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ネガイウタ  作者: 高柳神羅
3/10

第2楽章 ヒトツメノ『音』

 貴女には聴こえるだろうか。世界中に満ち満ちた、『音』たちの嘆きの声が。

 『ネガイウタ』は、単なる楽曲ではない。それを構成するひとつひとつの音が生命を持ち、意思を持っている。生きている存在なのだ。

 音たちの生命の共鳴が、この広大な世界に眠っている大いなる力を呼び覚ますのだ。

 故に、全ての『音』の共鳴なくば、その楽曲は何の力も持たぬ、単なる不協和音の集合体でしかない。

 そして楽器もまた、物言わぬ単なる物体以上の存在意義を持たない存在となり果てるだろう。


「…………」

 何処かで聞いたことのあるような言葉に意識を揺さぶられ、礫はぼんやりと瞼を開いた。

 彼女は、倒れていた。

 そこは見覚えのない一室──否。明らかに屋外の、広場だった。

 木々が鬱蒼と生い茂り蔦が蔓延った緑色の空間。足元は若草の絨毯が広がっている。頭上には鳥の声が絶えず響いており、何処からか吹き込んでくる風が鈴の音のような葉擦れの音を奏でている。

 意識が次第に鮮明になっていくにつれ、礫は、自身が意識を失う前のことを思い出してきた。

 確か、会場のドアを開けたら、落ちて──

 身を起こしかけ、全身に生じた不自然な重量感に気付き、目を疑った。

 服装が、変わっていたのだ。会場に来る時に着用していた普段の衣服ではなく、大量の貴金属の装飾品を身に付けた法衣へと。

 赤い魔術文字の刺繍飾りが全体に施された黒いローブ。細やかな宝石があしらわれた左胸や腕を防護する黒艶の部分鎧。額を覆うサークレットに、鼻から下を覆い隠す薄布のマスク。背に下がるマントが、蝙蝠の翼を模しているかの如く奇妙な形状をしている。

 それらは、彼女が明らかに知っている衣裳だった。

 会場に来る前に最後に記録した時に、『ネガイウタ』の主人公に身に着けさせていた呪術師スタイルの装備品の数々である。

 礫は、他人に記録を見せる際には外見重視の装備品を好んで着けさせるところがあった。公式サイトのデータには、着用中の装備品が映像化されて反映されるからだ。インターネットのブログにあるようなアバターに似た感覚である。実際外見重視の装備品を身に着けるユーザーは多く、物珍しい装備品を公開して自慢する者もいたほどだ。

 彼女の場合はある程度の装備品の性能面も見るが、気に入った品があれば、それが周囲には微妙と言われるような品であったとしても持ち歩いていた。時々着替えたりして、アバターの姿が変化する様子を楽しんでいたのだ。

 それがよもや、自身がアバターとなるとは想像すらしていなかった。

 彼女にはコスプレの趣味はない。が、こういう格好をしてみたいという願望は前々から胸中にはあった。それが予想外の形で叶えられたことに、嬉しさで心躍る反面、疑問と不安も生まれる。

 誰が自分を着替えさせたのだろう。

 それ以前に、此処は一体何処なのだろうか。

 腰に手を回してみる。マントで隠れてはいたが、明らかに礫の想像通りのものがそこにあった。

 彼女の武器である、鞘に収まった短剣と、巨大な黒水晶を抱いた大鎌状の杖だ。人の身の丈ほどもある杖をどうやって持ち歩いているのだろうかと思ったことがあったが、普段は柄の部分を折り畳んで持ち運びやすいようにしているらしい。改めて現物を目にすると、データだけでは分からないことが色々と分かる。

