第4話 黄鍵 ―白い約束― 前編
序
「こらファジー! それはだめって言ったでしょ!」
ちらほらと雪が降り始めた寒空の下、元気な少女の声が響く。
ほんのり雪化粧した公園の木々の中で、赤い小さなコートがはためく。やはり赤色のマフラーをした十歳前後の少女が、片方だけ手袋をして公園の中を走り回っていた。
ウサギの模様入りのこれもまた赤い手袋の片方は、薄茶色の毛並みの中型犬、ファジーの口元だ。
「返してったら! それはママが編んでくれたあたしのお気に入りなの!」
そう言いつつも、少女の表情は楽しげである。
ひとしきり走り回ったところで、ファジーはトットットッと軽い足取りで彼女のもとまでやってきた。はぁはぁと息を切らしながら、少女は笑った。
「やっぱりファジーは足が速いね。みんなファジーのこと老犬ていうけど、そんなことないよね」
少女はいつも学校帰りにこの公園でファジーと遊んでいた。彼女の帰る方向には他に子供がいないからだ。こうしていつも遊んでいるが、ファジーはいつだって元気で楽しげである。
少女はファジーの背中をやさしく撫でた。座った状態でもファジーは少女の腰以上の背丈がある。
「……ファジーはひとりぼっちで寂しくない?」
少女は帰る家のことを考えながら、呟いた。落ち込んだようなその言葉に、ファジーは元気付けるようにその頬をぺろぺろと舐めた。
ファジーは野良犬だった。主人もいなければ帰る家もない。けれどやはりファジーはいつも楽しそうだ。
「そろそろ帰らないと、遅くなっちゃう」
パンパンとコートについた雪を払って、少女は返してもらったもう片方の手袋をはめる。また遊ぶと思ったのかファジーは嬉しそうな表情をしてハッハッと舌を垂らした。
「ちがうよファジー。帰るの。今日はこれでおしまいよ」
そう言うと意味が分かったのかファジーはしゅんとうな垂れた。少女が背中をさすってやると上目遣いに見上げてくる。
「明日も来るわ。約束する。ね?」
にっこり笑うとファジーはワンッと嬉しそうに鳴いた。
少女は安心して公園を出て行く。一度だけ振り返って手を振ると、ファジーはしきりにしっぽを振った。
ファジーは少女が見えなくなるまでずっと、名残惜しげな瞳で見送った。
** + **
久しぶりにチアキは買い物に出かけた。砂糖が切れたのと定休日だったから、たまには外に出ようという気になった。めずらしく銀玉もついてきた。
紙袋を抱えて、白く雪の残る道を行く。チアキの隣で銀玉は人目がないのをいいことにふわふわと浮いている。
「やっぱり外は気持ちがいいですね」
冷たい空気と閑散とした通りは、冬独特のどこか寂しげな気配があって、薄暗いランプの灯りの店内に慣れてしまったチアキには新鮮だった。
「そうか? オレはあったか布団の中の方がいいけどな」
面倒くさそうな顔をして、銀玉は頭の後ろで腕を組む。
「冬は雪で真っ白でつまらない。それに寒いし」
だから冬は嫌いだ、と銀玉はぼやく。
「私は好きです。雪って綺麗じゃないですか」
チアキは満足げに答える。
「そうかあ? 初めはいいけど、とけてどろどろになったのは目も当てられないぞ? 汚いったらありゃしない! ほら、ちょうどあそこだって……」
そう言いながら銀玉は前方を指差した。そこを見ると、
「……汚い雪、ですか?」
チアキはいじわるく銀玉を見上げた。チッと舌打ちをして、少年はふわりと地上へ降り立った。
「うっせーな。ちょっと間違えただけだろう! 何でこんなとこに犬がいんだよ」
電信柱の陰にうずくまっていたのは、全身が茶色に薄汚れた犬だった。積もった雪に埋もれるように臥せっているため、辺りの雪に溶け込んでしまって見える。
「冷たくないんでしょうかねえ」
動じた様子もなく、のんきな口調でチアキが呟く。
「野良がこんなとこで何してんだ? 人通りもあるのに……」
銀玉はつつ、とその犬の傍へ歩み寄り――彼も裸足である。しかしチアキは彼に温度感覚はあってもそれにより害を受けることはないことを知っているので、微塵の心配も抱いていない――顔をうずめて死んだように動かない犬の背に手をやった。
「おい。お前こんなトコで寝てっと風邪引くぞ?」
ぽん、とたたくとぴく、と耳が動いた。
