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鍵屋シリーズ  作者: 凪森
6/6

第5話  黄鍵 ―白い約束― 後編

後半にすこし、動物に対する残酷描写があります。




 犬は時おり後ろを振り返りながら、迷いない足取りで先を進む。チアキはその後を一定の距離を保ちながらついていった。犬の歩調は軽やかなのに、チアキはなぜか目の前の犬がとても儚く見えた。大きさは中型犬のそれなのに、前を行く背中はとても小さく哀愁を帯びて見える。

 行方不明になっている少女とよく遊んでいたと主婦たちは話していた。初めてこの犬を見たとき、その目には遊び相手を失った悲しさとはまた違う悲哀の色が浮かんでいた。


「……着いた先に、一体何があるんでしょうかねえ」


 辺りは段々と闇色に染まってくる。日は遠く西の方角に見えなくなり、外気の冷たさはいっそう増した。呟き一つにも吐息は白く濁る。

 やたらと歩道の狭い大道を進んで、やがて人家もなくなり、辺りは黒々とした木々に包まれ始めた。

 足先から感じる傾斜から推察するに、どうやら山を登り始めているらしい。ここまで来ると時間帯も影響してか、脇を通り過ぎる車も皆無になっていた。

 いつのまにか空には月が浮かび、辺りを青白く輝かせている。

 昼間には茶色く見えた犬も、今はぼんやりと薄白く見える。その影がふと道をそれて、整備されていない自然道へと入っていく。慌てて歩調を速め、チアキは後を追う。

 アスファルトから落葉と雪の積もった道へ入るとき、チアキはその脇に古びた看板を見つけた。

『危険・立入禁止』と書かれたそれは、丁寧に道の端の方へどけられている。奇妙に思いながらも、チアキはそのまま犬の後を追った。

 看板の内容にチアキはとりあえず足元を注意しながら進んでいると、ふとあるものに気がついた。


「タイヤの跡……?」


 点々と真新しい犬の足跡の両脇に、うっすらと一定の幅の溝が前方へ向かって続いていた。回りを囲む杉の木によって、あまり雪が道まで落ちてこないのだろう。ところどころ崩れ落ちた雪の山に消されながらも、そのタイヤの跡は薄暗がりの中でも判別できるほどには残っていた。



「これは……」


 眼前に広がった景色にチアキは思わず息を呑み、足を止めた。

 森を分け入るように伸びていた自然道はふいに途切れていた。いや、本来ならまだ先は少し続いていたに違いない。けれど今チアキの目の前には真っ白な雪の壁が出来上がっていた。


「……雪崩、ですか」


 まだ若い木々の枝が雪の中から救いを求めるように飛び出ている。

 雪の重みで潰され、流されて行った木もあるだろう。鬱蒼としていた杉の木も、この先は伐採されたのかもとから植えられなかったのか、視界は開けていた。

 呆然とその光景に佇んでいたチアキは、視界の隅でその雪の波に沿って山を下り始める犬に気がついた。


「まさか、この中を行くんですか……?」


 チアキは更に呆然とした。少々弱気になったその呟きにも犬は立ち止まることなく、器用に雪と土の見えている境を選びながら進んでいく。

 一瞬犬の後を付いて来たことを後悔しながら、チアキは渋々自らも山を下り始めた。




 そうして何分くらい雪の中を下っていたのか。ずっと前方でようやく犬がその足を止めた時、チアキは少なからずほっとした。ここまでよく足を滑らさずに降りてこられたと思う。進んできた道のりを振り返り仰いで、その傾斜にチアキは嫌な汗をかいた。

