8.リコリスと少女とハニーミルク
昼過ぎ。
バジリコの引率で森から離れ、短い草の生えた草原の中にある街道をしばらく歩くと、遠くのほうに水平線が見えてきた。時折白く輝く水面をエルダーが指差すと、バジリコがあれは「海」だと教えてくれる。そしてその手前、海の色に紛れて気付きにくいけれども、青っぽい建物の密集しているところがセルリーの口にしていた町だということも。
町と呼ばれているくらいだから規模はそれなりに大きいらしい。観光地としてもそこそこ有名らしく、名前はピャーチと言うのだそうだ。
エルダーは見たこともない町と海に心踊らせ、ディルは少し緊張しているようだった。
「お前ら、ここがどの大陸のどのへんなのか、セルリーから聞いてんのか?」
「いえ、詳しくは……。あ、でも、ピャーチという名前は聞いたことあります」
バジリコとディルが話している。
ピャーチはスィーニという大きな国の南東に位置しており、スィーニは世界で最も大きな大陸の北東にあるということ。海は近いがそこは複雑な渦潮に支配されており、とてもではないが船が航行できる環境ではないので港町ではないということ。
世界には四つの大陸があり、東方大陸には「メニーヒュマ」、西方大陸には「グラス」、南方大陸には「サンディ」、北方大陸には「シリィ」という名前が付いていること。エルダーたちの故郷トゥヴォーはグラス大陸にあるグルンという国にある町だということ――。
大陸の位置関係は、横棒の右部分だけが長い十字を描くと非常に分かりやすい。
その長めの棒の上に楕円を一つ。
対向線上に円を一つ。
そして、垂直に交わる線の上にそれぞれ円を書けば、それが東西南北の四大陸の図になるのだ。
十字の線が交わっているところには島が点在しているので、大陸間を行き来するためには船に乗り、休み休み進むのが一般的だとされている。
グルンはグラス大陸の中でも北西部に位置する国だった。メニーヒュマ大陸の北東にいるエルダーたちは、果てしない旅路を行かねばならない。
エルダーは再び震えた。本当に、そんな遠いところまで来ちゃったんだ!
ディルはそんなエルダーを横目に気にしながら、拳をぎゅっと握り込んでいた。
町に入るとゆったりとした幅の大きな通りにたくさんの石造りの商店が並んでいた。建物はどれも青っぽい色味に寄せられており、エルダーはそれらに興味を示しながらバジリコについていく。魔法で浮かばせていた花束に道行く人が振り返っていたものの、エルダー自身はどこ吹く風だった。
路地を曲がり、少し奥まったほうにある店らしき建物へとバジリコは進んでいった。
看板にはナイフとフォークが描かれているので、食堂なのだろう。その下には店の名前だろうか、「プリヴェート」と書いてあった。
「おーい、リコリス! 旦那から届け物だぜ!」
ガラスのはめ込まれた木製の扉を開け、がらんがらんと鳴るドアベルの音をかき消すようにバジリコが叫ぶ。堂々とした足取りで店内に足を踏み入れたバジリコのあとに、エルダー、アンゼリカ、ディルの順で続いた。
店の内装は温かみのある優しい木目調によって整えられていた。四人掛けのテーブル席が三つと、カウンター席が五つ。昼下がりのこの時間では、客はあまりいないようだった。
そのうちの一人、カウンター席の隅に座っていた灰色の髪の少女が顔を上げ、鈍色の瞳でバジリコを睨み付ける。
「ちょっとバジリコ、静かに……って、なにその花束っ!?」
そしてすぐさま大量の花束に圧倒され、ぽかんとした表情になる。後ろのエルダーたちには気が付いていないようだ。バジリコは花に埋もれていた顔を横にずらして少女の顔を確認すると、からっと笑った。
「おお、ステビアちゃんか。リコリスは?」
「い、いるけど。ねえ、なんなの? お母さんに告白でもする気? お断りです」
「言っただろ、セルリーからだって。このへんでいいかな、っと」
「あーっ、そんな適当に置かないで!」
立ち上がった少女と、空いているテーブル席に花束を乗せて肩を回すバジリコ。
気心知れた仲……なのだろうか、二人は親しげに言葉を交わしている。エルダーたち三人は少女の眼中に入っていないようだった。
特にすることもないので花束を浮かせたまま店内を見回していると、カウンターの向こう側にある調理場の奥から一人の女が顔を出した。藍色の三角巾を頭に付けた、すらりとした細身の女だ。
「ステビア、何を騒いで……って、バジリコじゃない。すごい量の花ねえ」
「セルリーからだよ。どうする?」
「悪いけど裏口から入って置いておいてくれる?」
「はいよ」
「あ、ねえ、例の子供たちは?」
「花に埋もれてるよ。運んだらまたこっちでいいか?」
「まあ! セルリーったらそんなことさせて、呆れたものね。いいわよ、テーブル片付けておくからそこで待ってて」
なんだか話が進んだようだったので、バジリコに先導されるまま店から出た。
あまりにあっさりとしたプレゼントの受け取りに、ディルは一人、呆然としていた。
*
裏口のほうに花を置いて店に戻ると、扉のノブには準備中の札が掛けられていた。