のそりと顔をあげたその犬は、ひどく悲しそうな目をしていた。
「早く寝床に帰れよ。人間は野良にはきびしーからな」
保健所のことを言いたいらしい。チアキもまあ同感なので何も言わない。犬は銀玉の言葉にも反応を示さず、じっと二人を見上げている。
「ずいぶんとおとなしい犬ですねえ。人に飼われていたんでしょうか」
チアキの言葉に犬がぴく、と耳を動かす。じっとチアキを見つめてからゆっくりと起き上がり、臥せっていた場所から少し動いて公園入り口に設けられた看板の前に座った。
「……その程度の移動で人間から逃げられると思ってんなら甘ぇぞ」
犬の行動を見守っていた銀玉がキレたような口調で呟く。
「まあまあ。いざ危険が迫ったらちゃんと自分で逃げられるのでしょう」
野良歴も長そうですし、とチアキは銀玉を宥める。
「でもアイツ………いや、やっぱいいや」
ふと呟きかけて、銀玉はチアキを見上げてから言葉をとめた。チアキは僅かに首をかしげつつも、そろそろ行きましょう、と歩み出す。
犬とは反対の方向に道を曲がり、チアキと銀玉は帰っていく。その後ろで、犬はずっとそんな二人の背中を見つめていた。
** + **
カラン、と店の入り口のベルが鳴ったのは、チアキが買ってきた砂糖をちょうど専用の瓶に詰め替え終えた時だった。
銀玉は帰ってきて早々「用事を思い出した」と再び外へ出てしまい、店内にはチアキ一人だった。
入り口を見ると、薄暗いランプ灯りの静寂の中、乱れた呼吸を響かせてやつれた表情の男が立っていた。
くたびれた白シャツの上にベージュのコートをはおり、小さめの黒ぶちの丸い眼鏡をしている。どこか怯えたようなきょろきょろと落ち着かない目が、店の奥のカウンターごしにチアキを見つけてほっとした様子。
「あんたがここの店主さん? 何でもできる鍵を作ってくれるって……本当か?」
入ってきた時の慌てた様子とは違って、用心深そうな視線がチアキを探るように見つめてくる。
男の問いに僅かに眉をあげて、チアキはにっこり微笑んだ。
「店主は私ですが、何でもできる鍵は扱っておりませんねえ。それから本日は定休日でして……入り口に看板を掛けておいたはずなのですが」
鍵屋に来る客は大体二通りの方法でたどり着く。
一つは知らずに来てしまう。心に扉を抱えた者にしかこの店は見えないからだ。二つ目は人づてに来る、というやつだ。
一応商売なのでチアキは鍵屋の「扉」をいくつかの場所に開いている。
その商売の中心は主に白鍵となっている。いわゆる金のある人間が余興として楽しむ高価な娯楽として鍵を提供しているのだ。それが口コミで伝わって新しい客が来る事もある。客層を選ぶつもりはないが、そうして広まっていくと色んな客が入ってくるようになる。
目の前の客が果たしてどこの筋からここを知ったのか、チアキには知るすべもない。
しかし人づてに来る客は大体が悩みというよりも一時の快楽を求めてやってくる。この男もそうなのだろうとチアキは思った。
「すまない、看板は見たけれど急ぎの用なものだから。鍵を、鍵を作って欲しいんだ」
小走りで男は木製カウンターに寄り、そこに両手を置いてチアキを見上げてきた。
「……先ほども申し上げましたが、何でもできるというわけではございませんが? よろしければメニューをどうぞ」
落ち着いてチアキはカウンター上のメニュー立てを男の方へ向けた。男はかぶりつくようにそれを見、じっくりと最後まで読んでからばっと顔をあげた。
「これっ……この黄鍵ってやつがいい! ちょっと仕事で失敗してしまって、上司にばれる前に隠してしまいたいんだ。頼むよ」
哀願するような男の表情に思わずチアキは小さく笑ってしまった。どうやらそれなりの悩み事を抱えた客であるらしい。切羽詰ったような様子にいったいどんな鍵を作れと言われるのかと思ったが、案外小さな仕事で済みそうだった。
「黄鍵ですね。それでしたらご提供可能です。本日すぐにお渡しする事はできませんので、注文を承る形でよろしいですか?」
苦笑気味にチアキがそう返すと、男はどっと肩の重荷を下ろしたようなため息をついて、ようやく笑顔を見せた。
「助かった……本当に助かったよ! これで俺は一生びくびくしなくて済む。ありがとう、本当に」