 重心のかけ方に慎重になりながら、犬の待つ場所まで辿りつく。どうやら山のかなり麓まで来ているようで、流れてきた雪は僅かに視線の先の方で止まっていた。

 チアキが側まで来ると犬は雪の匂いを嗅ぎ始めた。ひくひくと鼻を鳴らしながら、しばらく辺りを動き回っていた犬は、やがて一点の場所でしきりにくるくる回り始めた。


「どうしたんです?」


 不審に思って犬の方へ近づいた時、チアキは雪の中から覗くこの場に似つかわしくない物を発見してしまい、びくりと足を止めた。

 浩々とした月明かりの中に、雪の中から黒く四角い物体が突き出ていた。大きさは手の平ほど。

 そろそろと近づいて確かめると、最初に思った通り、その裏側は鏡になっていた。犬が雪を掘り始める。

 嫌な予感に襲われながら、チアキは犬の足元の雪を払った。雪はすでに硬くなっており、払っただけではその下に埋まるものは見えてこなかった。

 できれば自分の予感が外れることを願い、チアキはコートの袖をまくると今度は本格的にその場を掘り始めた。


 冷たさに手の先が痛みを伴い始めた頃、それまでとは違う硬さを感じてチアキははっとした。両手でその周りの雪を乱暴に削り払うと、透明なガラスが見えた。

 そしてその向こうに小さな手が見えたと思った時―――。

 犬が突然威嚇するように吠えるのと、チアキが後頭部に強い衝撃を受けたのは同時だった。鈍痛が頭の中に響き、振り返ることもできずにチアキはその場に倒れこんだ。

 遠くなる意識の中で、何度か犬が吠えるのを聞いた。




 ** + **




「……い……おい、起~き~ろ!」


 バコッっと音がして、その後ズキズキと頭が痛みを発し、チアキは否応なく意識を取り戻した。しばらく尾を引く激痛に体を硬くして沈黙していると、頭上からまたしてもやかましい声が降ってくる。


「いつまで寝てんだよ! 帰ってこないと思って探しに来てみれば雪ン中でお寝んねなんて、人をバカにしてんのか!?」


 きゃんきゃん喚くこの少年を、今日ほど憎たらしいと思ったことはない……相手の声が頭に響いてチアキは口を開く気にもなれなかった。鈍器で殴られたのか、後頭部がひどい痛みを訴える。ゆるゆると顔をあげると、翳みがちな視界の中、どっぷり更けた夜空を背に、銀玉がいかにも不機嫌そうに浮かんでいた。


「んで、あれは一体何なんだよ?」


 フンッと鼻息も荒く、銀玉が親指で指した方向を見る。

 少しずつ体の感覚が戻ってきたようで、チアキの耳に激しく吠え立てる犬の声が聞こえてきた。はっとして、一瞬でこれまでのことを思い出すとチアキは立ち上がった。

 軽くふらついたが、今はそれよりも確かめなければならないことがあった。意識を失ってから移動させられたのか、チアキは倒れた場所からは離れた所にいた。

 立ち上がって犬の声のする方へ進むと、黒い人影がスコップを持って雪を掘っていた。チアキが掘った時よりもだいぶ掘り進められ、今は白い雪の中から黒い車体の横腹がはっきりと見て取れた。

 やはり、とチアキは顔を歪める。一際大きな声で犬が吠え立て、唸りと共に人影に突進していく。


「うわっ……この、クソ犬がぁっ!」


 低めの上ずった声が苛立たしげにそう毒づき、持っていたスコップを振り上げる。そのまま犬に向かって思い切り降ろした。

 ギャン、と悲鳴を上げて犬は横へ吹っ飛んだ。

 見ていたチアキは目を見張り、飛ばされた犬の元へ走りよった。


「なんて酷いことを……!」


 ハアハアと息を切らしながら、それでも立ち上がった犬を横に抱き、チアキは怒りを込めて人影を見上げた。ベージュのコートを着、フードを被った小柄な男が、犬もチアキも無視して必死に雪に埋まった車のドア付近を掘っていた。その横顔をみてチアキは息を呑んだ。


