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鍵屋シリーズ  作者: 凪森
2/6

第1話  黒鍵



 目が覚めると彼がいませんでした。

 早朝のぼやけた白い光が薄いレースのカーテンから漏れて、二人で寝るにはちょっと狭いベッドの上の毛布のしわに淡い陰翳を落としていました。

 彼がいないのになぜ自分は起きたのだろうと、まだはっきりしない頭でぼんやりと思いました。普段ならいつの間にか起きだしている彼が、お気に入りのハーブティーを煎れて「おはよう」とやさしく起してくれるのです。

 むくりと半身を起こして部屋の入り口に目をやると、僅かにドアが開いている事に気付きました。

 そしてその向こうで、私を現実へと呼び覚ます、電話のベルが鳴り響いていました。



 ** ** ** **



「延長ですか……?」


 白シャツに黒ベストを着た端正な面持ちの青年は、銀縁の鼻眼鏡をちょいと右手で直して、少し困ったような顔をした。


「できませんか? 高くなってもいいんです。あと一日だけでかまいませんから……」


 木製のカウンターに手をついて、私は必死に頼んだ。

 すこし声が震えているのは自分でもわかった。でも店内には今、私と青年のほかに誰もいない。多少取り乱していたって、かまわなかった。


「そうですねえ。出来ない訳じゃありませんが……少々問題がありまして」


 私の様子にも特に態度を変えることなく、青年は眼鏡の奥の黒い瞳を細めて苦笑する。


「あなたのように延長を望まれるお客様のほとんどが、そのままお戻りにならないのです」


 何気なく言われたその言葉に、胸がずきんとした。


「あの……そういうことも、できるんですか?」


 知らず、そう尋ねていた。無意識に右手で胸のあたりをおさえこむ。

 そんな私を見て、青年は一瞬しまったという顔をした。

 そしてきまり悪げに目をそらすと、はぁと溜息をつき、そのままドライフラワーの吊り下がる天井を見上げて「困りましたねぇ…」と呟いたのだった。



   *



 この『鍵屋』を見つけたのは本当に偶然だった。

 当てもなく、何も考えられない状態でふらふらと歩いていたら、いつのまにか目の前にこの鍵屋の扉があったのだ。

 最初は行き止まりの壁かと思ったのだが、顔を上げてみるとちゃんとしたお店の扉だった。

 ただおかしかったのは全然鍵屋らしくない店構えと、ウインドウに書かれた「鍵屋」の字が全く裏返しだったことだ。内側からみて作ったからなのか、鍵屋の字は外から見ると鏡文字になっているのだ。これでは中からしか読めない。

 変な店、と思いながらウインドウ越しに中を覗くと、程よく古ぼけた木製のカウンターと数脚の高椅子、それから天井に吊り下げられたいくつものドライフラワーが見えた。

 窓の手間はいくつかボックス席もある。内装を見る限り喫茶店としか思えなかった。きっと「鍵屋」という店名なのだろう、とぼんやり思った。

 べつに休憩したかったわけでも、この店に興味が湧いたわけでもなかった。それなのに、私は知らず目の前の扉に手をかけ、中に足を踏み入れていた。

 カラン、と扉についていたベルが鳴る。

 店内は至って静かだった。人影といえば、カウンターの隅にせっせと布で何かを磨く、黒髪の青年が一人いるだけだった。

 その彼はふとこちらに気づき、かるく目を見開くと、


「これはまた………難しそうな扉ですねぇ」


 訳の分からない事を呟いた。

 彼が手を休めて手の中のものをカウンターに置くと、ベージュの布の中から銀色の球体が現れた。

 店内を照らす、オレンジの淡い光を反射してそれは金色に光っていた。私がその玉に見とれていると、青年はついと銀縁眼鏡を持ち上げて、やさしい声で問い掛けてきた。


「さて、どんな鍵をお望みでしょう?」


 私はその問いに対して、なんと答えたか覚えていない。

 ただ、彼がいないということ、彼に会いたいということを呟いていた気がする。





「ではこうしましょう」


 それまでずっと考えこんでいた青年は、うんと一つ頷きそうきりだした。


「延長はしません。もとから深園(みその)さんの(キー)は七日間が限度に作られていますし、それ以前に今回は特別なケースなので延長は難しいのです。そのかわり新しく作ります」


