69.さよならの船出と失われた魔法
ヘンリーとニームの別れは劇的で美しく、それゆえにオレガノはタイミングを逃したような気がして参っていた。
二度目の鐘が鳴る前に、ディルたち一行は船に乗らなければならない。残された時間はあとわずかだ。
「えーっと、この街もとっても面白かったよ?」
そうこうしているうちにエルダーのほうから声を掛けられて、もごもごとうなずく。
伝えたいことはあるけれど、どうにもうまく切り出せない。
「面白かったなら……面白かったなら、よかったね」
当たり障りのない返事をすると、エルダーはうれしそうに笑った。
「こんなに大きな船、乗ったことないよ。船旅っていうのも、どんなものなんだろうね?」
「……船酔いの対策は? 依頼のときとは感覚が違うと思うけど」
「いくつか。試していないものもあるんだ」
「めちゃくちゃ普通の会話してるぞ、こいつら……」
となりのボリッジが呆れているけれど、まったくその通りである。しかし、彼の瞳が期待に満ちているのを見て、オレガノは心からほっとした。
そこにある世界が広く、そしてできるだけ明るいものであるのなら、それはもっとも喜ばしいことだ。
「ディル様。そろそろ」
ヘンリーがディルに耳打ちするのが聞こえる。
彼らはじきに、この大陸を去る。
*
ヘンリー、ディルとアンゼリカ、エルダーの順で大型船に続く列に加わった一行は、それだけですでに自分とは別の場所にいるように感じられた。
その光景を遠くから眺めていたオレガノは、波のように寄せては返す、形のない気持ちをやんわりと否定する。
またねと、言えなかった。
だけどそれは、そんなことを口にするのは、自分らしくないし。そういうのは、自分の意志や思いは、行動で示すべきものだと信じているから。だから――などと考えていたら、ボリッジが予備動作なしに抱き付いてきた。
「なあ、オレガノ。おれはオレガノに隠しごとをしてるけど、オレガノもおれに隠しごとをしてるよな?」
「きゃうっ!?」
よくあることだと高をくくっていたら、ところかまわずくすぐられて驚いた。わりと本気で暴れると、どさくさ紛れに肩から掛けていた鞄の金具が外される。
「な、何してるの!?」
オレガノの鞄を取り上げたボリッジは、容赦なくその中に手を突っ込んだ。
「おれの読みではこのあたりに、」
「勝手に漁らないで!?」
「あった!」
内ポケットにしまっていたものを引っ張り出されて唖然とする。訳知り顔の彼女がぷらぷらと揺らしたのは、グラス大陸行きの乗船許可証だった。
頭が真っ白になる。
「ち、違うから……! それはその、自分に対する戒めっていうか……!」
「にしては、値が張りすぎるんじゃないか?」
「決めたの! わたしはちゃんと、ボリッジと……!」
かっこわるい。言葉が喉につかえて、どうしようもなくかっこわるかった。
ボリッジにだけは、彼女にだけは絶対に秘密にしておきたかったことなのに。
「復学の件だろ? ごめんな、一人で突っ走って」
「……ボリッジは、わたしを心配してくれただけ。あの子たちの国は見てみたいけど、それは学校を卒業してから」
悲しくもないのに涙がこぼれそうで、オレガノはボリッジのほうを見ることができなかった。
金の耳飾りが軽く鳴り、革の鞄が返される。
ねえ、オレガノ。知ってる?
