第一話
落として溶けたアイスの破片に、アリが群がっている。
米粒くらいしかない小さな生き物のクセに、人間並みに重要とされる奴だったりするのがコイツら。
そこまで詳しいことは知らないが、生態学において頂点みたいなトコに位置するスゴイ存在なんだとか。実はスズメバチに近いと聞いたことがある。とはいえ、ここにいるコイツらじゃスズメバチみたいに人間を殺せたりするわけでもないけど。
まあそんなことはどうでもいい。別にアリに限った話じゃないが、昆虫ってのは何でこんなクソ熱いアスファルトの上を平然と歩けるんだろうか。
「実は汗かいたりしてます?」
アイス溜りに顔を突っ込んでいる働きアリ共にそう聞いてみたが、全く無反応。「ん?」とか反応して頭上げられても困るけどさ。仕事熱心で頭が下がりますね。
そう、彼らはいわば仕事中なのだ。今日もせっせと女王アリのために養育費を稼いでいる、都会という淘汰されがちな厳しい環境で生き抜いてきたエリートサラリーマンなのだ。
俺がアリだったら、今の状況はどう例えられるだろう。
あれか、群れから外れて一匹、緑のプラスチック容器に入った黄色い顆粒を見つけて「うめぇ持って帰ろコレ」とか言ってる感じだろうか。
……どっちにしろ彼らほど真面目じゃあないな。
ガキの頃はアリだろうがダンゴムシだろうが掴めたもんだけど、今となっちゃ触るのはなんとなく嫌だ。
なんとなく、が何なのかはよくわからないが。汚いとかそんなんかな。これが大人になるってやつだろうか。
「どーでもいいけどさぁ……」
座っていたベンチの背にもたれ、腕も乗せる。片手に持ってるアイスを頬張った。冷たくてウマい。火照った身体には染み入るほど美味っ。
アリもアイス食って「アッー! 身体中に染みわたるこの清涼感ッ! たまんないん!」とか思ったりしてんのかな。いや、そもそもアスファルトに落ちた時点で常温以上になっちゃってるか。
……さっきからどうでもいいこと考えすぎだろ。
「いやー……あちぃっす……」
憎たらしいほどの青空の中、馬鹿みたいに主張している空に浮かんだあの光の塊をぶっ壊してやりたい。
十分に熱を吸収した目の前の車道は炙った鉄板みたいになってて、蜃気楼を漂わせつつ、ただでさえ高い気温を上げるのに一役買っていた。実は電子レンジの中だったりするんじゃないのココ。
んな訳ない、か。
――学校帰りの買い食い。三ヶ月は「ペンキ塗りたて」の張り紙をしたままのベンチにフラッと寄って食うコンビニアイス。
間違いなく美味いことには美味いんだけど、後の行動を取るための気力まで冷やしてしまっていた。
手持ち無沙汰で何気なくスマホを起動。ディスプレイを見て一つ思い出し、何でもないように呟く。
「二月、なんだけどなぁ」
今日は真夏みたいな、それはそれは暑い一日。
けれど真夏日ではおかしい事実がある。
日付だ。ここが日本じゃなかったらまあ、二月でも夏なのはおかしくないが、残念ながらアジアの島国ニホン。
となると、本来なら今頃は冬用の制服を着込んでマフラーも巻いてホットドリンク片手に「うーさっびぃ」とか言ってなきゃおかしい。
けど別に表示がおかしいわけでもなく、暦の上では紛れも無く二月であって、この気温だって冗談じゃあない。
桜が咲く頃、この国では秋が始まり、山は紅葉に彩られる。
簡単に言えば、季節が丸ごとズレているって話。これも日本に限った話じゃなくて、世界中で色んな変化が起きている。
――三年くらい前から、世界はおかしくなってた。
別に感傷に浸る気はない。
三年前の変化は確かに急だったし、世界中が混乱した。日本は四季があるし余計に。
でも、季節がズレた以上の変化は起こっていなかったりする。
三年も経つと、もはやたまーにテレビのニュース番組で触れるくらいの話題性しかない。コメンテーターが顔を真っ赤にして唾を飛ばしながら訴えても、世間は既に、この異常性を受け入れようとしている。
そんなもんだろ、なるようになるだろ、みたいな。
だから俺もそれに倣ってスルーするだけ。
実は三年前の原因には全て、俺が深く関わっていて、世間の人々はそれを知らないから俺も知らんぷりをしている――――なんて中二展開は全くなく、故に思い入れなんて皆無なのだ。
というわけでさっさと帰ってエアコンの効いた部屋でゆっくりしよう。