 青年はつづけて、その新しく作る鍵についての説明を始めた。


「初めに説明したと思いますが、当店で扱う鍵は全てお客様によって作られます。お客様の願望や夢を糧に鍵が生成されるのです。つまり、言ってしまえば扉の向こうの世界は全て偽りなのです。お客様にとって都合のいい、この上なく希望に叶った世界なのです。自分の心に閉じこもる行為とも言えますね。……これが、先日お渡しした『白鍵』。そして新しく作るのは『黒鍵』と呼ばれるものです。本来こちらの方が当店の本業なのですが、あまり注文は来たことがありませんねぇ。この玉を使って生成するんですよ」


 そう言って青年は初めに会った時せっせと磨いていた、あの銀の玉を右手にかかげた。

 黙って頷いてその玉を見つめていると、


「深園さん。黒鍵は白鍵とは違って、その扉の向こうはお客様の心とは無縁の世界です。あなたの望む世界があるわけではない。そして、どこかしらで必ず現実世界と繋がっています」


 諭すように、静かに青年は話した。私はゆっくりと彼に視線を戻した。


「あなたにとってこれは辛い結果になるかもしれない。それでも、いつか必ずあなたはその時を迎えなければならない。私はせめて、その辛さを和らげるよう、手助けをしたいのです。だから、黒鍵のお代はいただきません」


 青年は銀色の玉を下ろすと、カウンターの端にあるやわらかなクッションの上にそれを置いた。


「……彼と会って、今までの事、今のあなたの気持ち、そして彼への思いを全てお話しなさい。色んな話をして、色んなところへ行って、たくさん楽しんで……最後に彼から話してもらうのがいいでしょう」


 青年は何を、とは言わなかった。

 私も訊かなかった。ただ頷いた。



 ** ** ** **



 黒鍵を作るのには材料が要った。

 鍵屋の青年はあれこれと彼についての質問を繰り返した後、最後に彼の一番好きなものを訊いてきた。


「すごく、ハーブティーが好きでした。ミントをたくさん入れるんです。ちょっと鼻につんと来るような。いつも朝はそれでした。私にも煎れてくれて……ミントがよくきいて目が覚めるんです」


 言いながら彼のやさしい笑顔を思い出して、ふっと口元に笑みが浮かぶ。心の奥がぽうっと温かくなった。


――おはよう。もう朝だよ。ほら、君も好きなハーブティーを煎れたよ。起きておいで……。


 彼はいつも私より先に起きて、私を起さないように静かに湯を沸かし、足音にも気を遣って私の眠るベッドまで、煎れたてのハーブティーを持ってきてくれるのだ。

 私はかすかなミントの香りにゆっくりと眠りから引き上げられ、彼のやさしい声で初めて瞼を開ける。

 そこから私の朝が始まるのだ。


「深園さん、それは彼からのものですか?」


 青年が突然カウンターからずいと身を乗り出して訊いて来た。


「え?」


 ぼんやりしていた私は何の事だか分からなかった。


「その指輪です」


 すっと青年は私の右手を指さした。

 右手の薬指には、シンプルなシルバーの指輪が光っていた。


「……はい。彼がくれました。来月に結婚しようっていって……式は高くて無理だけど、ドレスも着れて写真も撮れるお店を予約したからって。私嬉しくて、すぐにつけちゃった」


 青年はそうですか…と穏やかに答えて、少ししてからまた言った。


「その指輪をお借りする事は出来ませんか? ちゃんとお返ししますので。黒鍵には是非とも必要なように思えるのです」

「これを、ですか……?」


 私は戸惑った。でも、鍵屋の青年は凄く真剣な()をしていた。

 しばらく薬指の上で冷たく光る指輪を見つめてから、私は答えた。


「じゃあ……お貸しします」



 数日後、鍵屋から電話が来た。

 黒鍵ができたという。

 何気なくカレンダーに目をやると、いつの間にか新しい月に変わっていた。はがした覚えはないが、最近の自分の行動に私は自信がなかったから、多分いつものように無意識のうちにやったのだろうと思った。

