し、何処にでも姿を現す冥界からの使者である。
それは現世の存在ではないが故に、触れることは叶わない。
唯一それに触れられるのは、騎士に獲物と定められた戦の敗者のみ。
禍黄泉の騎兵は、標的となった者以外の目の前には基本的に姿を現さない。
だが言い換えればそれは、標的にされたら何処にいようが必ず現れ、そしてそれからは決して逃れられないということに他ならなかった。
甲冑全体を彩る斑色は、元からの色ではない。これは数多の冒険者の返り血を浴びているうちに変色し、生まれた色。血の色なのだ。
「礫、そいつから離れろ。今すぐにだ。巻き添え食って殺されたくなかったらな」
──何処かで、見覚えのある姿だと思っていた。
礫は意識の奥底に眠る蟠りの中からようやく見つけた記憶の糸を、ゆっくりと引き上げた。
『ネガイウタ』は古風な世界観を持つRPGの王道作品だと言われている。にも拘らず多くのファンを獲得し、今なお世間に広まり続けているのは、簡単には完全制覇させないための仕掛けを数多く盛り込んでいるからに他ならない。そしてその数多くある仕掛けのひとつが、RPGにとっては要となるバトルシステムにあった。
『ネガイウタ』は、戦闘が特に難しいRPGとしても世間に名を馳せていた。全てのオブジェクトに時間、距離、重量、耐久度の概念を取り入れることによって、これまでのRPGとは全く比較にならないような臨場感溢れるバトルシステムを生み出すことに成功したのである。
特に満足な武具が手に入らない序盤は、この難易度の高さに頭を抱える機会が相当に多かった。道中で普通に遭遇する魔物ですら、尋常ではない強さに感じられるほどだったのである。礫も初期の頃は幾度となく戦闘不能に陥ったものだ。彼女に限らず、大抵の者がそうだったのだろうが。
全滅すれば、ゲームオーバーだ。そうなる度に目にしてきた、ひとつの画像がある。
それは、今にも影に覆われそうな巨大な月を背に、大剣を提げて佇む騎士の姿だった。
足元に積もる大量の死骸を足蹴にし、手には滴る何かを持ち──僅かに見える横顔は宵闇に塗り潰され表情は伺えず。ただ紅い光を宿す瞳だけが不気味に輝いた、影のような面が印象的な絵だ。
同じなのだ。その騎士と、今眼前にいる禍黄泉の騎兵が。
「……殺され……?」
白亜の表情も凍りついている。騎兵に抵抗することも忘れてしまうほどに驚いたようだった。
あいつも、こいつのことは説明しなかったんだな──
それも当然か、とホロウは思った。
世の中には知らない方が良いことが山のようにある。これもそのひとつなのだ。
「……どういうこと? ねえ、今のはどういう意味なの?」
異様に怯えた様子で白亜は呟く。
ホロウは答えなかった。
「何で何も言わないの?──嘘、嘘よ。だって、これは……これは『ネガイウタ』の──」
言葉の終わりの方は、別の音に掻き消されて聞き取ることはできなかった。
生温かい液体が、礫の脳天に降り注ぐ。何も見えなくなったのは液体が壁のように目の前一杯に広がったからだ。
鼻孔をつつく刺激臭が、正常な判断力を目茶苦茶に掻き乱す。
礫の視界は一瞬にして暗転した。
──夢も、覚めるまでは現実と同じ。
昔、そんな言葉を何処かで耳にしたような記憶があった。
明らかにそれが夢だと分かり切っていても、本当の現実に戻されるまでは、今その瞬間にそこにある夢がその者にとっての現実なのである。
本物の感情が渦巻く、確かにそこに存在する現実。
人が殺される瞬間を見せつけられる可能性もある、生々しい現実。
「……これが『ネガイウタ』なんだよ」
ホロウは言った。右手に闇色の炎を、左手に若葉色の炎を持ち、傍らの礫に向けて言葉を投げ掛けている。
日は沈み、甲板の外に広がるのは夜の闇だった。