 そして、もうひとつ。不自然に腰のベルトに金具で引っ掛けられた物体があった。

 普段、礫が持ち歩いている携帯電話だった。

 これだけ、普通に携帯なんだ……

 微妙に幻想と現実が混ざった状態に少々気が抜けた。

 周囲に姿が見えない白亜は今どうしているだろうかと、携帯電話を手に取り──ぎょっとする。

 携帯電話に付けていたストラップのマスコットが、変化していたのだ。

 音泉のランタン、の名で『ネガイウタ』に登場した本物のアイテムに。

 金属で補強された丸鉢状の硝子容器の中に、光が灯っている。しかし先刻ロビーで見かけたレプリカのような淡い光ではなく、不安定に揺れながら燃える青白い炎だった。ランタン本体は、触れても熱くはない。硝子が見た目以上に熱を遮断する性質を持っているのか、これ自体が炎に見える別の何かなのか。何を核にして燃えているのかは見た目からは分からなかったが、火種が尽きて消えてしまう、といった様子はなさそうだった。

 とりあえずランタンのことは後回しにし、礫は携帯電話の画面を開く。

 画面は、真っ暗だった。変わり映えのない自分自身の顔が反射したその面に目を凝らすと、漆黒の中にうっすらと何かが映っているのが見て取れる。一応電源は入っているようだが、一切の操作が効かなくなっている。少なくとも故障しているわけではないらしいが、不気味なことこの上ない。

 ……何なのさ、これ……

 訝るも、現状ではどうしようもなさそうだった。元あった位置に携帯電話を戻し、礫は周囲を見回した。

 ただの広場かと思っていたら、どうやら別の場所に続いているようだ。木に隠れて道が延びているのが見えた。

 此処に延々と留まっていたところで、状況は何も変わらないだろう。

 意を決し、礫は道に沿って歩き始めた。


 広場と同じように植物が茂る道を進むことしばし。

 それはあった。

 いかにも魔物の巣窟とでも言わんばかりに、岩壁にぽっかりと大穴が空いている。

 だが、此処が魔物の巣窟ではないということはすぐに分かった。入口の傍に、明らかに人の手によって設置されたと思われる燭台があったからである。

 加えて酒樽がふたつに、木箱がひとつ、燭台の下に無造作に放置されている。これらにそれほど長期に渡って野晒しにされているといった形跡はない。人為的に此処に運ばれ、置かれた品であるという証拠だった。

 此処は、誰かが何かの目的で使用している場所なのだ。

 まさか本当に魔物が現れるといったことはないだろうが、何かが起こりそうな気がしてならない。

 周囲を警戒しつつ、礫は洞窟に足を踏み入れた。

 内部は、やや広めの空間になっていた。今し方礫が通ってきた通路以外に通り抜けができそうな道はなく、此処で行き止まりらしい。中にはこれといったものはなく、ただ空間の中央に、光り輝く気流らしきものが見えるだけ。気流はよく観察すると何かの文字のようにも見えるが、形状が一定を保っていないために何なのかは結局分からないのだった。

 これ、何処かで──

 光の中心部に手を伸ばそうとしたその瞬間。

「イベントスルーして先に進むってか。随分とまぁせっかちな奴が来たもんだな」

「!」

 唐突に背後に沸いた声に、礫は思わず手を引っ込めた。

 振り向く。と、いつからそこにいたのだろう。1人の少年が、腕組みをして佇んでいる様子が視界に飛び込んできた。

 腰辺りまで伸びた銀髪を群青のリボンで結った子供だ。歳の頃は10か、……少なくとも15には達してはいまい。リボンと同じ群青の模様が映える純白の貫頭衣を纏い、雫形の色水晶をいくつも下げた銀の鎖で頭を飾っている。

 その外見が真っ先に連想させるのは、神官や聖職者といった神に仕える者だった。自分とは正反対の出で立ちである。

 だがそれ以上に目を引くのは、右目を無造作に覆った布当ての存在だろう。そういう衣裳なのか、それとも隻眼なのか。前髪を垂らしているせいで半分以上は隠れていて見えないものの、その部分だけが服装の雰囲気からは浮いていてやたらと意識を引いた。