声に出した言葉にはね、力が宿るんだって。
どうしてこんなときに姉のことが脳裏をよぎったのか、オレガノにはわからなかったけれど。
内ポケットに戻された乗船許可証は、少しだけその重さを増したように感じられた。
「おれさ。ラールのオジョーサマじゃなくて、ラールのオヒメサマなんだ」
「……え?」
出し抜けな告白にびっくりして顔を上げると、ボリッジはずびっと鼻水をすすった。
「これがおれの隠しごとってやつ! あとは、オレガノのことが好きっていうのも!」
「……それは、知ってるけど。え、全然オヒメサマっぽくない……」
「にゃはは! 踊りのリード、完璧だったはずなんだけどな!」
「そうなの……?」
目元を押さえて涙を拭う。たまたま声を掛けたことから仲良くなったこの友達は、オレガノにとって唯一無二の存在だった。
大切にしようと思った。大切にしなければ。
「……ん?」
ふと、海側からとんがった形の帽子が飛んできた。反射的にそれを掴んだオレガノは、使い古されたその帽子と、出港間際の大型船とを交互に見比べる。
甲板に立っていたディルが「すみませーん!」と手を振った。
「届けてくるね。ちょっと待ってて」
「ああ」
強い海風にさらわれでもしたのだろう、桟橋と船とを繋ぐ階段のなかほどまで降りてきたエルダーが困った顔をしている。「ありがとう。わざわざごめんね」
手すり越しに帽子を渡した。
「じゃあね、オレガノ。さようなら」
深く帽子をかぶったエルダーは、あっさりとそう言った。明日もこの街にいるような雰囲気で、そういったさりげなさでそれは……それは、なんというか。
オレガノとしては、納得がいかない。
「わたしはグルンに行くよ」
口をついて出た言葉に、エルダーが目をしばたく。
「きれいなものが、たくさんあるんでしょ? ……学校を卒業したら、必ず。必ず見に行くから――またね」
そうしてオレガノは、そうか、と思った。姉の信じていたものが何だったのか、そのとき不意にわかったからだ。
声に出した言葉には力が宿る。声に出した言葉には力が宿るのだ、と。
「そっか」
短く相槌を打ったエルダーが、ふわりと微笑んだ。「きれいなものは、どこにだってあるけど――」
「――君が、そうしたいのなら。美味しいクッキーを用意して、待ってるね?」
オレガノもしっかりと笑った。「うん!」
しかし、そんな和やかさは長くは続かない。
次の瞬間には、オレガノの体は海の上に投げ出されていた。
*
「な、あ――」
ボリッジはよろりとした。
海面に浮かんだ巨大な魔法陣。
それが黒い輝きを放つと、船が丸ごと消えてしまったのだ。
――その近くにいた、オレガノを含めて。
*
足場を失って落下するオレガノの手を掴んだエルダーが、為す術もなく階段の外に引っ張られた。それに気付いたディルは甲板を蹴って彼の腰にしがみつき、駆け寄ったヘンルーダはほんのわずかに間に合わず、三人は勢いよく海面に叩き付けられた。
アンゼリカが即座に追い掛ける。
「い、一体何が……っ?」
「大丈夫ですか!? オレガノさん!」
落ちたときの衝撃でばらばらになった三人のうち、比較的そばにいたディルとオレガノの二人は運良く合流することができていた。はぐれないように気を付けながらあたりの様子を確認する。
どうやらここは沖合いのようで、波間にぐらつく大型船の他には青い海しかのぞめない。
「ディル様、しばしお待ちを! このヘンリー、何としてでも皆様をお助けします!」
船上のヘンルーダが声を張り上げ、その身を翻した。
細い紐を取り出したディルは、近くにいたアンゼリカにそれを預ける。
「こっちはオレたちで持ってるから、そっち側をヘンリーに!」
「任せて!」
波の力は想像以上に強かった。天候自体は悪いわけではないのに、となりにいるはずの互いの姿さえ見失いそうなほどである。
何か浮かぶようなものは、と思っていたら、手頃な感じの木の杖がぷかぷかしていた。
「これ、あの子の……」
オレガノが青ざめる。ディルは周囲に目をやった。
*
鼻がつんとして痛い。息がうまくできなくて苦しい。重い体で不格好に水をかくエルダーは、何も見えない闇の中で完全に動転していた。
前も後ろもわからない。右も左もおんなじだ――抗ったって無駄ならば、全身から力が抜けていく。
「エルダー!!」
誰かに腕を掴まれた。両肩を支えられて、げほげほとむせ返る。
「お前、こんなところで溺れてる場合じゃないだろ!?」
「どうしてこんなに冷たいの!? 早く、早く船に……!」
見覚えのある赤色と紫色がぼんやりと揺れて、視界に光が戻っていることに気が付いた。ほとんど強引に木の杖と細い紐を握らされると、晴れていた空がにわかに暗くなる。
「これは……! オレガノさん!」
「海が……!」
ひんやりとした風が吹き、横殴りの雨が降り始めた。
「動かないで! すぐに行くわ!」
「アンゼリカ!? それは!?」
「ヘンリーが持ってきたの!」
遠く、雷鳴が轟く。高い波に飲まれそうなディルとオレガノは、それでも懸命にエルダーを引っ張って、吹き飛ばされそうになりながらも浮き具を運ぼうとするアンゼリカに手を伸ばした。
お前なら、お前なら何とかできるだろ!?
魔法で、ほら、セルリーさんのときみたいに!
助けて――。
「……う、ん」
朦朧とした意識で、エルダーは口を開く。
頭の中に響いたものが、あのときの情動が、エルダーにそれを選択させるのだ。
「何とか、する。僕、が――」
彼はそこで気を失った。
第3章 了