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ネガイウタ  作者: 高柳神羅
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第3楽章 初メカラ

 楽奏都市アルクレイド。

 叶奏神器クインテット・カルバールと共に長き時代を生きた音楽都市のひとつとされている。

 今は楽器は魔術師の手によって持ち去られ、その存在こそないが、いつかまた楽器が戻ると信じ、この土地の人々は暮らしている。

 明日に希望の存在を夢見る歌を紡ぎながら。

 街のあちこちで耳にする楽曲は、楽器がこの地から奪われた時に生まれた人々の嘆きが形となった歌だという。

 元々『ネガイウタ』の世界に住む人々は誰もが詩人であり、心を音にして人に伝え合う才に長けた人々だった。1粒の雫が水面を叩く音ですら楽曲にしてしまう、常人には少々理解し難い能力の持ち主たちなのだ──文章での説明ではそういうものなのかと軽い認識だったが、いざ実際に目の当たりにすると、実際は色々な意味で凄いものなのだと思わされる。

 だから、軽やかなのに物悲しい音に聞こえるのだろう。

 曲に耳を傾けながら礫は思った。

 視線を前方からやや足元へと移す。

 慣れた調子で礫の前を行く少年神官の後ろ姿が目に映る。

 自らを「主人公と行動を共にする仲間」と称し、それ以上は語らずただ礫を導く者。

 彼も礫と同じ場所から此処にやってきた存在なのだろうか。それとも『ネガイウタ』の世界の住人なのだろうか。

 だがどちらの住人であったとしても、彼は礫の仲間であることだけは少なくとも間違いはない。今はその認識だけで、彼に関しては十分なのかもしれないと礫は思うことにしていた。