 この少年も同じ大会の参加者で、同じようにこの場所に運ばれてきた人間なのだろうか。

 『ネガイウタ』では目にした覚えのない衣裳だが、きっと知らないだけで、こういう服も存在するのかもしれない。

 元々『ネガイウタ』は隠し要素が多いゲームでもあったので、それに関しては特に疑問を抱くこともなかった。

 しかし、この口調。

 この少年、神官というのは格好だけで、口は悪い。単なる憎たらしい小僧というよりかは、街中で見かける不良のような雰囲気があった。外見年齢よりも随分と大人びた印象を受ける。

 もっとも、こんな場所で出会うような存在である。外見通りのまともなものなんてあるのだろうか、と礫は胸中で思うのだった。

 服装がゲームの主人公と同じものに化けるなら、外見だって化けることがあるかもしれないのだ。見た目は可愛い子供でも、実は……という可能性だってないわけではない。

 礫は光から離れると、少年に近寄った。上から、睨みつけるように見下ろす。

「何さ」

「まあ聞きな。おれは別に喧嘩売ってるわけじゃねぇ」

 ひらひらと手を振って礫の睨みを受け流すと、彼は口の端を上げた。

「何にだって順序があるだろ? どんな話にも、オープニングってもんがあるんだからよ」

 まぁ気楽に聞けよ、と言い、礫の返事も待たずに彼は語り始める。


 叶奏神器クインテット・カルバール。

 『願いを叶える唄』──ネガイウタを奏でるこの楽器が1人の魔術師の手によって持ち去られたことが、全ての始まりとなった。

 数多の音の欠片にされてしまったネガイウタを元の形に戻し、楽器を取り戻すことを使命とした若者は、長い旅の末に唄と楽器を取り戻し、魔術師を倒して世界に平和を取り戻す。

 これが、皆が知る『ネガイウタ』の物語である。

 そして他ならぬ『ネガイウタ』の主人公となるのが、ゲームのプレイヤー自身。礫もその中の1人だ。

 携帯電話を通じて、それまでに築き上げてきた『主人公』の歴史。

 それが具現化したもの──それこそが、今礫が身に付けている衣裳であり、知識であり、技術なのである。

「……今この場に立っているあんたは、あんた自身が作り上げた『主人公』そのものなのさ。何が得意で、どんな魔法が扱えて、どれだけの財産を持ってるのか。武具は、知識は、街の住人からの信頼度は。全部そっくり、トレースしてな。それがあんたに与えられた、これからを生きるための能力の全てだ。

 その能力を惜しみなく使って、敵を倒して世界の英雄になれ。英雄になれた奴が勝者だ。『主人公』が、唄と楽器を取り戻して英雄になったみてぇにな」

「……え?……」

 礫が訝るとほぼ同時に。

 ざわっ。

 空気がざわめいた。

 違和感の発生点は──

 思わず言葉の後半を飲み込み、左右を見回す礫を見つめつつ、少年は笑った。

「──習うより慣れろ、ってな。まずはお手並み拝見といこうじゃねぇか」

 輝ける気流の動きが大きく、激しくなっていく。

 うねりは次第に歪みと化し、空間を裂いて穴を作り出した。人間1人が通り抜けられる程度の『扉』は、向こう側にいたものを2人の前へと呼び込む。

 人──ではない。

 人の形を模した『何か』だった。

 実体のない黒い霞のようなものが集合し、人の姿を真似ている。例えるならばそのような代物である。

 顔に当たる部分には目や鼻といった顔を構成するものは存在せず、代わりに握り拳ほどの大きさの蒼い炎がひとつ、揺らめきながら燃えているだけ。それが瞳に該当するのか、人型の『何か』は炎を灯す面を礫へと向けている。

 無意識のうちに礫は後ずさっていた。腰に下げていた杖を咄嗟に組み立てて体の前に持ってくるものの、そもそもこんな巨大な鎌を持って振り回す、といった芸当などやった試しがないため、どうやって構えて扱えば良いのかが全く分からなかった。それらしく構えてみたりするが、手が震えているせいか、格好になっていないのが自分でよく分かる。

 そんな彼女の心境を読み取ってかあるいは単にいじっているだけか、にやにやしながら少年は礫に言った。

「言っとくが、おれはあんたに『あんたの戦い方』を教えることはできねぇぜ? 知ってるだろ、『ネガイウタ』は全く同じ主人公は2人と生まれない、ってな」

 こんな時に、ゲームの話?