こう暗いのでは空を舞う海鳥の存在もなく、耳に届くのは波の音ばかり。アグニエルの隔離結界は既に解けてはいたが、これでは結界が発生している状態と大差がない。
「唄を復元するため。その大義名分で他の英雄候補を手にかけて、『音』と同化したモールダーの魂を無理矢理唄の一部に組み込んで、そうして最後まで残った奴がネガイウタの力を使う権利を手に入れるのさ」
「…………」
礫は何も答えなかった。ただ両足を投げ出して甲板の上に座り、自らの膝の上に視線を落としている。
彼女の膝の上には、音泉のランタンがある。
その中には灯はなく、硝子の向こう側がぼんやりと見えていた。所々が血で汚れ、指の跡が付いている。
これは、白亜が持っていたランタンである。
彼女が愛用していたであろう携帯電話が吊り下がったままで、そちらもランタン同様に血が付いていた。
はぁ、とホロウは溜め息をついた。
「……だから、言ったんだ。見るんじゃねぇって……」
彼は腰掛けていた手摺りから飛び降りて、彼女の隣に腰を下ろした。
「けどよ。おれが馬鹿正直に最初から洗いざらい喋ってたら、あんた、それでも他の連中と平気で戦れる覚悟持てたのか?」
横目で礫を見る。
彼女の髪は、洗いたてのようにしっとりとしていた。しかし潮風に長時間晒されていたのと、髪を濡らしているのが水ではないということもあって、べたついていた。顔も汚れ、覆面布も変色してしまっている。
だが、そんなことは今の彼女にとっては些細なことなのだろう。特に気にしている風もなく、礫は抱えているランタンをぼんやりと見つめているだけだった。
無理もないことだ。
目の前で、禍黄泉の騎兵が親友の心臓を抉り出す光景を目の当たりにしたのだから。
あの時の輝も、その瞬間を見たわけではないが──きっと同じように、禍黄泉の騎兵に心臓を抜かれて殺されたのだろう。
ようやく、礫は理解した。
輝とオルバとの勝負に勝利した後に、何故ホロウが現場から一刻も早く立ち去ろうとしていたのかを。
ホロウはがしがしと後頭部を掻きながら、視線を適当な方向に彷徨わせた。
こういう空気は苦手なのだ。昔から。何と取り繕えば良いかが分からないから。
秋の空と女心。これ以上に理解できないものはない。
彼は大きな深呼吸をひとつした後に、瞼を閉ざした。
そして、ゆったりとした口調で語り始める。
天より舞い降りし両翼の騎兵、禍黄泉に片翼を喰われ冥府に墜ちる時。
神が零した嘆きの涙、箱舟となりて奈落の底より其の者を掬う。
片翼の騎兵、新たに遣わされし両翼の騎兵と共に冥府より這い上がり。
禍黄泉を退け、最終拝謁を果たし天への道を拓く。
禍黄泉に両翼を喰われ、再度墜ちゆくその時は。
道は閉ざされ、奈落より更に深き虚無へとその身を投じることとならん。
「禍黄泉の騎兵に心臓を抜かれた『主人公』は──」
瞼を開いて、続ける。
「『ネガイウタ』の呪縛に囚われる。ネガイウタの一部として共に眠り、次にネガイウタが砕けた時、ネガイウタから命を与えられて地上に蘇るのさ」
とはいえ、1度この世界で失われた命である。ネガイウタに与えられた命は仮初のものである以上、ネガイウタから離れることはできないのだ。それは絶対的な自由とは言えない。
完全に呪縛から解放されるには、条件があった。
世界中に散らばった『音の欠片』を回収し、砕かれたネガイウタを復元させる。そのための『鋳型』としての使命を背負うことであった。
それは、ネガイウタを求めたが故に与えられた代償だ。
だからモールダーは、決して己に課せられた使命を疎んじたり嘆いたりはしないのだ。
「だから、1度ゲームオーバーになったくらいじゃ終わらねぇ」
友はまだ完全には死んではいない。そう言いたいのだろう。