中に入ると、先ほどと変わらず数人の客が食事を続けていた。変化といえば、カウンター席の隅にいた灰色の髪の少女がエプロンと三角巾を身に着けていたことくらいだろうか。そんな彼女にテーブル席へ案内され、四人は腰掛ける。バジリコとエルダー、ディルとアンゼリカが横に並んでいる状態だ。少女は四人の中でも特にアンゼリカをじろじろと気にしている。
それから調理場に引っ込むと、木の盆の上に四つのマグカップを乗せて戻ってきた。
「ホットハニーミルクです。お母さんからのサービス。もうちょっと待っててください」
それぞれマグカップを配りながら、少女はどこかふてくされているようだった。そんな彼女に軽く笑いかけるバジリコ。
「ありがとな、ステビアちゃん」
「お仕事ですから。他のお客さんもいるので静かにしていてくださいね」
「わかってる、わかってるって。いただきます、っと」
ぷいと顔をそむけて調理場の奥に消える少女。バジリコに続いていただきますをした三人はそれぞれ温かいミルクに口を付けた。ほんのりとしたはちみつの甘さが優しい。
「あの子がセルリーの娘のステビアだ。今年で十一になる」
店を切り盛りする母親のリコリスを手伝い、父親のセルリーが町にいないことに不平不満も口にしないような良い子なのだとバジリコは言うけれど。ずっとあんな不機嫌そうな態度でよく客商売ができるものだと、ディルはちょっとばかり眉をひそめていた。
そんな中、ピャーチが青い建物ばかりで埋め尽くされている理由をエルダーが尋ねた。バジリコいわく、この地方では青が魔除けの意味を持つとかで、悪いものがやってこないように密集して障壁のようなものを作っているのだそうだ。海を支配する渦潮に関しても外界から悪いものを遠ざけてくれるからと昔から神聖視されているらしい。
そんなことを話しているうちに、店内の客は全員食事を終えて店を出ていった。その片付けを済ませたリコリスがステビアを伴い、世界地図を片手に輪に加わる。
「あなたたち、その、ここからいきなりやってきたって言うじゃない?」
広げた地図の上、しばらく迷ったあとでトゥヴォーを指差すリコリス。
彼女はどうやらセルリーから話を聞いているらしく、エルダーたちがうっかり遠くからここまでやってきてしまったことなどの説明はせずに済んだものの、
「魔法陣を踏んだのよね? そんなことがあるのねえ、一体誰の仕業なのかしら」
息をついたリコリスに、三人は何の言葉も返せなかった。
リコリスは三人の主張を疑っているわけではなく、純粋にそれが不思議だから口に出したといった様子だった。しかし、そんなことは三人にもわからない。アンゼリカはエルダーの仕業だという考えを取り下げているし、ディルも特にエルダーを犯人扱いしてはいない。エルダーももちろんそんな魔法陣を使った覚えなどない。誰の仕業かなんて、見当もつかなかった。
それより今は家に帰ることを考えよう。エルダーはそんなようなことを言って、話を先に進めることにした。魔法陣を使ったのが誰かなんて、手掛かりもない状態でどう推理しろと言うのだ。まったく無意味なことである。
リコリスのとなりにいるステビアはちんぷんかんぷんなまま話に参加しているといった感じで、ときどき首をかしげていた。
「帰るって言っても、今すぐこうしようとか、ぱっと決められることじゃないわよね。大変なことだろうし……」
リコリスの言葉に表情を固くするディル。エルダーはそんなこと初めからわかっているので変わらないし、むしろその大変すら楽しみにしているくらいなのであっけらかんとしている。アンゼリカはディルを安心させるようにその腕をぽんぽん叩いていた。
うーんと唸るリコリスの横で、ステビアは当然のように言う。
「でも、帰らなくちゃいけないんでしょ?」
「そうねえ、早く帰りたいわよね。グルンにいる誰かに連絡を取れたらいいんだけど……」
リコリスの言葉に、アンゼリカのおかげで緊張を緩めていたディルの肩がぴくっと揺れた。
「……まあ、それも難しいわよね。連絡を取るための魔法道具は両方が同じものを持っていないと意味がないし」
エルダーは少し冷めてしまったミルクを飲みながら、地図をじっと見つめていた。大陸横断に思いを馳せているのである。
この世界にはエルダーの知らないことがたくさんあるはずで――これまではただセージの帰りを待って、彼の持って帰るたくさんの土産話を聞くだけだった。でも、今は違う。旅の主人公はセージではなく、エルダーだ。この状況でわくわくせずに、どうしろと言うのだろう。
旅の話をするセージはいつだって楽しそうだった。気の赴くままにあちこちふらついているセージは荷造りなどろくにせず、ほぼ手ぶらという状態で出掛けては、行く先々でその日暮らしを重ねていた。時には野営だってしたと言う。木の実を採ったり、獣を捕まえたり、価値のありそうなものをちょっと拾って売ったり……そういったことこそが面白いのだと、セージは笑っていた。
身軽な体が一つあればいい。自らの足で地面を歩き、その感触を楽しみながら景色を眺めたり、振り返ってみたりする。ああ、今すぐにでもそうしたいものだ!