持っていたアイスを食べきる。棒に少しだけ残った破片――というよりもう水分だけ――をさっきのアリ達にあげようと、群がっていた場所を見てみると――
「うわ、すげー増えてる」
さっきまではパラパラ落とした黒ゴマみたいなもんだったのに、今や潰れた黒ゴマ団子並みの戦力でアイス溜まりを攻めていた。生存本能たくましいな。
これでも飲んで涼んで下さい、と呟きつつ新しいアイス溜まりを作ってあげてから、アイスの棒は近くにあるゴミ箱にシュートした。
弧を描きながら飛んで行く棒を見て「あ」と思い出す。
「アタリだったか見忘れた……」
あんま良いこと無さそうだな、今日は。
アイスの棒はコンッと小気味良い音を立てて、ゴミ達の仲間入りを果たした。
我が家の前。二階の角が俺の部屋。
いよいよエアコンが効いた快適空間でゲームでも漫画でも何でもできる。帰宅部バンザイ。
ってわけで早く入りたいんだが、どうしても目に入るものがあった。
「なんだこれ?」
ドアポストに刺さったそれを取り出す。一通の茶封筒。結構でかい。宛名を見てみる。
「……俺宛て?」
時期が時期だし、塾の誘いとか通信教育の資料とかそんなんだろうか。
と思ってひっくり返したりしたが、差出人が記載されていない。そんな茶封筒あるか? 直接押し込まれたとかならわからんでもないけど。
……いやいや、直接押し込まれる差出人の筆記なし茶封筒ってなんだよ。怪しすぎる。
気になったので封を切った。
中には一枚の紙と……専用のケースに入った記憶媒体らしきスティック。
「……? わっかんねぇ、なんだこれ? ――って容量やばいなこのメモリスティック!」
表記を見る限りでは脅威の十テラバイト。そんなもん存在してたのか。何が入ってんだろ。
とりあえずは本日二回目のなんだこれを言いながら、紙の方を取り出して確認してみる。文字だけが並んでいて、それだけで見る気が削がれ、やっぱ家ん中で読もうと思ったが――
「ほ?」
なんかホなんとかっていう見知った文字列がチラッと見えた気がしたので、この場で詳しく読んでみる。
時任 優世 殿
辞令
あなたを世界防衛機構特定機密保持・保管協力者に命じます。
此度の辞令を以って、貴公をセンティネルシールドの準隊員として此処に迎え入れることとなりました。
身に覚えがないこととは存じますが、これは緊急を要するものであるため、何卒ご理解とご協力をお願い申し上げたく存じます。
尚、この包に同封されているであろう記録媒体は、世界を左右する最重要書類といっても過言ではありません。
どうか、大切に、厳重にお守りいただきますよう、お願い申し上げます。
ホワイトハウス
翻訳:外務省 益田大祐
「……なんだこれ」
まさかの三回目。世界防衛? タイトルマッチですか? なんだこの、それっぽい文字を並べただけの痛い文章は。
しかもホワイトハウスて。書いとけばいいんじゃね感がものすごいんだけど。
イタズラにしては出来が悪すぎるし、かといってこんなことを真に受ける馬鹿もいないだろう。申し上げたく存じますとか言われても俺は存じないから。
「ま、いいや。オヤジかおふくろに聞いてみるかな」
と、とりあえずは放置して封筒の中に紙とメモリスティックを入れなおし、ドアに手を掛けた――
瞬間。
背後から耳を劈くほどのスキール音がして、慌てて振り向いた。視線の先、我が家の前に止まった車。
特に車に詳しくもないのに一発でその車種が分かって固まった。
「うお、リムジン……!」
こんな間近で見るのは初めてだ。デカくて黒くて……すっごいビッグコックね。じゃなくて威圧感。
なんかやたら慌てて止まったっぽいけど、ウチに用事なのか? オヤジの会社関係の人だったりするんだろうか。どっちにしろリムジンに乗るような客が来る役職じゃなかった気がするんだけど……。
対するリムジンは沈黙を守っている。濃いスモークがかかっていて、中の様子はここからじゃ見えない。
やっぱりウチに用事じゃなくて、たまたま止まっただけか?
「あいや――待て待て?」
…………いや、どー考えてもさっきのはイタズラだとは思う。
十中八九そうだろう。誰だってそう思う。あんな紙きれ一枚に書かれたことを信用する人間なんてそうそういない。
だが、もし。
もしも万が一、いや億が一くらいの確立であれに書かれた内容が本当だったとしたら?