でも、と礫は呟いた。ホロウの言葉はとりあえず聞いていたらしい。半分怪訝そうな顔をする彼を責めるように、彼女は続けた。
「……そんなの、全然希望でも何でもないよ」
白亜のランタンの横に、自分のランタンを並べる。
蒼い炎が、足元の闇を頼りなく照らしている。
何故この色が自分ではなく相棒の色なのだろうと考えたことがあったが、何のことはない。それはとても単純なことだったのだ。
鋳型もまた、ネガイウタの一部。言わば『音の欠片』なのである。『音』の収拾のために討伐してきた数多の魔物と近しい存在なのだ。ただそれが人に対して仇為す存在であるかどうか、それだけの差でしかない。
「音なんて綺麗な言葉だけど……要は命じゃないのさ。それを必死になって、集めて、願い事をひとつだけ叶えてもらう、そのために使うなんて」
願う覚悟。その言葉の意味が、ようやく分かった。
それが、アグニエルの手によって生み出された魔物であった『音』ならばまだ良い。悪用されていた唄を取り戻せたと胸を張って言えるから。
「……何で、こんなことになってるんだろ……」
礫の声は震えていた。
涙こそ見せなかったが。彼女は、嗚咽していた。
「単なる『ネガイウタ』の大会だったはずなのに。何で、本当に殺し合いなんてしてるの。しなきゃ、いけないの……?」
「……それはな……」
「白亜を……返して……此処から帰してよ……帰りたい……」
「…………」
掛けるための適当な言葉も見つからず。ホロウは沈黙してしまった。
こうなるのは当然だ。幻想世界の住人だと思っていた存在が、実は過去に自分と同じようにこの世界に訪れた人間だと知って。更にそれが、1度殺されている人間であることを知って。自らの自由のために最後のチャンスを掴もうとしていた彼らを、何も知らなかったからとはいえ再殺してしまったという事実を思い知らされて──
ホロウは礫の頭をぽんと優しく叩いた。
「……慰めにゃならねぇだろうが、聞け。あんたがまだ生き残ってるから、この状況をひっくり返す方法が完全に消えたわけじゃねえ」
もっとも、頭の良い相棒のことだ。今此処で言わずとも、自然と気付くことなのかもしれないが──胸中で思いつつ、彼は礫の顔を覗き込んだ。
礫は先程まで死人のようだった面を上げ、虚ろな目をホロウへと向けていた。
「願えばいい。ネガイウタを完璧に復元して、クインテット・カルバールを取り戻して、な」
ホロウはふたつのランタンに視線を向けた。
「言ったろ? 勝者はネガイウタの力で、ひとつだけどんな願いでも叶えてもらえる……ってな」
「…………!」
彼女の虚ろな双眸が、丸く見開かれる。
そうだ。
此処はネガイウタの世界なのだ。
世界を支配できるほどの力を与えるネガイウタならば、人1人の命を蘇らせる程度のことは容易いだろう。
アグニエルを倒し、クインテット・カルバールとネガイウタを取り戻せば──
礫は、改めて膝の上のランタンに目を向けた。
先程は狭い硝子の器に押し込められた人魂にしか見えなかった灯が、今は不思議と違うものに見える。実際には彼女自身が言った通りに他者の命そのものであるわけだが、暗く冷たい嘆きの色は薄れ、温かみのある別の何かに思えるのだった。
ほら、と横手から差し出される2色の灯。
口の端から八重歯を覗かせ、ホロウは言った。
「せっかく此処まで来たんだからよ。最後まで行って、願い事聞いてもらおうじゃねぇか。ネガイウタに」
この建物のシンボルでもある巨大な時計塔が、巨大な満月を背景に鐘を鳴らしている。
バルコニーから常日頃拝んでいる見慣れたはずの普段の一光景が、今日は違って見えた。
理由は確認するまでもない。今日が来客のある日だからだ。
そのために床の絨毯を新調し、祭壇の奥を彩るステンドグラスを差し替えたのだ。