 胸中で毒づき──突如左の目尻に発生した針を刺したような痛みに、礫は身じろぎした。

 何をされたのかは、一瞬の出来事だったため分からなかった。ただそのせいで目尻に怪我をしたのだということだけは、何となくだが把握した。カミソリの刃でうっかり皮膚を切った時の痛みと、現在感じている痛みの質がよく似ていたからである。

 もしも、今受けた一撃がもう少し顔の内側だったとしたら……考えるとぞっとする。

 それ以上に。

 悪質な悪戯、の一言で済むような話ではない。今の一撃は、紛れもなく礫の顔を狙って放たれたものなのだ。目に当たれば、下手をすれば視力を失うだろう。これがスポーツ競技内での出来事ならば、顔面狙いは反則だが、残念なことにこれはスポーツの類では決してない。

 この真っ黒な人もどきは、礫に対して明らかな悪意を持っている。殺そうと、しているのだ。

 悪寒が足先から駆け上るように、礫の全身を撫でていった。

 これ、ネガイウタの大会のはずだよね?

 何で、参加者じゃない、人でもないものに襲われてるの?

 ひょっとして、悪い夢でも見ているのだろうか。

 しかし、頬は痛い。その痛みで目覚める兆候もない。

「逃げんじゃねぇ」

 少年は叱りつけるように、礫に言った。

「すぐには受け入れられねぇもんさ。それくらいはおれも理解してやる。けどな、こいつは夢でも幻でもドッキリでもねぇんだ。現実なんだよ。受け入れろ。受け止めて、まっすぐ前を見ろ。……始まってすぐにゲームオーバーにはなりたかねぇだろ?」

「!……」

 礫は乾いた喉を鳴らし、目を丸く見開いたまま、それでも何とか相手からは目を逸らすまいと真正面を見据えた。

 この霞には、何となくではあるが見覚えがあった。夜のフィールドや地下ダンジョンを探索していると遭遇する敵キャラクターのひとつに、丁度こういう風貌をしたものがいたのだ。これには様々な亜種が存在し、物語序盤から終盤まで姿を見ることができる。序盤の方で遭遇するものは、大した強さではなかった──ような、気がする。

 大した強さではない、というのは、あくまで他に登場する敵と比較しての話だ。甘く見てかかれば痛手を負わされるのは、どんなものが相手でも変わりがない。

 これは現実だと、少年は言った。

 あの扉をくぐったのは、礫1人ではない。白亜も同様だ。そして彼女たちが訪れる前にも、他の大会参加者が何人も同じようにして同じ扉をくぐったことだろう。

 あの扉がこの世界へと通じる入口になっているのだとしたら、今頃は白亜を含めた他の者たちも、この世界の何処かで現在の礫と同じような体験をしているのだろうか。

 彼らは、白亜は、この状況をどのように捉えているのだろう。ふと、そのようなことを思う。

 彼らは受け入れているのだろうか。戦っているのだろうか。

 この世界を旅していけば、いつかは彼らとも出会うことができるのだろうか。

 ──どのみち、此処でこの程度の相手に負けてしまうようでは、この先に起こりうるであろう出来事を乗り越えられはしない。白亜と再会することも、できないだろう。

 礫は歯を食いしばり、得物をしっかりと握り直した。

 ふん、と少年は鼻を鳴らした。

「そうだ。初めての割にはいい顔してるぜ。

 そのまま聞いてな。戦闘の基本を教えてやる」

 少年は目を細めると、右の掌を下に向けて前方に翳した。

 小さな指に填められた指輪に付いた青い石が、星のような光を放つ。

 彼の足元に、純白の光で描かれた魔法陣が展開した。

「これから先、数え切れないほどの『戦うべき相手』に嫌でも出くわすことになる。『音の欠片』を持った魔物共にな。そいつは飢えた狼だったり、動く死体だったり、色々だ。……だが、ひとつだけどんな連中にも共通してることがある。それが、あの『炎』だ」