「……坂上さんっ…なぜ!」


 かすれ気味のチアキの声に、男は怒りを露に振り向いた。そこにいたのはつい夕方、黄鍵を渡したあの客だった。


「それはこっちの台詞だ! アンタ俺を見張ってたのか!? 初めから知ってたのか!?」


 雪を掘る手を止めて、坂上はにじり寄ってきた。


「……何を言ってるんです? 私はこの犬の後をついて来たらここへ辿りついたんです。その車と坂上さんは……何か関係があるのですか?」


 じりじりと狭まる男との距離に、チアキは不穏なものを感じながらもしっかりと坂上を見上げた。


「失敗したんだよっ」


 坂上は忌々しげに吐き捨てた。開き直ったような、投げやりな口調で坂上はなぜかぺらぺらと喋り始めた。


「計画は完璧だったのに、アイツがこんなところで車を停めるから! いくら人通りがないからって雪崩に流されたんじゃあ元も子もないんだよ! 人の車を使いやがって……後始末に困るッたらない!」


 チアキは男の顔が醜く歪んでいくのを見た。口から飛び出すのは愚痴めいた汚い言葉ばかりだ。


「……あなたが誘拐、したんですか」


 チアキは立ち上がって震える唇で問いかけた。はっきり車体をあらわにしたドア窓の向こうに、人影が二つある。どちらも先ほどからぴくりとも動かない。

 一週間以上経っているのだと、看板を見て思った。影の一つは小さい。意識を失う寸前に見た手は、恐らくあの少女のものだったのだろう。


「そうさ! あいつと使い込んじまった会社の金をごまかすのに新しい金が必要だった。あいつの話に乗って組から借りたはいいが、そっちの方が数倍性質が悪かった。返さなきゃ俺が殺されるとこだった!」


 言い訳めいてきた内容に、チアキはふつふつと怒りがこみ上げてくるのを感じた。男は立ち上がったチアキに、手元のスコップを握り直した。


「ふーん。それで身代金目的に攫ったわけか」


 チアキの頭上からひとりのんきな様子で銀玉が口を挟む。坂上は頭に血が上っているのか、空中に浮かんだ銀玉にも顔色一つ変えなかった。もしかしたら見えていないのかもしれない。


「攫うところまでは完璧だったんだ。なのにアイツがこんなところを選ぶから! アイツのマンションにしようってあれほど言ったのに!」

「それで、あなたはどうして生きているんです?」


 激昂する男に、チアキは冷ややかに問いかけた。

 じっと見つめる先で、坂上は怯えたような歪んだ笑みを漏らした。その唇が震え始めていた。


「俺はちょうど車の外にいたのさ。凄かったよ! 目の前で車も木々も流されて行った! あと少し前の方にいたら俺も危なかった。下に下りようかとも思ったが、怖くなったのさっ。悪いか!? アンタだってあの場にいたら逃げ出すはずだ!」


 チアキは目を閉じて首を振った。


「幸いこいつも一緒に死んじまったから、荷物もマンションも売り払って何とか金は工面できたって訳だよ。もとから引き払うつもりだったからな。それだけは都合がよかった。でも俺の車はここに埋まったまんまだ! もし発見されたらアシがつく。それじゃあ困るんだよ」


 こいつ、と言いながら坂上は車の中を指さした。少女の奥、運転席側に男性がハンドルにもたれる形でうつ伏せになっていた。その頭部全体が茶色に変色した血に汚れていた。

 男は何も言わないチアキを横目に再び車体へ向き直った。そのときまた犬がチアキの足元から男に向かって飛び出した。止める間もなく、犬は男の腕に跳びかかる。


「……っこ、のっ!」


 キレた様子で坂上は腕を振り下ろし、足元に倒れこんだ犬を容赦なく蹴り飛ばした。悲鳴もあげずに先程よりも遠くへ吹っ飛んだ犬は、今度はすぐには起き上がらなかった。

 銀玉は男をぐっと睨んでから、倒れこんだ犬の元へ降りていった。


「坂上さん!」


 チアキは思わず感情のまま叫ぶが、目の前の男の手に握られた物を見て息を止めた。坂上はそれをためらいも無く鍵穴に差し込んだ。


「……やめて下さいっ!」


 悲鳴に近い声を上げて、チアキは男の手元へ飛びついた。

 何としてもこの鍵をかけさせるわけには行かない。そう強く思った。


「放せっ! 金払ってるんだから文句言うな! こんなもの作るアンタが悪いんだろう。俺みたいな人間がいることは分かってるはずだ。アンタだって片棒担いだも同じだろうが!」