 彼は、道中礫に様々なことを話して聞かせた。

 これからのことも。

「ホロウ」

 礫は前を行く少年の名を呼んだ。

「何だ?」

 振り向きもせずに応える彼に、彼女は続けた。

「ボクは、ゲームのシナリオと同じように魔術師を倒して楽器と唄を取り戻すのが目的で、此処にいるんだよね」

「ああ」

「その唄は、魔物を倒して手に入る『音の欠片』をランタンに集めて復元するんだよね」

「ああ」

「他のみんなも、ボクと同じ目的で世界中にいるんだよね。全部で何人なのかは知らないけど」

「ああ」

「つまり、できるだけ他の人よりも早く目的を果たせってことなんだよね。それが大会の内容なんだよね」

「そう言ったろ?」

「うん。そこまでは分かったんだけどさ」

 礫は少しだけ足を速め、ホロウの右隣に並んだ。

 小柄な割に早く歩く相棒の顔を覗き込むような感じで視線を送り、言う。

「何で、他の参加者を残らず討伐しなきゃならないって話になるのさ?」

 礫と同じように、データ通りの装備を身に纏ってこの地に送り込まれた他の大会参加者たち。その中には礫の親友、白亜の存在もある。

 それを1人残らず倒さなければ終わりはない、とホロウは語る。

 これは大会である、と考えれば、ライバルを踏破するのは何ら不自然のないことなのかもしれないが。

「至極簡単な話だぜ? あんたもてっきり理解してるもんだと思ってたんだけどな」

 唇を舐めながら、ホロウは視線を僅かにこちらに向けてきた。

「『音』が1個でも足りなきゃ唄として復元できねぇんだよ。他の連中が持ってる『音』も必要なんだ。他のランタンもぶっ壊して、『音』を回収する必要があんのさ」

「…………」

 礫は、自らの腰に目を向けた。

 携帯電話に繋げられ、揺れている元ストラップのマスコットが視界に入る。

「当然、この話は他の連中も、同行してる『M』から話を聞いてるはずだぜ。出くわしたら、本気であんたのランタンを壊しにかかってくるからな。用心しとけよ」

 つまり、他の参加者にランタンを破壊された時点で敗北が確定するということだ。

 ランタンがなければ『音』の回収は不可能となる。そうなれば、課せられた目的を果たすことができなくなる。それは、分かる。

 では、ランタンを破壊された『主人公』は?──

「そんなの、決まってんじゃねぇか。ゲームオーバーだ」

 礫の質問に、至極どうでも良いと言いたげな様子でホロウはぱたぱたと手を振った。

 真面目な話、ホロウのような『M』の立場からしてみれば、他の参加者の動向は気に留める存在ですらないということなのだろう。

「ほら、着いたぜ」

 と。

 ホロウが立ち止まったのは、1軒の建物の玄関の前だった。

 民家にしては大きな、西洋風の建物である。焦げ茶の煉瓦で組み上げられた壁には蔦が這い、年季が入っている様子を物語っている。しかしそれなりに磨かれ、手入れはされているようだった。

 青銅の小さい風見鶏が玄関の横に設置されている。風が吹いても動かないところを見ると、実際は風見鶏の形をした別の何かなのだろうが。鶏の足元には鉄の鎖で括り付けられているように小さな看板が下がっており、絵が描かれていた。明らかに酒のボトルと思わしき瓶と、ベッドである。見覚えのある絵だった。

 酒場兼宿屋の看板である。幾度となく世話になったことがある。

 礫だけではない。誰もがこの場所には相当な世話になった経験を持っていることだろう。

 元々『ネガイウタ』には、出現する魔物を討伐して金銭を得る、といったシステムが存在しない。魔物が人間社会で流通している貨幣を所持しているのは、ありえなくはないだろうが不自然だからそういう裏設定を設けているのではないかという噂があった。実際のところはどのような理由でこのシステムが採用されているのかは不明だが。

 しかし、武具を新調したり薬品を購入したりするには当然の話だが資金が必要となってくる。その額は決して少なくはない。

 資産を増やす方法は、大まかに分けて2通りある。

 ひとつは、討伐した魔物から素材を得て、それを町で換金したり素材として使用し武具を作成する方法だ。自分好みにカスタマイズした武具を入手する方法としても広く利用されている。ただの薄布1枚が外見からは想像もつかないような性能を秘めていたりすることがあるが、そういう品は全てこの方法で生み出されたものだ。

 もうひとつが、こういった町の酒場や掲示板等で得られる仕事をこなし、その報酬として賃金を得る方法である。町の人間や、あるいは一国の重役から依頼される機会も多々あり、シナリオのキーアイテムや希少価値の高い品を入手する方法として選択されることが多い。

 物語の開始直後は、行動できる範囲が実に狭い。遠出できるだけの力量と、それを支えるだけの資産がないからである。

 その両方を育成するという意味で、此処は序盤から終盤まで世話になりっぱなしとなる場所のひとつと言えた。実際礫がそうだった。

 世界観やシステムを忠実に再現した場所ならば、おそらく此処も同じだろう。

 などと胸中であれこれ思案しつつ建物を見上げている礫を待ちもせず、ホロウはさっさと中へと入ってしまった。

 彼の性格を考えるとそれが普通なのかもしれないが、仲良くやろうと先に言い出した立場の割には気遣いというものがない。

 もっとも、仲良くやろうという言葉の内容が労わり合うこととイコールであると明確に提示されたわけでもない。彼にとっての仲良しとは、単に「喧嘩をしない」関係であるというだけのことなのかもしれない。

 礫もまた、ホロウの後を追って建物の中へと足を踏み入れた。

 その直後に。

 入ってすぐのところで突っ立っていたホロウの背中に真正面から激突してしまい、彼女はその場に尻餅をついてしまった。

「ちょっと……」

 立ち上がりつつ文句を言いかけ、そのまま言葉の後半を飲み込む。

 ホロウは、まっすぐに正面を見つめていた。

 不規則に並べられた木製のテーブルと、これまた乱雑に置かれた椅子がまず目に入る。背凭れ付きなのは酒場にしては豪華であると言える。奥の方にはカウンターがあり、棚に大小多様な形状の酒瓶が押し込められたように並んでいる。更にその奥は厨房になっているのだろう、火を焚いた竈が設置されているのがちらりと見えた。何かを作っているのか香ばしい香りが漂ってくる。