 展開した魔法陣は、その円陣を構成する数多の文字ひとつひとつから力を秘めた光を生み出した。暖かさを感じる黄金の光が、少年と礫の全身を優しく包み込む。

 身体に特別な力が宿った。何となくではあったが、礫はそれを感じ取った。おそらくこれは、一時的に肉体の能力を底上げするための強化魔術なのだろう。

「あの炎は『音の欠片』が目に見える形になって、表面に出てるもんなんだ。音の欠片……何かってのは知ってるだろうから言わねぇぞ。あれを攻撃して相手から奪い取れば、勝ちだ」

「……奪い取る、って……」

「難しく考える必要はねぇさ。普通に丸ごと叩き潰す感覚でやって構わねぇ」

 霞が、初めて目に見える動きを見せた。両腕を広げながら、礫に向かって突進してくる。

 しかし、動きはかなり鈍い。落ち着いて観察していれば余裕で避けられる。

 相手の腕が自分に触れるぎりぎりのところで、礫はその場を後退して離れた。

 一方、少年は避ける様子も見せずに、ただ迫ってくる霞を見上げている。

「武器で殴る、魔術の方が得意ならそれでやってもいいぜ。それはあんた自身が自分の能力と相談して決めるんだな。

 ……以上が基本だ。後はどうするか、自分で考えて動け」

 霞の腕が少年に触れようとした瞬間、彼は後方へと跳んだ。

 軽やかに宙をくるりと1回転し、礫からはかなり離れた位置へと着地する。

 最初にお手並み拝見と口にした通りに、彼は礫を助力する気は全くないようである。

 いや。魔術で強化を施してくれた分だけ、完全に傍観者を決め込んでいるというわけではないのかもしれなかったが。

 少年が手の届かないところへ移動してしまったせいか、霞は彼の存在を視界から外したようだった。完全に目標を礫に定め、再度向かってきた。

「……ボクの能力……」

 相手を見据えながら、礫は自身に言い聞かせるように呟いた。

 脳内の記憶のページを高速で捲る。今までに覚えてきた『ネガイウタ』のデータが、次から次へと流れては消えていく。

 自分がとことんまで遊び尽くしたゲームのデータだ。思い出すことは容易だった。『主人公』がどんな能力を持っていたかも、自分の過去の思い出を掘り起こすように、一瞬のうちに必要な情報を手元に揃えることができた。

 膝が震えそうになるが、懸命に堪えた。これは武者震いだと言い聞かせ、彼女は口を開いた。

 腹の底から声を引き出して、叫ぶ。

「【Wind】!」

 礫の言葉に応え、杖の黒水晶が光を放った。

 杖の先端に、小さな魔法陣が生まれた。緑に輝く小さな円に供えられた6個の文字が、陣の中央に複雑な記号を描き出す。

 それが起点なのだろう。完成した記号はそれに秘められた力を呼び起こし、向かい来る相手目がけて牙を剥いた。

 荒ぶる風の刃が、容赦なく獲物の全身を切り刻む。

 本当に出た……!

 礫は目を丸くして、杖を見つめた。

 少年はともかく、何故自分までもが魔術の力が本当に行使できるのかは未だ謎だが、これだけは確信した。

 少年の言葉通りに、此処は紛れもなく『ネガイウタ』の世界なのだと。

 霞の体躯がぐらりと傾いた。

 だが、まだ力尽きるには至らない。すぐに体勢を立て直し、向かってくる。

 魔術のひとつふたつ程度で魔物が倒れないのは、いつの時代の何のゲームでも同じことだ。だから驚くようなことではない。

 相手を知り、弱点を見抜き、そこを突く。基本中の基本である。自然元素の力を秘めた武具を状況によって選択し、少しでも襲い来る災禍の規模を抑え、多大な効果を生むことは普通にやってきたことだ。画面の中で繰り広げられてきたことを、今は現実のこの場所で同じようにすれば良い。ひとつの行動で相手が倒れないのなら、倒れるまで武器を振るい、魔術を撃つ。それだけのことなのだ。