毎度来客があるその度にやってきた言わば習慣のようなものだが、今日は特に念入りに絨毯の色を選び、硝子の質も念入りにチェックした。それだけではない。部屋を照らす燭台の蝋燭を全て交換し、天井のシャンデリアも壊れている箇所は全て綺麗に修復した。
このもてなしを、客人に気に入ってもらえるならば良いのだが。
今日の客は、特別だからね。
彼は死面を被り直すと、祭壇の方へと振り向いた。
鮮やかな色彩の光の前に鎮座したそれに視線を向け、問いかける。
そうだろう? クインテット・カルバール。私はこの邂逅をずっと待ち続けていたのだよ。
叶奏神器は何も語らない。
ただ黄金の体躯に光を反射させながら、その存在を誇示しているだけだった。
新品の小さな鞄がふたつ、2人の目の前に並んでいる。
冒険者が地図や食糧を携帯する際に使う、最も一般的な腰回りに装着するタイプのポーチである。今し方、ホロウが街で様々なアイテムと一緒に購入してきたものだ。
ホロウは鞄の中身を確認して口を閉じ、その一方を礫に手渡した。
「2人分だからな。落とすなよ」
持ち上げると、ずっしりとした中身の重量が掌に伝わってきた。
確かに、かなり内容物をコンパクトにまとめてはいるようだが重量があるようだ。1人で持つには少々重い。が、行動に支障をきたすほどでもなかった。
ホロウが貴重な薬品をまとめて礫に持たせたのは、彼が武器を振り回して暴れることがあるからだ。
基本的に冒険者が持ち歩く道具はそれが薬品の瓶でも通常の品よりかは頑丈に作られてはいるものの、その強度は絶対というわけではない。基本的に前線に出ない礫が持っていた方が安全だと踏んだのだろう。
短剣の鞘の上から鞄をベルトに固定し、ふと、礫は訝った。
彼女の鞄に2人分の道具が入っているなら、もう一方の鞄には何が入っているのだろう。
同じように腰に金具で鞄を固定し、その場を何度か跳ねて固定具合を確かめてから、ホロウは言った。
「……本当にいいのか? 服、そのまんまでよ」
「──うん」
礫は頷いた。
「もう、慣れたから」
彼女の衣服は、大量に吸い込んだ返り血が潮風に晒されて乾いたせいで、普段の滑らかな肌触りを完全に失ってしまっていた。元の色が黒いため外見上は特に変わったようには見えないものの、着心地は明らかに悪くなっている。
髪や身体に付着した汚れは水で洗い流せるが、衣類に関してはそうもいかないのだ。
手に馴染む武器、体型にぴったり合った防具。装備品に関しては、人それぞれの相性がある。特に魔術師の場合は、己の魔力の特性との兼ね合いも考えて身に着けるものを選ばねばならないため、多少汚損したからといってすぐには取り替えられないのである。
「これで、準備は済んだな。他に必要なものとかはねぇよな?」
髪を結い直し、ホロウは言った。
今彼ら2人がいるのは、港町から出てすぐの場所にある草原だった。
船を降りてすぐにホロウと共に商店街へと物資調達へと繰り出し──もっとも彼女が調達を手伝ったのは薬品類や携帯食糧といった簡単なもので、大半の物資調達はホロウが独自に行ったわけだが──そのまま街の外へと出てきたのだ。
時刻は夜中、近くを歩く他人の気配はない。
街の外にいるのは、準備が完了次第アグニエルが待つ幻の居城への道を拓く『儀式』を始めるからだった。
実際に、物語の中でも全ての『音』を回収した主人公はそれらしきことをしている。儀式の明確な内容は礫は知らなかったが、ホロウが何かしらしてくれるのだろうと彼女は予想していた。人がいる場所を避けたいと言い出したのが他ならぬ彼だからである。
そうか、とホロウはそれ以上追及してはこなかった。
「分かってるだろうが……一応言っとくぜ。