 一見ごく普通の、食事処や酒場にはありがちの風景である。

 一見。

 ホロウが感じているものと同じものを、自分も感じたのかどうかは礫自身には分からなかった。だが、意識の何処かで鳴っている警鐘を認識することはできた。

 不自然なのだ。

 彼女は客席の方に再度視線を向けた。

 テーブルには色々なものが置いてある。花を活けた花瓶。食べかけの料理を載せた皿。酒が注がれたままのジョッキ。客の私物だろうか、明らかに地図と思わしき紙が広げられているテーブルもある。

 酒場は大勢の冒険者の交流の場としても利用されている場所なので、そういうものがあってもそれはごく普通のことだ。

 不自然なのは──

「隔離結界か……」

 ぽつりとホロウが呟く。

 魔術で構成されたその場所は、基となった世界の『現在』をそっくりそのまま描写する。竈の火が点いているのも、テーブルに食べかけの料理があるのも、全て魔術がその瞬間を写し取り、構成しているからだ。だが、その場にいる『意思を持つ存在』だけは描くことができない。意思の存在が魔術の干渉を無意識のうちに阻害するからである。

 と、そのような一文が公式サイトの設定一覧のページに書かれていたことを、礫は思い出していた。作品中にも実際に結界内に閉じ込められるシーンがあり、その時も、確か主人公以外の人物は誰1人としてその場にいなかったはずだった。あれを現実的に再現すると、こういう風景になるらしい。

 だから、いないのだ。人1人、虫1匹すらも。

 今この場所にいるのは、礫とホロウ。

 そして、この場所に結界を創り出した術者当人だけ。

 ぱんっ!

 突如、風船が破裂したような音が響いた。

 2人の前に、橙の火花が落ちて消える。花火の時によく嗅ぐ匂いが鼻先を掠めた。

 出現した何かを、ホロウが咄嗟に張った魔術障壁で防御したのだ。

「……ほう」

「なめんなよ」

 ホロウは笑みを浮かべた。

 そして、念じる。収束した魔力が、彼の左手に形となって出現した。

 棍である。魔力を武器の形状に編み上げ、物理的に具現化させたのだ。礫の目には単なる乳白色の棒にしか映らなかったが、きっと見た目以上の能力があの棒には秘められているのだろう。

「流石だな」

 カウンターに腰掛けているそれは、顎を撫でる仕草をして、まじまじとホロウを見つめた。

 蜘蛛の巣のような網目模様を描いた死面を被った黒ずくめの人間である。声色からして大人の男なのだろうが、外見ではそう断定もできなかった。

 フードを目深に被り、喉元と腰を留める黄銅の鎖以外に目立った装飾はなく、鎌でも持っていれば死神に見えなくもない雰囲気の、裾が擦り切れた外套を羽織っている。やけに地味な外見だが、おそらく下に別の衣服を着用しているのだろう。捲れた外套の裾から、煌びやかな模様が入った布地が一瞬だけ見えた。

「確かに君には、通じないようだ。それだけの力量があることは、私も知っている」

 何やら興味津々に呟き、黒ずくめは右の掌を2人へと向けた。

「だが、そちらのお嬢さんの方にも果たして同じことは言えるのかな」

「!」

 びくっと身を震わせる礫。ホロウが小さく舌を鳴らした。

 彼は棍の先端で宙に円を描く。先程の魔術攻撃を防御した障壁を礫の周囲に展開させると、同時に自らの足元に魔法陣を出現させた。

 魔法陣から垂直に発生した光の柱がホロウを呑み込んだのが一瞬だけ見えたが、それ以上は分からなかった。

 輝きは一瞬で消えた。相棒が立っていた位置を見ると──そこに、彼の姿はなかった。代わりに、見知らぬ男の姿がある。

 漆黒の鎧を纏った青年である。金の模様が要所に施されているせいか、妖艶さは感じられるものの不思議と禍々しさはない。騎士の象徴とも言えるマントは着けていないが、その代わりなのか引き摺るほどに長いマフラーで首元を覆っている。だがそれ以上に目を引くのは、何処かで見たことあるような銀色の髪だった。