「【Fire】!」

 礫の言葉に応え、新たな魔法陣が生まれる。

 茜色の円陣が、先程とは別の形の記号を描いた。完成した力は炎となり、標的もろともその場の空気をも焦がす。伸びてきた炎の先端が衣服を焦がしそうになり、彼女は慌ててその場から身を引いた。

 悲鳴こそ上げないが、霞は頭を抱えて全身を捩った。それが断末魔を表現しているのだろうか。力尽き、その場に膝をつく。

 全身を包んでいた炎が消え、黒の集合体は崩壊を始めた。風に運ばれる砂のように、崩れ、散っていく。

 後に残ったのは顔に貼り付いていた蒼い炎だけ。宿主を失い、不安定にその場を漂っている。

 それを、掴む手があった。

 手中の『音の欠片』を満足そうに見つめ、少年はにやりとした。

「合格だ。わざわざ【Speed】なんてする必要なかったのかもな」

 最初に彼が施した魔術のことを指しているようだ。

 彼が言う魔術には、対象者の神経伝達速度を一時的に引き上げ、全体の行動速度を速める効果がある。霞の行動速度がやたらと遅く感じたのは、魔術効果によって状況把握能力が引き上げられていたからなのだろう。

「ほらよ、ぼさっとしてんなよ」

 と。少年は『音の欠片』を掴んだ手を、礫の眼前へと掲げた。

「……え?」

「回収だよ、回収。ほっといたらまた逃げちまうぜ?」

 言われて、礫は思い出す。

 『ネガイウタ』の主人公は、数多の音の欠片にされた唄を復元するために世界中の魔物を討伐し、音を回収していたのだ。

 確か、回収した音は……

 彼女は、腰に下げていた携帯電話を取り出した。

 回収した音は『音泉のランタン』へと集められ、全ての音が揃った時にひとつの楽曲となる。確かそうだったはずだ。

 この世界に踏み込んだ時に実物化したストラップを『音の欠片』へと近付ける。

 ぱちん、と留め具が外れる音がした。音の存在を感じ取って反応を示したのかもしれない。ランタンの蓋の一部が勝手に外れ、小さな口を開いた。

 指が1本入るかどうかといった程度の窓に引き寄せられるようにして、蒼い火の玉が中へと吸い込まれていく。中に元々あった炎と混じり合い、形を揺らめかせるが、特にそれ以上の変化は起こさなかった。

 再度ぱちんと音を立てて、蓋が勝手に閉じる。

「そうそう。唄の復元が目的だってこと、忘れんじゃねぇぞ?」

 ……確かに、主人公はそうだったけど……

 礫は携帯電話を元の位置に戻しつつ、訝った。

 キャラクターと同じ格好にはされたけど、これは単なる『ネガイウタ』の大会なんだよね?

 仮想世界の現実化、という半ば信じ難い現象下に身を置いてはいるが、元々これはゲームの大会ではなかったか。

 『唄の部』は純粋なトーナメント戦で、ユーザー同士が対決するだけの単純明快な大会であるという話は聞いていたし、関連雑誌にも幾度となく掲載されていたので知っていた。

 てっきり『奏の部』も同じようなものだとばかり思っていたが、これでは全くの別物である。

 過去に13度開催され、1度たりとして世間にその内容が公開されたことがない謎の大会。

 仮想世界が現実のものとなる、いわゆるヴァーチャルシミュレーションシステムは世界的にもまだまだ開発段階にある研究である。それを世間に公表させないために、敢えて隠しているのだろうか。