気が落ち着いたのか、男は自分が立ちっぱなしだったことに気づき、そそくさとカウンター前の高椅子に座った。
「それで、お代はいくらくらいになるのかな……?」
目の前に座られては紅茶を出さずにいられない。
結局定休日にも関わらず、チアキは鍵屋と喫茶店の両方を営業する羽目になった。
男――坂上というらしい――が帰った後、入れ替わりのように銀玉が戻ってきた。坂上から受けた注文をチアキが告げると、珍しく銀玉は嫌そうな顔をした。
「さっきデカイの吐いちゃったんだよね。今日は無理。明日作るから」
それだけ言ってさっさとカウンター上に置かれている自分の寝床である銀色の球体の中へと消えていく。
吐く、とは聞こえが悪いが銀玉が鍵を作ることで、実際口から吐き出すわけではないが、彼自身から生み出されることは事実である。
「まあもとから定休日ですし問題はないですけど……やたらと外では吐かないで欲しいですねえ。何か問題になっても困るんですから」
あっさりと眠りについてしまった少年に、チアキは独りごちる。
こうして銀玉が商売に関係なく鍵を作ることは前から度々あった。半々くらいの割合で鍵に助けられた人間は、その後なんでも鍵に頼るようになり、その都度チアキが説得していた。
今までのところ大きな問題にはなっていないが、鍵の力に魅了された人間をそこから解放するのはかなりの労力を要するのだ。
「しかしデカイのって……一体何を吐いてきたんだか」
さっさと眠ってしまうところからして相当力を使ったようである。
今度も何事にも発展しませんように、とチアキは心の中で小さく祈った。
** + **
数ヶ月に一度、店には黒スーツの男が訪ねて来る。
落ち着いた雰囲気の店内に全く馴染まない、鋭い顔つきの無口な男である。
「ああ、そういえばそろそろそんな時期でしたねえ」
店に入っても隙の無い所作で、男はカウンターまでやってきた。
「組長が外でお待ちです。ご同行願います」
有無を言わさぬ口調でそれだけ告げる。
チアキは相変わらず無愛想で型どおりの流れに苦笑しつつも快く頷いた。
「――今回のご注文は承りましたが……高木さん、前回の契約は確か四か月分で鍵二十本のはずでしたが?」
車で連れて行かれた先のホテルの最上階、スイートルームでチアキは目の前のホテルのバスローブを着た初老の男を、テーブル越しに見上げた。
視線の先で高木と呼ばれた男は煙草を燻らしながら口の端で笑った。
「おや、そうだったかね? そりゃ悪かった。部下のモンが無くしちまったんだろう。何本足りない?」
「一本です」
チアキの答えを聞いた途端、高木はふうーっと煙を吐き出し、首を振った。
「二十のうちのたかが一本? 取り立てて文句言うほどのことでもねえだろう。使っちまった鍵は何の役にも立たねえと言ったのはあんただったが?」
高木はにやにやといやらしい笑みを絶やさない。チアキはしばらく男を黙ってみつめ、そして諦めた。
「分かりました。とりあえずこちらの十九本を回収させていただきます。残りの一本も見つけましたら店の方に届けて下さい。使い物にはならなくても無用な難を引き寄せることはありますので」
チアキの言葉に高木は嬉しそうに分かったと頷いた。そんな男に内心チアキは落胆した。しばらくのつきあいになるが、結局この男も今までの者達と変わらなかったということだ。
「では……鍵ができましたらまたご連絡させていただきます」
チアキは帰りの送りを断ってホテルを出た。
外へ出た途端、肌寒い風に吹かれて思わず首を引っ込める。背後のホテルを見上げながら、高木との契約はこれが最後になるのだろうと思った。
車ですぐの距離も歩くと意外に遠かったりする。マフラーを持って出なかったのが悔やまれるような寒風の中、ようやく見覚えのある道まで戻ってきた。
「――またいたのよ、あの犬。全く保健所は何してるのかしら!」
信号待ちで立ち止まったチアキの耳に、すぐ脇の主婦達の会話が飛び込んでくる。
その内容におや、とチアキはそちらの方を見る。
「この間も噛まれたって人がいたらしいわよ。ほんとに危ないったら」
主婦は三人組で、買い物帰りのようだった。そのうちの二人が苛立った様子で話していた。