 ズキリ、と。チアキの胸に傷が走った。愕然としてチアキは坂上を見上げた。男の腕を掴んだ両腕から力が抜けていく。目を見開いて、チアキは何も言えない自分に絶望していた。

 その隙に坂上はチアキを振りほどく。縋るような思いでチアキは後方の銀玉を振り返った。


「言っとくけど、オレは誰の味方にもならないぜ? 人間じゃないしな。オレは人様の素直な欲望に答えてやるだけだ。その欲望に対して選り好みはしない。人間次第ってことだ」


 ひどく冷めた眼差しで銀玉はチアキを見た。少年の言葉に坂上は勝ち誇ったような笑いを漏らし始める。その様子から彼にも銀玉は見えていたらしい。

 呆然として表情をなくしたチアキを、再び宙へ浮かび上がった少年は哀れむように見下ろした。


「チアキ……、お前はまだ人間の部分が強く残ってるんだな」


―――でも、そんなお前がオレは好きだけどな。


 切なげな瞳になった少年の言葉に、チアキは唇を噛んで立ち上がった。それに気づいた坂上が急いで鍵に手を伸ばす。チアキは地を蹴って男に飛びついた。そのまま一緒に雪の中へ倒れこむ。

 坂上の上に折り重なるようになったチアキは急いで身を起こし、車体の窓に飛びついて中を確認した。

 窓についた両手がぎり、と握りこまれる。ぶるぶると震え始めた拳でチアキは一度強く窓を打った。

 鈍い音がしただけで窓は割れなかった。坂上がドアに挿した鍵は消えていた。同じく、車内の二人の姿も消えていた。

 ようやく起き上がった坂上はチアキの後ろから車内を覗き込むと乾いた笑いを漏らした。


「ははは! 助かったよ! アンタ何でもできる鍵なんてないと言ったが、十分役に立ったさ!」


 これで怯える人生とはおさらばだ、と坂上は歓喜の声を残してその場から走り去っていった。

 ずず、と窓から両手が滑り落ちる。そのままそこへ座り込んだチアキは、目を見開いたまま低く呟いた。


「……銀玉」


 じっとそれを見つめていた少年はやれやれといった様子で地へ降り立つ。


「銀玉」


 両膝の上で再び両手を握りこんで、チアキはもう一度少年の名を呼んだ。それへ少年ははっきり答えた。


「だめだ」

「銀玉!」

「やめろ」


 いつもは冷静な青年が怒りのままに睨みあげてくるのへ、少年は静かに答えた。


「オレ達にもできない事はある。そうだろう? その悲しみを超える手助けが、お前の使命だろうが」


 少年の言葉にチアキは顔を背けた。銀玉の言葉はいつも自分が客たちに言ってきたものだった。

 坂上のような人間がいることは承知していた。自分たちにできない事があるのも十分に分かっていた。できることとできないことの区別には、苦しみがいつもついて回った。だから割り切ることが必要で、そうしなければ救うべきものを見失ってしまう。助かるものをみすみす両手から零れ落としてしまう。

 でも、現実はこんなに残酷だった。自分が鍵を手渡してきた人間が何にそれを使うのか、今まではあえて知ろうとしなかった。今思えばそれはただの逃げだったのかもしれない。これからもそれでいいのだろうか、とチアキは呆然とした頭で考えた。


 救ったつもりが、別の誰かを不幸にしている。本来ならありえない「力」で、ありえない不幸が誰かの身に降りかかっているのだとしたら。

 欲望に対して選り好みしない、と言い切った銀玉が今さらながらに恐ろしく感じた。チアキの知らない少年の生きてきた歳月を思う。彼には一体、この世界がどんなふうに見えているのだろう。どんな思いで日々を生きているのだろう。