 だが単にそれだけのことで大会内容を伏せているとは、礫にはどうしても思えないのだった。

「さて、と。基本を覚えたってことで、ついでだし此処ならではの応用編といくか」

 そんな礫の胸中など知る由もなく。少年は腰に手を当てて礫の顔を下から見上げた。

「あんた、さっき魔術使ってたな。元々魔術専攻型なのか、咄嗟に出たもんなのかは知らねぇけどよ」

 【Wind】は風、【Fire】は炎を呼ぶ魔術である。自然元素を扱う魔術としてはどちらも基本的な、攻撃系列に属する魔術の中では初歩的なものだ。礫に限らず、習得しているユーザーは多い。少年が言うような魔術専攻型=魔術師でなくとも、扱えるものとされている。

 礫はある程度であれば剣や弓といった重武装系の道具も扱うが、基本的には魔術師としての要素の方が強いユーザーだった。

 本当は鎧を纏い最前列で剣を振り回す騎士の方が役職としては良かったのだが、主人公がそのように成長してくれなかったのでそれは仕方がない。まさか現実の自分がそのままデータに反映されているのではないかと疑ったことだってある。言ったところで話がややこしくなりそうなだけなので、この際それはどうでも良いことにしておくが。

「もし魔術専攻型だってぇなら、大事だから覚えときな。魔術ってのはな、術師のイメージの構成力がモロに反映されるもんなんだ」

 魔術の効果を脳裏に描き出す想像力のことである。

 魔術は『力ある言葉』を示すものと認識されがちだが、実際は違う。術者が脳裏に描き出したイメージを具現化すること、それが魔術なのだ。

 単語は術者が具現化しようとしている魔術効果をより鮮明に描き出すための、イメージの核なのである。忘れかけていた記憶を何らかのきっかけで思い出すことと同じだ。術者は魔術の名から、イメージしようとしている自身の魔術効果を無意識のうちに連想しているのだ。

「単純に魔術を言葉で言うだけでも効果が出るけどな。かっちりと基礎からイメージができてりゃ、例えそれが基本の魔術だってとんでもねぇ効果を生むんだぜ。高等な魔術だって楽に扱えるようになる」

 言いながら、少年は1歩後退した。

 深呼吸をひとつして、そのまま胸元で両の掌を複雑な形に組む。

 やがて。少年が印を組んだ掌を静かに上に向けると、そこから押し出されるように小さな光の玉が生まれた。

 【Lighting】の魔術である。

 魔術名が示す通り、暗闇を照らす、ただそれだけのものだ。夜中の廃墟や地下渓谷、洞穴等では頻繁に使用することになる魔術のひとつと言えるだろう。無論、習得していなくても蝋燭やランタン等の火種で代用は十分に可能である。使えると便利な魔術というわけだ。

 逆に言うと、それ以上の力もそれ以下の力もない魔術であるとも言える。

 閃光を生んで目眩ましに使うような魔術ではない。れっきとした目眩まし専用の魔術が存在するため、応用する必要がないのだ。曲芸じみた使い方をすることも。否、できないと言った方が正しいだろう。

 決められた魔術を、決められた場面で決められた形で使用する。

 それが魔術師の振る舞い方、戦い方だ。

 これが、画面の中と現実の違いなの?

 礫が見入る中、光の玉は少年の掌を離れると、その場を舞い始めた。ふわふわと、薄い一対の羽を広げた蝶のように──いや。それは紛れもない『蝶』だった。光の粉を散らしながら、蝶となった光の玉は礫の方へと近付いてきた。手を伸ばすと、それに応えるように指先すれすれの位置を何度も旋回しながら舞い踊る。