「ヤバイ展開なのか、これ……?」
あの紙に書かれた内容を思い出してみる。メモリスティックがなんか重要みたいなことが書いてあった。あとタイトルマッチ。
世界防衛、最重要書類、記録媒体、大切、厳重。
単語だけ羅列してみてもなんとなくわかった。加えて、これを手にした途端現れたリムジン。整理してみると、出てくる答えは――
「も、もしかして、このメモリスティック狙ってんのか……!?」
と、自分なりに状況を理解しようとした時、リムジンのドアが開く。
瞬間、暑さからではない汗が全身から溢れ出した。
ホワイトハウスとか書いてたし、アメリカが関わってるとして……もし黒人なんか出てきたら死ぬぞ俺。
――いや。
いやいや、つーか何でこんなことになってんだ。待ってくれ、まだ何の整理もついてないぞ!
ただの学校帰りなんだけど。家の中で涼みながら漫画とかゲームとかしたいだけなのである。
なのになんだこの状況は……帰宅部のメリットは放課後の自由時間にあるんだよ! 奪われてたまるか!
と、やっぱりこんなもん知らねぇとばかりに地面へ封筒ごと叩きつけようと、腕を大きく上げた時。
開いたドアからスッと――黒いスーツを着た小柄の女性が出てきた。
「女の人……」
思わず呟き、固まってしまった。しかも日本人ぽい。
目にはサングラス。身長こそ俺より低いものの、スタイルは抜群。出るとこ出てるのが良く分かる。黒い服装はスタイルを強調するというが、この場合似合いすぎている。
途端、ちょっと安心した。黒人とかだったら全力でこの封筒ごと渡してたわ。まだ油断はできないけど。
と、任務完了とばかりにリムジンはそのまま走り去っていった。出てきた女の人だけ残して。
……あれ、一人だけ? それとも俺からコレをぶんどるには一人で十分とでも思われたか?
相手は俺より背は低い。体格的にもそんなに特徴があるわけじゃないし……いやスタイルは正直たまんないけど……じゃなくて、最悪タックルでもすれば逃げられそう。保証はないけど。
女性はゆっくりと、こちらに向かって歩き始める。
……家の中に入るのはたぶんアウトだ。場所が割れているんだし、逃げるなら別の場所がいい。でも、どこにするか――。
七歩先に来た。
とりあえず肩を相手の方に向ける。なんで俺は殊勝に辞令とやらに従ってんのか。混乱してるせいで今できる判断材料がコレしか無いからだと思いたい。やんなるね。
あと三歩。
茶封筒を握り締める。リムジンはいなくなったから、このまま押しのけて――!
と、目の前まで来た瞬間、急に女性がしゃがみこんだ。こっちの勢いが死んで、つんのめりそうになる。
対する女性のその姿はまるで、どこぞの映画か演劇で部下が王様に対してやるような傅くポーズ。
その姿勢のまま、女性は語り始める。
「その封筒に同封されていた辞令通り、貴公はこの情勢が続く期間、世界防衛機構特定機密保持・保管協力者、兼、私達センティネルシールドの準隊員となります」
…………はい?
追いつかない俺の思考をよそに、続けて喋る女性。
「私は、センティネルシールドの隊員、安形美桜と申します」
もう言うことは終わったのか、立ち上がり手を差し出す。それを見つめて固まった。
未だに思考が全く追い付いていない。身体も反応しきれない。なんだこの状況は。急展開すぎてついて行けてない。この人は何しに現れたんだ。
この手は握っていいのか。っていうか手なんか握ったことないから無理です。
落ち着けとか、早く理解しろとか、いやその前に握手とかがグルグル回っていて思考がグッチャグチャである。
「ちょっ……と、待ってもらっていいですか? 寝耳に水すぎて、頭の中が混乱しちゃってます」
「寝耳ミミズ……? そんなのいるんですか。だとしたらだいぶ気持ち悪そうですね……頭は大丈夫ですか?」
「……はい?」
「ですから、寝耳ミミズ」
「ええ。……寝耳に水で」
「恐ろしいですねー。私だったら、そんなのが入ってきたら混乱どころじゃなくてきっと泣き叫んでます。すぐ病院行っちゃいます。貴方は強い心をお持ちなんですね」
「いえいえ、それほどでも」
思わず照れ笑い。……いや違う気がする。なんか噛み合ってない。
「あの……驚いたんですよ俺。そりゃあもうめちゃくちゃ」
「あれ、やっぱりそうなんですか? てっきり平然と受け入れているのかと。おおらかな方だなぁとか思ってました」
「いやいや、そんな簡単に受け入れられるわけないじゃないですか」