 完全に力の抜けたチアキの元へ、その時よろよろと近づいてくる影があった。見ると片足を引きずりながら犬が何かを咥えてこちらへ向かってくる。

 チアキの元まで来て、犬は咥えていた物を足元に落とした。拾い上げるとそれは不思議な光彩に輝く鍵だった。犬の首元を見ると金色の鍵が無くなっている。チアキは手の中の鍵を改めて見つめた。様々な色合いの光を発しているが、鍵自体は金色をしていた。こんな鍵は見たことが無い。

 脇から銀玉が覗きこむ。チアキの何か聞きたげな視線に少年は肩をすくめた。


「どんな鍵になるかはこいつ次第だったからな。オレも初めて見た」


 チアキは手の中の鍵を一度ぐ、と握ると立ち上がった。足元から苦しげな息遣いの犬が、真摯な瞳でチアキを見上げてくる。それへ頷いて、チアキは金色の鍵を車の鍵穴に差し込んだ。

 迷い無くカチリと回すと鍵から猛烈な光の帯が溢れ出し、辺りを飲み込んだ。夜闇に慣れた目が悲鳴を上げ、チアキは腕をかざして顔を背けた。

 咄嗟にその場から離れたが、ぐっと瞑った目蓋を突き破って光は脳裏までを真っ白に染め上げた。忘れていた後頭部の痛みがじんじんと蘇ってきて、チアキはそのまま蹲った。


 どれくらいそうしていたのか、固く瞑った目蓋が痛みを伴い始めた頃、チアキはようやく光の洪水がおさまるのを感じた。ゆっくりと目を開けると、銀玉が「大丈夫か」と声をかけて来る。かすかに頷いてチアキは車のところまで戻った。

 そして―――窓の向こうに小さな体を見つけた。

 赤い服に赤いマフラー。看板に描かれていた少女がそこに居た。それを見た瞬間、取り乱したようにチアキはドアの取っ手を引いた。しかし鍵がかかった状態でドアはぴくりともしない。


「おいっチアキ!」


 銀玉が制止するより早く、チアキは振り上げた拳を思い切り窓ガラスに叩きつけていた。

 何度も叩きつけて、やがて窓にひびが入る。銀玉がやめろと制止してきたがチアキは無視した。バラバラとガラスの破片が車内へ落ち、腕を通せるようになった時にはチアキの右手は血まみれになっていた。

 窓から手を突っ込み内側から鍵を解除すると、チアキはドアを開け急いで少女の手を取った。脈をはかり、微力ながらもとくとくと反応のある事実にその場へ崩れ落ちた。

 温もりをもった少女の手を、チアキは万感の思いで握り締める。その後ろで宙に浮いたままの少年も驚きを隠せずにいた。


「………ありがとう」


 かすれた涙声でチアキが呟く。胸の奥から、なぜか感謝の想いが溢れていた。




 ** + **



 少女をシートから抱き上げ、車の外に出すと腕の中で小さな目蓋が震えた。そっとその場に膝をついて待つと、少女は苦しげに一度眉根を寄せてから、うっすらと目を開けた。焦点の合わない様子でチアキを見てから、少女はすぐ脇に視線を逸らし、嬉しそうに「あ」と呟いた。


「ファジー………約束、守ったよ。また会えたね。ファジー……ファジー? ファジー? 寝ちゃったの…? あたしもなんか眠い……」


 そこまで言って少女は再び目を閉じた。チアキがファジーと呼ばれた犬を見ると、彼は伏せった状態ですでに冷たくなっていた。初めに見たときよりもいっそう痩せて見え、坂上に傷つけられた部分からは血が流れていた。すっとその犬の脇に銀玉が降り立ち、その背を撫でた。


「お前……頑張ったな」



 その後少女を病院に運んで、事件は一気に解決に向かった。少女の証言から坂上の罪状は明らかになり、すぐに逮捕となった。彼は少女の父親の経営する会社の幹部だったらしい。時々少女の自宅に仕事で訪れた事もあり、面識があったようだ。だから怪しまれずに車に乗せられたのだろう。ファジーと呼ばれていた犬は名犬として報道され、公園には像が建つ予定だとか。






 悪夢のような夜が明けて、翌日の午後。

 チアキは珍しく店内の窓側の客席に座り、じっとテーブルを見つめていた。そのまま視線をそらすことなく、カウンターの上でふてくされたように寝そべる少年に問いかけた。


「あの鍵は……黄鍵と銀鍵が混ざったってことですか?」


 命を銀鍵に封じたと?