魔法が使えるエルダーは基本的に水や食料に困らない。不安なんて欠片もなかった。
行き詰まっているかのような空気になりかけているこの場を不思議に思っていると、バジリコが小さく「あっ」とこぼした。
自然と視線が集まる。バジリコはわざとらしくこほんと咳払いをすると、少し身を乗り出して。
「そういえば、そろそろキャラバンが来る時期じゃねえか?」
いかにも妙案とばかりにそう言ったのだった。
キャラバン。
簡単に言うと、各地を巡って商売をしている商人の一団のことである。
「……キャラバンがどうしたの? めずらしいものが手に入るからうれしいのはわかるけど」
エルダーの疑問はステビアが口にしてくれた。リコリスもディルもはっとしたような顔になっているけれど、バジリコの言葉が今の話とどう繋がってくるのだろうか。
「キャラバンはいつも大陸を時計回りにぐるっと回ってるんだよ。だから、うまいこと頼めば一気に西まで行けるかもしれない」
「そうね。そうだわ。それなら西まで簡単に……!」
「だよな!? よかったなお前ら、最高のタイミングだぞ!」
「あ、でも待って! この子たち三人だけをキャラバンに任せるなんて……」
「だけど、これ以外に方法ないだろ?」
キャラバンかあ、とエルダーは思う。
セージはいつも一人で旅をしているようだったから、そんな話聞いたこともなかった。存在自体は知識として頭の隅のほうにあったものの、それを利用して大陸を横断するなんて思い付きもしなかったのだ。セージがやったことのない方法を使ってみるのもいいかもしれない。それこそエルダーだけの旅の証になるかも。
バジリコとリコリスがあれこれ利点と問題点を話し合っている。
どうも、エルダーたちがまだ子供であることを心配しているようだ。
エルダーはのんびり口を開いた。
「あの、僕、そのあたりは大丈夫だと思うよ?」
「えっ?」
割って入ったエルダーに、声を上げて驚くリコリス。
「でも、あなた、そんな。どういうことしようとしてるのか、わかってるの?」
「僕は魔法使いだから、大抵のトラブルには対処できるよ」
「えええっ?」
エルダーは困ったように笑った。セルリーも思いやりのある男だったけれど、リコリスも優しい女だ。
完全に固まっているディルとアンゼリカに気が付いていながら、エルダーはそれでも続けた。彼らがエルダーの考えに同意できないのなら、それでいい。一緒にここまできたとはいえ、エルダーと彼らの間に繋がりなんてないのだから。知り合いですらない彼らがエルダーに合わせることはない。
ここでセルリーやリコリスの世話になればいい。
それだってきっと正解だろうから。
「セルリーに助けてもらって、こんなに親切にしてもらって。僕はこれ以上、面倒なんて掛けたくないから……あとのことは自分でどうにかするよ」
エルダーは心の中で一つうなずいた。うん。思う存分楽しみながら、土産話を作りながら、帰る。なんて楽しげな未来なんだろう!
エルダーの突然の発言にびっくりしている四人と、首をかしげる一人の少女。
「キャラバンについていけなかったら、どうするの?」
「心配いらないよ。僕は魔法使いだよ?」
キャラバンは自らの護衛のために腕の立つ者たちを連れていると聞くし、それなら魔法使いであるところのエルダーが必要とされないはずがない。
「そりゃあ、引く手数多ね」
「でしょ」
ステビアだけがこっくりとうなずいてくれた。
その場に落ちた沈黙の意味がわからないエルダーは一人また、ミルクを飲んだ。
冷め切ったハニーミルクもおいしかった。