 私は今日がいつだかも覚えていなかった。

 ただ、彼がいなくなってからもうだいぶ経つのは分かる。

 もう一度カレンダーに視線を向けたとき、ふと赤い印が目に付いた。

 五日。

 赤く花模様にかこってあって、その下に、

 (きょう)ちゃんと結婚―――と書いてあった。



 ** ** ** **



 鍵屋に行くと、いつものように黒髪の青年が静かな表情で待っていた。


「これが黒鍵です。使い方は白鍵と同じです……どうぞ」


 カウンターの上で小さな白い布を私の方へすべらせる。

 二つに折られたその布をめくると、中に小さな鍵があった。

 黒鍵はあの銀の玉から作られたとは思えないくらい、黒かった。まるで黒曜石のように黒光りしていた。

 私はゆっくりと鍵を手に取った。じっと見つめていると、ふいに不安がこみ上げてきて、手が震えだした。

 多分、これで最後なんだと思った。

 彼にはもう、この後は会えないんだと、唐突に理解してしまった。

 もうあのやさしい声を聴くことも出来ないのだ。ハーブティーを入れたよ、と私を起してくれる人はいなくなるのだ。

 私にはもうこの先、朝がやってこない。彼の居る朝は訪れない。

 二度とだ。

 ……彼はどうしていなくなったんだろう。

 初めに何度も問い掛けた疑問を今また繰り返す。そればかりが気になった。突然すぎる永久の不在に私は耐えられなかった。心がきりきりと締めつけられる。心臓が痛みを伴って鼓動を打つ。