 そして、羽を大きく伸ばす。羽から零れる鱗粉もいつしか羽毛へと変化していた。

 蝶は、鳥になっていた。

 その丸みを帯びた体つきから礫が連想したのは、純白の鳩だった。

 鳥は彼女の周囲を回り、少年の元へと帰還した。彼が差し出した指先を止まり木にしてゆっくりと翼を折り畳み、──細かな光の粒子となって消滅した。

 【Lighting】は元々永続的な効果を持つ魔術ではない。効果時間が切れたのだろう。

「こんな風に、な」

 彼は唇を舐めながら、八重歯を覗かせた。

「ま。あんたにゃ、おれみたく言葉なしで魔術を扱うって芸当はできねぇだろうけどよ」

「……ボクを馬鹿にしてる?」

「そういう意味じゃねぇよ。無詠唱の発現能力はおれら『M』の固有能力って意味だ」

 礫が本気で機嫌を損ねたので、何処か気まずく思ったのだろう。肩を竦めて、言った。

「主人公と行動を共にする仲間、その役割を与えられた連中のことを此処では『M』って呼んでんだ。此処では、おれがあんた専属の『M』ってわけよ。やっぱ英雄にも、仲間ってぇのは必要だよな」

 『ネガイウタ』には、主人公と共に魔術師討伐の旅路を踏んだ仲間の存在がある。

 その仲間には「主人公を手助けする存在」以上の説明がない。イベント中には個性的な活動を披露し、己の考えを語ったりもするものの、基本的には主人公の命令通りに戦う以上の役割を持たないNPC的な存在である。

 通常は主人公の弱点を補う系統の能力を備えるように設定されているが、稀に突拍子のない能力を持った者に成長することもあるとかで、一時期その成長法則の発見に没頭するプレイヤーが多くいたものだった。

 これもゲーム通りなのかもしれないけど……助っ人がいる大会なんて聞いたことない。

 礫は目を瞬かせて、少年を見つめた。

 確かに彼は、博識で、礫以上の能力を備えているようだが──

「ま、そういうわけだ。仲良くやろうぜ?」

 と、疑問に思った通りのことを尋ねたところで、素直に答えてくれそうには到底思えない。

 意地悪っぽい笑みを浮かべつつ差し出される少年の右手を、礫は多少警戒しながらも握り返したのだった。

 今はとにかく、分からないことだらけだ。少なくともこの少年が敵対する存在ではないと言うのなら──もっとも、彼の言葉が全てそのまま鵜呑みにできるものではないのだが──これから先、此処での自分の立ち回り方を把握するためにも、彼とは行動を共にした方が何かと都合が良いことには間違いはない。

「さて……と、んじゃ行くか」

 礫の手を離し、少年はそれへと視線を向けた。

 此処に来た時からずっとその場にあった、黒い霞の出現点ともなった輝ける気流のある部分である。

 今は何かが出てくる様子はない。ただその場を気流が漂っているだけだ。

 それに向けて、彼は迷わず手を翳す。気流に紛れて姿を隠した『もの』に対して何かを呼び掛けるように。

「何処に?」

「始まりの場所。楽奏都市アルクレイドだ」

 礫の問いに、振り向きもせずひとつの名を答えとして返した。

 叶奏神器クインテット・カルバールを祀っていた場所であり、主人公の旅の出発点ともなった土地の名である。

「やるからにゃ、勝つぜ。そのために、あんたにゃおれ抜きでも戦い抜ける程度の力を持ってもらわなきゃ困るのさ。どんな名刀だろうが、使い手が素人じゃそいつは単なる棒切れだからな。使いもんになるように、おれが可能な限り鍛えてやる」

 少年の念に応え、輝ける気流が大きく流れを変える。

 これは扉なのだ。遠く離れた別の場所への道を繋ぐ、距離の壁を破る空間の穴なのである。

 やがて、光は中央から裂け、小さな窓を形作った。

 その向こうに広がるのは、此処とは全く異なる人の流れが存在する土地の風景だった。

 始まりの場所と名付けられ、数多の『主人公』が旅立っていった場所だ。

 そして、その窓に足を踏み入れながら思い出す。

 今まで自分たちが滞在していたこの洞穴が、一体何処だったのかということを。

 此処は──出会いの場所。主人公と、長い旅路を共に歩む仲間が初めて出会った場所だったのだ。

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