「あの犬結構前からいるけど、以前はそんなことしなかったのにねえ」
最後の一人が落ち着いた口調でそう呟く。
「あら、そうなの?」
「そう、もうずいぶんいるわ。ほら、この間の事件の子……あの子とよく公園で遊んでたみたいよ」
僅かに声をひそめて一人がそう言うと同時に、信号が青に変わった。
井戸端会議とはよく言うが、主婦達の会話は道を横断中も絶えない。そんな彼女達に苦笑しつつ、チアキはあの犬、という言葉にひっかかっていた。
道路を渡りきった正面を右に折れて、チアキはつい先日銀玉と買い物帰りに通った道へ入る。相変わらず人通りの少ない道をゆき、公園の前まで来たが、電信柱の陰にも看板の前にもあの犬はいなかった。
「捕まったってことでしょうかねえ」
何となく淋しい気持ちで辺りを見回してから、チアキは看板を見た。その視線に翳りが入る。
「……行方不明、ですか」
看板は警察が立てたもので、八歳の少女の目撃情報を求めていた。いなくなってからすでに一週間以上が過ぎている。かわいそうに、とチアキが小さく呟いたとき、脇の茂みからガサリと音がした。
視線をやるとあの犬がこちらへ向かって歩いてくるところだった。
「ああ、無事だったんですね」
以前よりもやつれたように見えるが、不思議と足取りは前よりもしっかりしている。
チアキの足元まで来ると、犬はじっと見上げてきた。
「保健所に連絡されているみたいですから、早めに別の場所へ移った方がいいですよ」
果たして通じるかは分からなかったが、それだけ伝えるとチアキは踵を返した。
帰ろうと一歩踏み出しかけたのを、ぐい、と引き止める力があって、チアキは驚いて振り返った。引き止めるだけでなく、その力はある方向に引っ張っていこうとする。
「こら、およしなさい。そんなことをしては駄目です。本当に処分されてしまいますよ」
主婦達の言っていた言葉を思い出す。犬はチアキのコートの裾を咥えてぐいぐいと引こうとしていた。放させようと手を伸ばした時、チアキはその犬の首に小さな鍵がさがっているのを見つけた。
銀玉が生み出すものとよく似た造りだが、それは金色をしていた。茶色く汚れた毛並みの中で、キラキラと澄んだ輝きを放っている。
「さて……金鍵なんてありましたかね」
よく似た別物ということかもしれない、とチアキは深く考えなかった。
何とか犬の口からコートを放させた頃には、すでに唾液と歯形でよれよれになっていた。思わずため息をついてチアキはその場を後にした。
** + **
坂上は指定した時間よりも早くやってきた。最初の時と同様、走ってきたのか僅かに呼吸を乱していたが、その表情はどこか晴れやかだった。
「こちらが黄鍵になります。どうぞ」
チアキはカウンター上から緋色の布に載せた鍵を坂上の方へ出した。黄鍵とはいえ、どこかオレンジがかった濃い色をしている。それを見て坂上は興奮したような笑みを浮かべた。
「つ、使い方はっ? どう使えばいいっ?」
意気込んで訊いてくる相手にチアキは苦笑しつつ、型どおりの説明を始める。
「封じる対象によって異なりますが、どの場合も鍵穴の存在が必要です。対象が物体的であれ、形のないものであれ、何かしらの箱に入れた状態で、こちらの鍵を使って施錠していただければ完了です」
「箱……?」
チアキの説明に男が目を細める。
「はい。箱と言っても木箱や金庫でなくともよいのです。例えば人の記憶を封じるのでしたらその人を部屋に入れて、部屋の鍵をしめればいい。もっと大きなものでしたら、鎖で囲んでそれに鍵をするのでも結構です。要は対象を捉えた状態で鍵をすればいいということです」
封じるものが何なのか客によって全て違う。やり方に困ることがあるのも事実だ。しかしそこは工夫次第である。チアキはまだ不安そうな坂上の顔を見て一言付け加えた。
「仕事での失敗をなかったことにするのでしたら、仕事場の部屋の鍵を閉めればよろしいかと。当店の鍵はどの鍵穴にも合うようつくられております」
チアキがにっこり微笑むと坂上はようやく不安の色を消した。
しかし上目遣いに今一度チアキを見上げ、探るような視線を向ける。
「どの鍵穴にもって……例えば車にも合うのか?」