1度あっちに渡ったら、もうこっちには戻れねぇ。いいな?」
知っている。アグニエルが倒れ、叶奏神器クインテット・カルバールを取り戻すまで、本土には戻ることができないのだ。
物語の中で明確に語られているわけではないが、それは幻の居城が此処とは違う次元に存在しているからなのではないかというのが礫の解釈だった。世界中の何処を探し回っても城の影ひとつ発見することができなかったのがその根拠だが、実際のところはどうなのだろうか。
礫にとっては、別にそれでも構わなかった。
アグニエルを倒し、唄と楽器を取り戻したら、この世界に留まる理由などないのだから。
礫が決意の眼差しを向けてくるので、それを承諾の意と判断したようだ。彼女に向けてホロウは手を差し出した。
「なら……始めるか。ランタンを貸しな」
言われた通りに、彼女は相棒にランタンを渡す。
一対の小さな掌が、ランタンをしっかりと掴んだ。
同時に。
中の炎が膨張を始めた。
ぱちん、と留め具が外れる。蓋の小窓が開き、そこから蒼い炎が溢れんばかりの勢いで噴き出してくる。
それはランタンを持つホロウの全身を包み込み、高い火柱を上げた。
炎の勢いに驚いた礫が飛び退く。
しかしその見た目の強烈さとは真逆に、炎は全く熱くなかった。物質的な炎とは違うらしい。強風を起こし彼女の髪や衣裳を跳ねさせるが、それだけで、近寄っても引火どころか火傷もしない。
確かにこれでは、周囲に第三者がいると厄介なことになる。どう考えても子供が火に焼かれているようにしか見えないからだ。
炎に包まれながら、ホロウは右目の布当てを外した。
炎の渦巻く勢いが髪を巻き上げているため、普段は見えない素顔がよく見える。
布当ての下から出てきたのは、闇を収めた瞼だった。その奥には眼球がない──ぽっかりとした空洞がそこにある。
指を突っ込んでも何にも触れられなさそうな深い闇に、その周囲を網の目のように化粧する、何処かで見たことのある模様。何処だったか。
彼女はすぐに思い出した。オルバの背にあった刺青である。細かい形状は異なるが、あれとそっくりなのだ。
そういえば、彼の刺青の中心にも黒く塗り潰された箇所があったが、ひょっとしたらあれも空洞になっていたのかもしれない。
身体に直接穴が空いているなど、考えるとぞっとするが──
炎の流れが変わった。
内側から収縮するように渦を巻き、ある一点へと収束していく。
開放された、ホロウの瞳なき右目へと。
蒼い輝きは全て瞼の奥へと吸い込まれ、消えた。
ホロウの周囲どころか、彼が手にしているランタンにも炎は既にない。完全に彼の中に吸収されてしまったようだった。それを証明するように、先程までランタンの中で燃えていた蒼い炎が、今は彼の右瞼の奥で燃えている。蝋燭の炎のように小さく、しかし強く輝いている。
彼は片手を礫に伸ばした。もう一方の手には空っぽになったランタンを抱いている。
礫がその手に自分の手を触れさせると、彼はそれをしっかりと握った。
──不思議と、不安はない。
例えアグニエルの力がどんなに強大でも、彼が本拠地でどれほどの罠を張り巡らせて待ち構えていても。
この手が繋がっていると、何故か屈する気がしない。自分たちが勝利する姿しか想像できなかった。
これが正真正銘最後の決戦だ、などという月並みな台詞は言わない。
ただ絶対負けないために、相棒と自分の力を信じて戦い抜こう。そう思えた。
音が波長となって、天から降ってきた。楽曲ではない単純な音の集まりだが、不快感はない。直接心に何かを訴えかけてくるように、それらは2人を包み込む。
視界が光に塗り潰される。全身が宙に浮くような感覚を覚え、これが空間を渡る感覚なのだと礫が自覚すると同時に、彼女の意識は急速に薄れていった。




