68.巡りの都と歓送の挨拶
「ディル? ねえ、ディルってばっ」
「えっ?」
拗ねたような声にはっとした。
うららかな日の午後、大きな本を開いて勉強に励んでいたはずのバニラが控えめにむくれている。
「ごめん。少し、考えごとをしてて」
「……。グルンのこと?」
「すごいな。当たりだ」
「うん。えっとね、休けいにしてもいーい?」
ディルはもちろんうなずいた。商家の娘として数字に強くなりたいと自ら学び始めた彼女は、ディルが家庭教師に訪れる前から頑張っていると聞く。たまの息抜きはむしろ必要なことだと思えた。
さて、バニラの好きな飲み物と皿いっぱいの焼き菓子を用意してもらうと。
「ひ、ひとつね。教えてほしいことが、あるんだけど……」
やけに深刻な面持ちで、バニラはディルを見つめた。
ひょっとして、自作した問題が難しすぎたりしたのだろうか?
「その……た、タイムさんって、ディルのこいびとなの!?」
予想外の質問に、ディルはうっかり目を点にする。「え、言ってなかったっけ」
黄緑色の瞳がうるみ、誤解を招く答え方だったと気が付いた。「あっ、違う! そうじゃなくてっ」
両手を振って否定したものの、時すでに遅し。
「タイムは妹! オレの妹だから!」
ディルはそのあと半刻ほどかけて、しゃくり上げる少女をなだめることになったのだった。
*
ルバーブによって起こされた騒動の中で草の根ギルドを辞めたディルは、ボリッジの紹介で新しい働き口を見つけて、モガメが歩くような遅さで資金集めを続けている。が、彼がギルドを辞めたことに自分の誘拐が関わっていると知ったエルダーは、正直あまり良い気はしていなかった。
ギルドで借りた寮から近くの宿に寝床を移さざるを得なくなった彼は、眠るまでの時間はエルダーとアンゼリカのところで過ごし、時間になると決まって部屋を出ていった。そうして、翌朝には食事をとるために扉を叩いてくるのだ。
エルダーとしては何の当てつけだという話である。
「お疲れ様、ディル! ……そのベルトはどうしたの?」
今日も今日とて寮にやってきたディルは、見慣れないベルトを腰に巻き、籠に盛られた焼き菓子を抱えた姿でへらへらしていた。
「バニラがくれたんだ。剣を持ち歩くのに使って、って」
「ああ、この部分に剣を吊るすのね。いいじゃない!」
「荷物ばっかり増えていくよね、君」
「そうかあ?」
寮の炊事場に下りて料理を作ると部屋に戻った。「ボリッジはそっちのこと手伝ってるのか?」備え付けの机に夕食を並べつつ、ディルが尋ねる。
「手伝うも何も、僕の受ける依頼にはついてこられないよ? ランクが足りていないから」
「あ、そっか。じゃあ、相変わらずオレガノさんが?」
「うん。最近は海洋魔物もうまく仕留めるんだ」
「いよいよ魔物殺しの域に……!」
三人揃っていただきますをした。肉の腸詰めが入った野菜の煮込みはいつだって美味しい。
「アンゼリカのほうは?」
「あんまり見ないわね。本人はそうとは言わないけど、あたしたちの踏んだ魔法陣について詳しく調べているみたいだから」
「魔法陣か……」
「のめり込むとまともな生活をしなくなるって、オレガノが怒っていたわ」
そういえば、と思った。ボリッジといえばだ。
ベッドの上に置いておいたとんがり帽子から分厚い魔術書を引っ張り出したエルダーは、不思議そうな顔をしたディルにそれを渡した。
「何だよ、急に。サー・アルヴィ著……『赤い悪魔の詩』?」
「バジリコからもらったんだ。ボリッジが随分と欲しがっていたなあって」
「……? えっと、読めばいいのか?」
「あげるよ」
ぽかんとするディルに、エルダーは無言で微笑んだ。
*
「待て待て待て待て! なんであんたがその本を持ってるんだ!?」
「ちょっと、ちかっ……近いわよ!?」
「エルダーがくれたんだ。ボリッジが欲しがってる、って」
「いっ!? い、――いくら出せばいい!?」