「あ、ですよね。そんな人いませんよね。――それで気になるんですけど、今はどんな状態なんですか?」
「混乱してますけど?」
「やっぱりですか……そんなに頭がおかしくなってるなら、病院に行ったほうがいいのでは?」
この人はもしかして喧嘩を売ってるのだろうか。
「失礼ですけど……混乱しちゃう原因を作ってるのってあなたですからね?」
「え、私ですか? 私はそんなミミズのことなんて知りませんよ?」
「ミミズ!? 今ミミズって言った!? いつそんな軟体動物の話――――あ、寝耳ミミズってか!」
気付いた。ようやく気付いた。
――なに言ってんだこの人。
「んなもんいないから! ミミズが頭ん中に入ってても平然としてる人間とか、おおらかとか強い心持ってるどころじゃないでしょ! 頭イカれてます!」
「頭イカ?」
「やめて! これ以上俺の頭の中に軟体動物いれないで! これ以上勘違いを広げないで!」
「あれ? ご、ごめんなさい。あとミミズは軟体動物じゃなくて環形動物ですよ」
「聞いてねーっす……」
「ぁぅ……重ねてごめんなさい」
なんかもう疲れたんだけど俺……。
女性はシュンとして頭を下げるも、一向に握手を交わそうとしない俺を見てかサングラスを外す。
瞬間、気疲れなんか銀河の果てまで飛んでいって、目の前の女性を食い入るように見つめてしまう。
瞳が、あまりにも綺麗だった。
こんなに澄んだ茶色の瞳を、俺は知らない。まるで、心を奪うためだけに存在する宝石が埋め込まれているかのように感じてしまった。目尻が微妙に下がっていて、人懐っこい印象を与えている。
しばし、その瞳に見惚れた。
純真で美しくて、でも決して弱々しくはない、真っ直ぐな輝き。
不意に、胸が高鳴る。
ああ、やばい。この人は少し――可憐すぎる。
目だけじゃない。構成する全てのパーツがあまりにも端正な、その顔。
サングラスに隠されていた”瞳”というピースが現れたことで、美しい花のパズルが完成したかのようなその美麗さに、ようやっと気付いた。
画竜点睛を欠く、と言うが、この場合は『可憐点睛を欠く』だ。顔の可憐さとは目が伴わなければ意味が無いのだと、いま思い知った。
その瞳が、覆い隠される。山を描くように模った両まぶたの切れ目を見て、理解した。
彼女は今、笑顔になったのだ、と。その表情にまたひとつドクンと、鼓動が全身に響き渡った。
「ともかくですね、握手は挨拶の始まりです。というわけで、どうぞ」
微笑みながら再度、手を差し出す。少し吹いた風が彼女のセミロングの黒い髪をたなびかせ、淡く爽やかな甘い香りを運んでくる。鼻をくすぐるその芳香に思わずグラッと来た。
瞬間、瑣末なことが吹き飛んで、手汗をかきながらもその手を握り返す。せっかく握手したのに感触が全然わからない。
「よろしくお願いしますね。私のことはお気軽に美桜と呼んで下さい」
「よ、ヨロシクッス……ミオ、サン……」
カナカタ発音になってしまうほど緊張している。そりゃそうだろ。この状況で混乱とか緊張とかしないやつがいたら教えて欲しい。
「さて、これから少々お時間を頂けますか? 私がここに現れた理由と事情説明、それと引っ越しをしてもらいます」
ひっこ……いやいや!
「ちょちょちょちょーっと待った!」
よし、衝撃発言のお陰で少しペースを取り戻したぞ。
「はい? なんでしょう?」
小首を傾げる安形美桜と名乗った女性。その仕草がまたいちいち可愛らしい。
正直たまんないが、今はこの頭ん中にビッシリあるクエスチョンマークを消さないと。
「ひ、引っ越しってなんですか?」
「はい、そのままの通り引っ越しです。ここからそう遠くないので、一日で終わると思いますよ。というより、必ず終わらせます」
「あ、そうなんですかよかったー。――じゃなくてですね……」
やっぱり取り戻せてませんでした。もうこれ俺がおかしいんかな。理解できない俺がおかしいの? そうなの? 誰か助けて!
と、ショートしかけている俺を見てか、何かに気付いたような素振りを見せた美桜さんが慌てて言った。
「あ、ご、ごめんなさい。それじゃ、事情説明の方を先にしますね! お部屋に上がらせて貰ってもいいですか?」
いかにも、やってしまった! みたいな苦笑いを浮かべている。それがまた愛おしい。これいちいち卑怯だろ。なんかの策略だったとしたらものの見事にハマってますよ。もう勘弁してください。
「ウイッス……」
半分意識を飛ばしたまま、鍵を取り出して我が家のドアを開く。
もうどうにでもなってくれ……。