「……あいつの寿命はとっくに切れてたよ。初めにあの通りで会った時、もう死にかけだったんだ。それを繋ぐ役目で鍵を渡したけど、こんな結果になるとはな」


 チアキの問いに少年はとぼけたような口調で答えた。


「ごまかさないで下さい! こんな……こんなことができるのだったら、私は何の為に待っているんです!? 何年も何年もっ。蘇生が可能なら今すぐ『あの時』へ帰ってそのえを生き返らせて下さい!」


 抑えていた感情を迸らせ、チアキは銀玉を見つめた。取り乱したチアキとは反対に銀玉は冷静だった。

 カウンターから起き上がり、必死の形相でこちらを見つめてくる青年をじっと見つめ返した。


「無理だよ」

「無理じゃないはずです。現にああしてあの子は生き返ったじゃないですか」


 ごまかしは利かない、と睨み返すチアキに銀玉はため息をついた。


「オレが作った鍵じゃない。次もできるとは限らない」

「じゃああの犬に渡した鍵を私にも下さい!」

「千暁」


 それまでとは違う声音で名を呼ばれ、チアキは黙り込んだ。


「……仮にできたとして、それでお前の罪は消えるのか? お前がいつかの未来でそいつに鍵を渡した事実は残ったままだろ? それはお前が必死で止めようとした、あの男と同じ行為だ」


 自分の罪をなかったことにする行為だ、と責められ、チアキは呆然とした。


「お前だって、『あの時』へ帰ってそのえとまた一緒に生きたいんだろう? そいつが生き返ったところでお前が死んでてどうするんだよ」


 頭を冷やせ、と銀玉は諭した。


「これから先いつかそいつがお前の前に現れた時、鍵を渡すんじゃなく一緒に還るんだろ。自分の罪から命を代償にする鍵は作らないって決めたのはお前だったはずだぜ? それはお前自身にも当てはまる」


 銀玉はふん、と鼻を鳴らした。呆れたような、それでいて相手を包み込むような優しい眼差しがチアキを見つめる。


「だから待てよ。まだまだたかが二百年だ。お前の寿命はもっと長ぇよ。オレも一緒に待ってやっから」


 少年のそっけない口調で紡がれたその言葉に、チアキは視線を落とし、やがて目を閉じた。

 まだまだ甘ちゃんだな、と馬鹿にされたような気もしたが、不思議と怒りは感じなかった。どこか優しい彼の眼差しの中に、一瞬チアキはその内に秘められた孤独を見た気がした。




 ** + **




「―――この界隈も道が開きすぎたみたいですね。そろそろ扉を閉じましょう」


 チアキは鍵屋の扉を開け、その向こうの町を見つめながら呟いた。

 そっと店入り口の扉に吊るしたプレートを手に取り、「閉店」の文字を書きつける。再びそれを吊るすと扉を閉めようとして、ふと視線の先の少年と目があった。

 母親に手を引かれる形で通りを行く少年にチアキはにこ、と笑いかけた。そしてそのまま扉を閉じた。



 通りを母親と歩いていた少年はそれを見て声を上げた。


「ママー! ドアが消えちゃったよ! お店がなくなっちゃったよ!」


 母親は子供の指さす方を見たが、変哲もない古いビルの壁しかなかった。


「何言ってるの。あそこにはもとから店なんてなかったでしょ。さ、行くわよ」


 変なこと言わないでちょうだい、と母親はしきりに後ろを振り返る少年の手を引いて、通りを過ぎていった。

チアキの事情がわかりづらかったと思います…すみません。

彼は過去に大切な人を自分のせいで失い、それを覆すため、その人を失う原因となる「未来での出来事」を待っている――そんな感じです。


そして、書き終わっているのはここまでなので、以降更新は未定です。

…すみません(><) ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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