 群青のリボンで結った腰まで伸びる白銀の髪。目元を覆い隠す、人形のような髪──それで礫は思い出す。ホロウが、全く同じ髪型だったということを。

 棍から漆黒の大剣へと形を変えた得物を真横に構えつつ、ホロウは黒ずくめへと向かっていく。

 暗黒の軌跡が空を薙ぐ。迷うことなく、その終着点を相手の首へと定めて──しかし刃が届く直前に、黒ずくめの姿がふいっと掻き消えた。手を翳した格好のまま幻影の如く消失し、同時に礫の背後へと出現する。瞬間移動したのだ。

 礫は慌てて杖を手に取り、振り向いた。

 だが恐怖で足が竦んでいる状態では、自然と他の動作も鈍くなる。精神を平静に保ち、集中させるなど更に厳しいことだ。

 どうにか魔術で応戦しようと声を絞り出すが、

「Fir……」

「【Ray】」

 淡々とした黒ずくめの言葉が、礫の声を遮った。

 繊細と言うよりも枯れ枝を連想させるような痩せた5本の指。その全てに光が点る。

 眩い光だ。それらが、次々と間隔を置かずに撃ち出される。

 咄嗟に身を捩った礫の髪を数本薙ぎ、ホロウの横を掠め、カウンターの奥に並んでいた棚に向けて飛んでいく。

「【Reflection】」

 棚の酒瓶に着弾する瞬間、黒ずくめが新たな魔術を放つ。

 力ある言葉に反応し、棚の酒瓶が一斉に白い光を放った。同時に、それらの前に何かが出現する。

 現れたのは、白銀の丸縁に収まった、半透明の影色の鏡板だった。童話等に登場する魔術師が儀式の時に使っていそうな細工物を連想させるそれの鏡面に、先刻黒ずくめが放った光弾が突き刺さり──そのまま、反射した。ホロウに向かって。

 不意を突く形となり、振り向きかけたホロウの左肩を光弾のひとつが貫いた。鎧を砕くこともなく、あっさりと素通りするように。よく切れ味の鋭い刃物でうっかり指を切ってもそのことに当人が気付かないことがあるが、それと同じ理屈だろう。貫通力が高いのである。

 ホロウの表情が歪む。それを見据えつつ、翳していた手を下ろしながら黒ずくめは言った。

「本来は自身に及ぶ魔術効果を反射させるための魔術だがね……こういった使い方もできるのだよ」

 それは親切な解説なのか、単なる知識のひけらかしなのか。

 どちらにせよ、黒ずくめにとってその一言は、単なる台詞以上の意味はないようだった。2人の反応を待つこともなく、次なる魔術を練り始める。

 死面に覆われた面からは、表情を伺うことはできない。だが雰囲気で、何となく視線を向けている方向くらいは分かる。

 その標的が自分であると悟った礫は、今一度魔術を放つべく息を吸い込んだ。

「【Flame】!」

 ぱちん、と空気中の塵が焼かれ、爆ぜる音が発せられる。

 礫の声に反応して虚空に出現した炎の波が、黒ずくめを飲み込んだ。

 熱と火の勢いに押され、黒い体躯がぐらりと後方に傾ぎ──

 それだけだった。蒸発音を立て、炎が一瞬にして消える。外套には焦げ目すら付いていない。

 【Flame】は【Fire】よりも強力な炎を操る魔術だが、防御されてしまったのだ。

「効かんよ」

 呟き、礫に向けて黒ずくめが手を翳す。

 貫かれた肩を掌で抑えつつ、ホロウが駆ける。

 彼が通った床の上に点々と血痕が付いていた。それ以上に、彼の左腕は流血で鈍い輝きを纏っていた。鎧の黒色が血の存在を幾分か認識しづらくさせているが、かなり出血が酷いようだ。だが構いもせずに、彼は手にした大剣を黒ずくめに向けて振るう。