「ええ。鍵をするための穴でしたら大丈夫です。自転車の鍵にも鎖せますよ」
チアキの言葉に坂上は感心したように頷く。それから黄鍵を持ち上げて、しげしげと眺めた。
「分かった。……ありがとう」
ほっとした様子の男にチアキは微笑を浮かべ、最後の紅茶を出した。坂上はその一杯を飲み干すと代金を払い、軽やかな足取りで店を出て行った。
彼が出て行ったと同時に、カウンターの隅の銀の玉からすうっと少年が現れる。
「あー腹減ったよ。高木のジジイの鍵返って来たんだろ? 食わして」
今まで昼寝していたらしい銀玉は、カウンターに両腕を載せてだらけた調子でそうせがんだ。
「はいはい。私の鞄の中にあります。ご勝手にどうぞ」
カップを洗いながらチアキは適当に答える。使用済みの白鍵はこの銀玉のおやつになる決まりだった。ちなみに黒鍵はチアキの趣味で蒐集されている。
嬉々として店の奥に向かおうとする少年に、チアキはふと思い出して呼び止めた。
「そういえば、あなたあの犬に鍵をあげました?」
「あの犬?」
チアキの言葉に少年はきょとんとした。
「先日の買い物帰りに見たあの犬です」
「ああ、あいつね。うん、やったよ。なんか……必死な願い抱えてるみたいだったからさ。それが何なのかまではわからねーけど」
それがどしたの、という表情で見上げてくる少年に、チアキはそうですかとだけ返した。そのまま黙ってしまった青年を銀玉はいぶかしみつつも空腹を満たすべく奥の扉の向こうへ消えていった。
「必死な願いねえ……」
独りごちるチアキの表情が僅かに曇った。
結局気になってチアキは洗い物を終えると再び店を出た。
ひどく悲しい瞳をしていた。何を待っているのか、あの公園にずっといるようだった。それから主婦達の会話。あの事件の子とよく遊んでいたと、そう話していた。
そしてあの看板。それらが意味するものは?
チアキの足は知らず速まる。日が傾き始めた外の空気は先程よりも冷たい。今度はしっかり持ち出したマフラーをぐい、と顎上まで引く。
公園に着くと、珍しく騒がしいことになっていた。
「そっちだ! 今追い込むから今度こそちゃんと捕まえてくれよ!」
ブルーの作業服を着た男性二人が、公園の中で大きな網を抱えて走り回っている。
ガサガサッ、と茂みから茶色い影が飛び出す。
「今だ! 押さえろっ」
チアキに背を向けた状態の男性が声を張り上げた。
咄嗟にチアキはその間へ駆け込んだ。
「待って下さい!」
網を振り下ろそうとしていたもう一人の男性は突然現れた第三者に驚いて、一瞬の差で目標を逃がした。
「何ですか、あなたは!」
業務を邪魔された保健所の職員は不満を隠そうともせずにそう詰問してくる。
「あの犬は私が引き取ります。ですから処分なさらないで下さい」
その言葉に職員二人は初め眉根を寄せて不審そうにチアキを眺めたが、やがて網を持つ手を降ろした。
「つまり、あなたが飼うってことですか?」
「はい。今から連れて行きます。ですから後は私に任せていただけませんか」
そこまで言うと男性二人は互いに顔を見合ってから頷いた。あの犬を捕まえようと苦労していたらしいことはチアキにも窺えた。面倒な作業が減って内心はほっとしているに違いない。
「分かりました。じゃあよろしく頼みます。なかなか捕まらなくて、困っていたのです。近隣の人からは苦情が来るし……飼い主ができるならあの犬にとっても幸せでしょう」
降って湧いた幸運に胸をなでおろした様子で男性二人は公園から出て行った。
どこに逃げ込んだのか、公園を見回しても犬の姿は見えない。しかし気配だけは感じるのでまだ近くにいるのは確かだった。チアキは公園前の看板のところまで戻った。
「もう大丈夫ですよ。おいでなさい。あなたに聞きたいことがあるのです」
静かに気配の感じる方へそう呼びかける。しばらくしてガサリ、と遊具脇の茂みからあの犬が顔を出した。辺りを警戒しながらゆっくりとチアキの元までやってくる。じっとその犬を見つめ、足元に座ったところで頭を撫でてやる。首もとの鍵がキラキラと揺れていた。
目の前の看板に視線を移し、チアキはその内容をもう一度読み返す。そして再び犬に向き直り、言葉通じぬ相手に問いかけた。
「あなたは何かを知っているんですね?」