「行けば、分かりますよ。彼に会って教えてもらいなさい。きっと彼も今、同じ気持ちでいるはずです」


 青年は見守るような眼差しで私を見、そっと背中を押した。よろけて一歩前に足を出す。

 振り返ると青年は頷いて、軽く手を振った。

 つくんと胸の奥が痛くなった。ぎゅうと胸の前で左手を握り締め、私は鍵屋の扉の前へ立った。

 震える手を必死に抑えて、ドアノブの鍵穴に黒鍵を差し込む。

 カチ、と音がして鍵がまわる。

 そっと押すと、扉は静かに開いた。

 白い光が漏れてくる。朝の、あのぼやけた光だ。

 私は中へ入って、後ろ手にそっと扉を閉めた。


 彼女が扉の向こうへ消えてから、鍵屋の青年は一人呟いた。


「どうか……最上の一日を」



 ** ** ** **



 そこは彼と私の部屋だった。

 いつも二人で朝を迎えたあの部屋だった。

 でも、ベッドの上には誰もいなかった。静かに視線をめぐらせると、部屋のドアがあの時のようにわずかに開いていた。

 けれどその向こうからき聞こえてくるのは電話のベルではなく、やかんの沸く音とちょっと調子の外れた鼻歌。

 私はドアの方へ歩み寄り、ゆっくりとドアを開いた。

 そこはリビングだ。

 白いカウンターキッチンの向こうに、ようやく私は切に望んだその姿を見つけることが出来た。

 しわのよった薄いブルーのパジャマ。

 寝癖のついた栗色のやわらかい髪。

 そして調子外れの鼻歌。

 懐かしい背中がそこに在った。


―――彼が居た。



   *



「京ちゃん」


 唇に慣れたその名を口にする。

 ぴく、と彼の肩が動いて、静かに振り返った。


「深園……」


 彼は最初凄く驚いた顔をして、それから何かを言いかけて、やめた。


「起こしちゃったか?」


 いつものやさしい笑顔だ。


「ううん。なんか、目が覚めちゃった」


 私も久しぶりに笑った。

 京ちゃんはそうか、と言った。


「深園、今日は出かけよう。深園の好きなところへ行こう」


 どこがいい? と訊いてきたので「公園」とだけ答えた。

 私は彼と一緒に居られれば、どこでもよかった。




 平日の公園は閑散としていた。

 スズメの鳴き声が小さく聞こえていた。

 彼はゆっくりとした足取りで、公園の中を進んでいく。その背中を見るのが好きだった。

 彼はやさしいから、時々私がちゃんとついて来ているか、疲れていないか、振り返る。私はそんな彼に大丈夫、と微笑み返す。

 まだ少し肌寒い朝の公園には、澄んだ空気が流れていた。


「緑の匂いがする」


 彼が立ち止まってすう、と大きく息を吸った。


「ほんとだ」


 私も彼の隣に立って、早朝の木々の間に流れる自然の匂いを嗅いだ。落ち着いた時間が流れていた。

 それからお気に入りの喫茶店に行って、他愛のない会話をした。軽く朝食を取って、その後図書館へ行った。

 彼は本の匂いも好きだと言った。ずっしりと天井まで並べられた本に囲まれていると落ち着くのだそうだ。

 私も図書館のしんとした静寂と、懐かしいようなつんとした本の香りが好きだった。

 彼は詩集を一冊手にとると本棚を離れた。

 二人でしばらく一緒にその本を読んだ。





 午後になると、彼の部屋へ戻った。

 お昼にスパゲッティが食べたいと言うのでコンビニへソースを買いに行った。

 彼は肉もアサリも駄目なのでナポリタンを買った。

 部屋に着くともうパスタが茹であがっていた。


「ソースを温めてる間に冷めちゃうよ」


 私が言うと彼は困ったような顔をしてごめん、と謝った。


「油で和えておいて。急いで茹でるから」


 そう言うと彼はぱっと明るい顔になった。



   *



 映画を見て、感想を言い合った。ゲームをして熱くなって、終えた時に二人とも肩で息をしていたので同時に吹き出した。

 彼は私の笑う声が好きだと言った。


 夜になって、自然と会話が少なくなった。

 彼も私も、夜は静かな方が好きだ。

 でも、この静寂はそれとは違うような気がしていた。

 言いたい事があるのに言えない、重苦しい沈黙みたく思えた。彼はじっと私を見つめている。

 ひどく切ない眼差しだった。

 その視線に耐え切れなくて、私はTVのスイッチを入れた。直後、静寂は破られて、ちょうど放送していたニュースのアナウンサーの、無機質で抑揚のない声が辺りに響いた。

 ニュースはいくつかの事件を報道した後、天気予報に入った。

 予報士の話は聞かず、ただ画面を見つめていた。

 私は彼の沈黙が怖かった。

 ふと視線を下げると、画面の右下の、「今日5日」という文字が目についた。

 私は目を見開いた。遅れて―――心臓が止まりそうな衝撃に襲われた。

 直後、彼が慌てた様子でTVを消した。


「京ちゃん……っ」


「深園」

「今日はっ……今日は5日なの?」

「深園」


 彼は落ち着かせる様に私の名前を呼んだ。でも、私は混乱していて、ただ首を振ることしか出来なかった。


「今日は、私達の結婚式じゃないの!?」


 だって、カレンダーに書いてあった。他ならぬ、私の字で、5日のところに「京ちゃんと結婚」と書いてあったのだ。


「予約は? 何時から……っ? 間に合うの!? 大丈夫なのっ!?」


 取り乱して、彼に縋りついた。泣きそうになった。

 どうして気づかなかったんだろう。なんで気にも留めなかったんだろう。こんなに大切な事を……すっかり忘れてしまっていた。


「ねえ、京ちゃんっ……」


 ふるえる声で、叫ぶように彼の名を呼んだ。


「……大丈夫だよ」


 彼の胸元をつかむ私の手に、そっと自分の手を添えて、彼は言った。低くて、落ち着いた声だった。

 困惑した眼差しで彼を見ると、穏やかな微笑がそこに在った。