 その瞬間。死面の奥の双眸が、動いた。ホロウへと。

「【Paralysis】」

「!?」

 両者の間に、黄金色の網目のような光の模様が出現した。

 蜘蛛の巣をでたらめに絡み合わせて作ったような、規則性も何もない糸の集合体。それが、ホロウの全身に絡み付く。

 肌に触れた瞬間光の糸は消えたが、ホロウの全身にその影響はすぐに現れた。急激に失速し、彼はそのままバランスを崩して床に顔面から突っ込んでしまう。

 物を握る力も失ってしまったのか、大剣がその手を離れ、そのまま具現力を失い存在を霧散させてしまった。

「……てめぇっ……最初っからおれを……」

 麻痺の影響は全身に表れているらしく、くぐもった声でホロウが呻く。

 この場で、黒ずくめにとってより脅威となりうる存在は場馴れしているホロウである。ある程度の魔術を無効化できるほどの力を持つ相手に真っ向から向かっていっても、一筋縄ではいかないことをきちんと理解しているのだ。

 だからわざと礫を狙う素振りを見せ、その際に生じた僅かな隙を突き、先にホロウの行動力を封じたのである。

 必死で身を起こそうとする黒騎士の背中を見下ろし、黒ずくめは言う。

「どうやらお嬢さんの方には、私にとって脅威となりうる力はないようだ。……ならば、当然のこととは思わないのかね?」

 言い放たれ、礫は絶句した。

 だが憤慨はしなかった。腹は立つが、それは事実だからである。

 黒ずくめは礫の横を通り過ぎると、ホロウのすぐ前で立ち止まった。

 ホロウは未だ起き上がれずにいる。震える指先が床板を空しく引っ掻くだけだった。その背に向けて、掌を翳す。

 そして、3秒ほど静止させ、何もせずに下ろした。

 相手は、もう2人のことを見てはいなかった。あさっての方向を向き、何かを察したのだろう、聞こえるか聞こえないかといった程度の小さな呟きを漏らした。

「……予想していたよりも、早かったか……」

「……?」

 礫が訝るよりも早く。

 黒ずくめの姿が、音もなくふっと消えた。同時に、彼らを取り巻いていた静寂も消え、活気に満ちた酒場特有の空気が押し寄せてくる。

 談笑に花を咲かせる冒険者たちの声が響き、カウンターの向こうで料理を作り続けている従業員の慌ただしそうな様子が伝わってくる──誰1人として、礫たちの存在に気付いていない。まるで元から2人がその場にいたかの如く、気にも留めていないのだった。

 黒ずくめが去ったことによって、この場に張られていた結界が解けたのである。結界内部にいた彼らは、それによって本来の場所に強制送還されたのだ。

 何度か瞬きをして、すぐに我に返った礫はホロウに駆け寄った。

 周囲の人間が気付く前に彼を抱き起こし、肩を貸し立ち上がらせる。

「今の、って……」

「知ってるはずだぜ?……奴が魔術師アグニエル=ジルヤードだ」

 未だ魔術の影響が残っているせいで呂律が回っていないものの、ゆっくりと紡がれるホロウの言葉に、礫は「あ」と声を漏らしていた。

 今の単語に覚えがあったのだ。

 アグニエル=ジルヤード──

 叶奏神器クインテット・カルバールとネガイウタを世界から強奪した魔術師の名前である。

 だが、設定資料等で見かけた姿とは、若干違っていたような気がする。だから実際に目の前にしても、それだと認識できなかったのだろう。

「もっとも、今の奴は──」

 唇を舐めて、ホロウは言った。

「アグニエルだが、アグニエルじゃねぇ……単なる幻影、魔術で作られた分身だ。本物と比較したら、あんなのは単なる木偶以外の何でもねぇよ」

 逆に言えば、木偶でしかない分身にも、あれだけの能力があるということだ。

 【|Ray(光線)】【|Reflection(反射)】【|Paralysis(麻痺)】──これまでにアグニエルの分身が披露してきた魔術自体は、それほど珍しいものではない。だが無論行使する魔術はそれだけではないであろうし、何より目を引くのがその『速度』である。ひとつ魔術を行使したその直後に別の魔術を放つあの速度は、普通に考えたらまずありえないと断言しても良かった。

 それはゲームシステムの話としても、この世界の話としてもだ。

 魔術をひとつ行使すると、次の魔術を放つためにはその種類が同じであろうと異なっていようと、一定時間を置かなければ使うことができない。一般的には『リキャスト』と呼ばれているものだが、これはどんな魔術にも設定され、またどれだけレベルの高い魔術師にも課せられている枷だ。多様な手段である程度はその間隔を縮めることは可能だが、決してゼロにすることができないものであった。

 何故、魔術にはリキャストという概念が存在するのか。また、それが全ての魔術において共通のものになっているのか。

 設定では、直前に放った魔術のイメージの残滓が脳内に残っているがために、別の魔術効果を思い描くことが阻害されてしまうのが原因──それを数値化したのがリキャストであるということになっていた。

 その設定がこの世界にも適用されているのかどうかは分からなかったが、確かに先程炎を放った時や、初めて魔術を使った時に、頭の中がぼんやりとしたもので満たされているような、奇妙な感覚があったことを彼女は記憶していた。そしてそれは【Fire】よりも上位魔術である【Flame】を使った時の方が濃く、大きいものだった。