「見てごらん」


 そう言って彼はおもむろに胸ポケットから何かを取り出した。やさしく私の手を取って、それを手のひらの上にのせた。

 それは、銀色の指輪だった。

 内側に、from Kとある。

 まぎれもなく、彼から貰ったあの婚約指輪だった。


「どうして…」


 あまりの事に、頭がついていかない。真っ白になった脳裏に、かすかに鍵屋の青年がよぎった。


「手を出して」


 言われるままに、左手を差し出した。

 彼の暖かい手がそれをとって、ゆっくりと私の薬指に指輪をはめる。

 その動作を見ていると、急に胸が(つか)えた。

 嬉しい気持ちと、なぜだかとても悲しい気持ちが入り混じっていた。


「深園を愛してるよ」


 やさしい、やさしい彼の声がはっきりとそう言った。

 その瞬間に、私の心臓が初めて熱を持って動きだした。どくんどくんと、温かい血を送り始めた。


「ずっと忘れないよ。君は僕の、生涯でたった一人の妻だよ」


 言いながら、彼は私を抱きしめた。

 今までのどんな抱擁よりも、強くて切なかった。

 彼の想いがそこに表れていた。

 私は静かに涙を流した。

 もう涸れたと思っていた涙が、とめどもなく流れた。


「京ちゃん…京ちゃん……」


 どうしていなくなったの。

 どうして私を置いていくの。

 心に溢れた思いに突き動かされるように、彼の首に腕を回してしがみついた。嗚咽がこみ上げてきた。

 彼の体温が、凍った私の心を解かしてゆく。

 彼は背中にまわしていた手をそっと解いて体を離し、両手で私の顔を包み込んできた。

 少し悲しそうな表情。どこかやつれたような輪郭。

 やわらかい栗色の前髪。

 多分、少し伸びた。

 彼はじっと私の瞳を見つめ、それから静かに言った。


「深園。君は……死んだんだ」



 ** ** ** **



 彼の誕生日だった。

 どうしても手作りのケーキにしたかった。

 朝早く、彼よりも早く起きて、作るつもりだった。

 途中で生クリームが足りない事に気付いた。

 必死だったから、すぐに買いに出かけた。

 彼を起こさないように、彼が起きる前に。

 ちゃんと作り終えるのだ。

 一生懸命走った。

 コンビニのビニール袋の中で、生クリームのパックが一つだけがさがさと揺れた。

 息を切らしてた。でも気持ちよかった。

 彼が起き出さないうちに。

 早く、早く。

 急いで、走った。

 ―――視界の隅の車には、気づかなかった。





     *





 真綿に触れるように、そっと唇を寄せた。



 全てを思い出して涙に濡れた瞳は、それでも穏やかだった。

 頬を包んだ手にそっと片手を添えて、静かに彼女は言った。


―――私も京ちゃんを愛してる。






―――『京ちゃん』と呼ぶ声が、まだ聴こえるようだ。

 ころころと、鈴のように澄んだ彼女の声。

 ごめんね。と何度も謝っていた。


 夢で何回も君に会った。

 そこではいつもどおりハーブティーで朝を迎え、何の変わりもない日常を過ごしていた。

 こちらの方が現実なんじゃないかと思い始めた頃、また君はいなくなった。

 たった一週間の逢瀬だった。



 それから少しして、鍵屋だという青年に会った。

 僕が君にあげたシルバーの指輪を、彼が持ってきた。それでみんな解った。

 柄にもなく、泣いたよ。

 君が愛しかった。

 胸がつぶれるほど、愛しいと思った。





―――部屋のドアの向こうで、電話のベルが鳴っている。


 現実へと引き戻す、鍵屋からの合図だ。

 しばらくベッドの上で一人、彼女の消えた場所を見つめていた。温もりの失せたシーツの上に、黒い鍵がひとつだけ、ぽつんと落ちていた。



 ** ** ** **



 その日の午後、教えられた場所へ黒鍵を返しに行った。

 銀縁の鼻眼鏡をした黒髪の青年が、静かな面持ちで待っていた。


「彼女、思い出せたんですね」


 青年は黒鍵を愛しむように見つめていた。


「この商売も長くやっていますが、亡くなった方がお客様というのは初めてでした」


 苦笑気味に呟く彼を見ながら、


「ひとつ、訊いてもいいですか?」


 問い掛けると青年はどうぞ、と言った。


「黒鍵とは一体……何なのですか?」


 僕の質問に対して青年は鍵を鞄にしまいこんでから、


「鍵、ですよ。名の通り」


 とだけ答えた。

 それでもなんとなく分かった。

 彼女が僕に会いたくて、僕も彼女に会いたくて。でもその間には、生と死という重くて硬い扉が立ちはだかっていた。

 きっとその鍵なんだと思った。


「これからどうしますか」


 銀縁眼鏡の向こうの瞳は、特に何の感情も表していなかったが、やさしい瞳だと思った。

 温かい昼下がりの青空を見上げる。


「いつも通りです……何も変わりません」


 穏やかな風が、ふっとどこからか甘い花の香りを運んでくる。


「朝はハーブティーですか」


 青年がからかうように訊いてきた。

 僕は苦笑した。


「そうですね、ハーブティーです」

「……ミントはたくさんですか」

「たくさんです」


 ―――だってその方が目が覚めるから。




 鍵屋と別れたあと、僕はあの公園へ寄った。

 つい昨日彼女と歩いた跡を辿る。

 緑の匂いを吸いながらそっと目を閉じると、瞼の裏に彼女の笑顔が浮かんだ。

 つんと鼻の奥が痛くなって、慌てて空を仰ぐ。

 木々のやわらかい葉がさらさらと風に揺れていた。

 やさしく降り注ぐ午後の木漏れ日を浴びながら、今はまだ少し泣きたい気分でいようと思った。


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