 あれが魔術のイメージの残滓なのだとしたら、少なからず次の魔術の形をイメージする時に良くない影響を与えるだろう。

 何にせよ。今の礫が1人で向かっていっても、今の状態では本物のアグニエルどころか、その分身ですら到底倒せるような存在ではないことは明らかだった。

 能力に欠けるという意味も無論あるが、それ以上に場馴れしていないという意味でだ。今のままでは、相手が操る魔術に翻弄されて一巻の終わり、だろう。

 だが、あれもいつかは必ず倒さなければならない、越えなければならない壁なのだ。それも数多く存在する壁のうちの、たった1枚にしかすぎないのである。

「何だ、ビビったか?」

 礫の胸中を見透かすように、八重歯を覗かせるホロウ。

 また小馬鹿にしてるのかと思いきや、ふんと鼻を小さく鳴らして、

「その気持ち、忘れんじゃねぇぞ。命知らずに次なんざねぇ。コンティニューなんて、できねぇんだからな」

「……今はキミがゲームオーバーになるとこだったんじゃないのさ」

 半眼になって呟く礫の言葉を、黒騎士は「違いねぇ」とあっさり肯定しながら笑った。

 それから小さく、悪かったなと呟いたのだった。

 ……ただ威張るだけだと思ってたのに。ちゃんと自分の非を認められるんだ。

 そう思うと、何となくだがこの男にも愛嬌のようなものが感じられるのだった。

 とりあえず、ずっと相棒を抱えたままその場に突っ立っているわけにもいかないので、手近な空いている席にホロウを座らせる。

 彼は椅子の背凭れに身を預けつつ、先程よりかは滑らかになった動きで両方の掌を握ったり開いたりを繰り返していた。

「やっと、効果が消えてきたか──くそ、面倒臭ぇことしやがって」

 毒づき、最も見慣れた姿となった少年神官の格好へと外見を変える。

 身に纏う衣裳は黒の甲冑から白の貫頭衣へと変化したが、先程受けた魔術による傷痕は残ったままだった。穴が空き、流れる血が染みて赤い斑模様ができている。

 そこに手を当て、ホロウは静かに目を閉じた。

 傷に触れた掌が、淡い黄金に光る。

 【Recovery】の魔術である。負傷を癒し痛みを除去する効果を持つ魔術の中では、初歩的な部類に入るものだ。

 魔術の効果を受け、傷に変化が現れた。逆再生映像を見ているように流れる血が止まり、傷口の周囲の肉が盛り上がっていく。それはすぐに平面になると、綺麗な皮が張り、元の皮膚となった。

 流石に服の穴や血の染みまでは消えなかったが、それは洗濯して繕えばどうにでもなるだろう。実際、深さはともかく傷の面積自体はそれほどでもなかったのだから。

「……変身すると、傷の大きさも変わるの?」

 治癒具合を確認するように左肩をぐるぐると回し始めるホロウに、礫は尋ねた。

「何だそりゃ?」

 ごき、と肩骨が音を鳴らしたところで動きを止め、ホロウが怪訝そうに問い返す。傷の具合はもう完全に良いようである。

「見た目は縮んでるかもしんねぇけどよ、程度は変わらんぜ? 致命傷を食らったら、そりゃどんな格好になったって致命傷ってぇのに変わりなんざねぇ」

 例えば全身の9割に炭化するほどの火傷を負ったら、その後にどのように姿を変えても炭化した皮膚の割合は変化しない、ということだ。もっとも、そこまでの火傷を負ったら、変身する以前の問題で死んでいそうだが。

 と、あーと声を漏らし何やら1人で納得すると、唇を舐めて──事あるごとにやるので、どうやら彼の癖らしい──礫の顔を見上げた。にやりとする。

「何で治療すんのにわざわざ格好変えたんだ、とでも思ったんだろ」

 頷く礫に、やっぱりな、と言い、肩を竦めた。

「後で教えてやる」

「……今じゃなくて?」

 流れを無視したホロウの回答に半ば肩をコケさせる礫に、彼はVサインを出した。

 否、単に指を2本立てただけらしい。

「此処で迂闊に喋ってライバルにうっかり聞かれてみろよ。戦り合う時に不利になるんだぜ」

 立てた指の数だけ、回答らしき言葉を並べ始める。

「それに、腹減った。治癒系魔術ってよ、傷は治しても出ちまった血の量までは戻してくれねぇんだ。減った血の分だけ疲れるし、何より体力まで戻るわけじゃないしな……ちっとは休憩しねぇと参っちまう」

 物語中に時折発生するイベント等で、人を救助する場面が幾つかある。主人公は治癒系魔術で相手の怪我を癒したり──主人公が治癒系魔術を使えない場合は同行中の仲間の力を借りたり、類似効果がある薬品を用いる場合もあるようだが──するが、その際に助けた者がすぐに動けなかったりする場合があった。その理由はそこから来ているらしい。

 蘇生魔術、という代物も存在する『ネガイウタ』の世界だが、それを死者に施しても、文字通りにその死者が蘇ることは決してない。死はあくまで死であるように、魔術と言えど決して万能なものではないのだ。

「飯食おうぜ」

 食いたい時に食えるってぇのは、幸せなんだぜ?

 言いながら席に備えてあるメニューに手を伸ばし、ホロウは礫にそう言うと、傍を通りかかった給仕係に目に留まった料理名を片っ端から注文し始めた。ほとんどが酒のつまみにするようなスナック感覚の料理だが、量が半端ではない。全部1人で食べる気なのだろうか。

 早速運ばれてきたトリッパのトマト煮を頬張りつつ、礫の胸中を察したのか、ホロウは笑いながら料理に目配せした。

「此処の勘定くらいはおれが払ってやるよ」

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