「……。そういうことかあ……」
*
かくして、世界五大都市「巡りの都」イェーディーンでの賑やかな日々は、紆余曲折を経ながらも着実に終わりに近付いていた。
怒涛の建国祭から半月と少し。あのあともたくさんの出来事があったけれど、エルダーにとってはそのどれもが目まぐるしく、にこにこしていたら今日だったという感じである。
抜けるような好天と、穏やかに波打つ真っ青な海。
「おおおおお! これに乗るのかー……!」
港に停泊した大型船を前に、ディルが感嘆の声を上げた。
「よくもやってくれたものだよな。仕事が早すぎてかわいげがないぞ?」
唇を尖らせたボリッジに、爽やかな笑みを浮かべた壮年の男が「はい」と答える。「恐れながら、それだけが取り柄の俺ですので。最短の便を押さえさせていただきました」
念願かなってグラス大陸行きの乗船許可証を手に入れた一行は、程なく出港となるその船に乗って、メニーヒュマ大陸をあとにすることになっていた。見送りに来ているのは草の根ギルドのメンバーや、そこで受けた依頼によって知り合った住民たちだ。そのほとんどとの別れを済ませた今、三人のそばにいるのはオレガノ、ボリッジの二人と、グレイッシュホワイトの髪を一つにまとめた男――草の根ギルドランキング第一位「暁のヘンリー」だけだった。
「本当についてくるんだ?」
「もちろんです」
長身のヘンリーを見上げてしみじみとしたエルダーは、ディルが彼を連れてきたときのことをなんとなく思い返していた。
寝床に選んだ宿で交流を深めて、お互いに関わりがあることが発覚したとかいう話だけれども。
「ディル様の妹君に救われたこの命、血縁である方に尽くさんとするのは当然の理でしょう」
そのときと同じ言葉を口にしたヘンリーは、この旅に同行する正当性を改めて主張しているように感じられた。しかしまあ、エルダーにとってはさしたる問題もなし、勝手にすればいいという具合である。
「あんたはニームとよろしくやってればよかったんだよ。こいつらのことはおれに任せてさ」
ディルに体を寄せようとしたボリッジがアンゼリカにはね飛ばされた。
「そういうわけにはいきませんよ。これは俺の責務ですから」
「……」
さらりとしたヘンリーの受け答えに、オレガノが鋭い眼差しを向ける。そのままわずかに振り返った彼女は、胸の高さで握り拳を作り、頑張れ!みたいなポーズをしているニームを一瞥した。
彼がエルダーたちについてくるということは、草の根ギルドに残る彼女とは――。
「いいん、ですか? 挨拶、とか……」
「お気遣い、ありがとうございます。大丈夫ですよ、心配には及びません」
「……そう、ですか」
ヘンリーはあくまでも落ち着いていた。不服そうな様子のオレガノに苦笑しているほどだ。
「俺たちのことより、貴女のことです。ほら」
「え……」
揃えた指先で旅立つ三人のほうを示された彼女は明らかに狼狽えた。アンゼリカとじゃれていたボリッジがするりとそのとなりに戻る。
「ぼ、ボリッジは?」
「伝えるべきことは伝えてあるからな!」
「い、いつの間に……」
おろおろと視線を彷徨わせてまごつくオレガノに、ディルが幼い笑みを見せた。
「今まで本当にお世話になりました!」
まっすぐに言い放ち、頭を下げる。
「オレガノさんのおかげで、オレたち安心してこの街にいられたんだと思います。あの……へへ。楽しかったです! オレは!」
顔を上げた彼は恥ずかしそうに頬をかくと、意を決したようにオレガノに握手を求めた。「よかったら、ですけど!」
ぎこちない動きでそれに応えたオレガノは、途端にきょとんとする。
「あなた、これ。マメが……」
「や、やっぱりわかります!? オレ、全然うまくなくて、ちゃんとした稽古も久しぶりで」
「……剣?」
「はい。もっと頑張ろうと思って」
「そう……」
いつもの仏頂面でつぶやいた彼女は、ディルの手をそっと離した。ふわりと飛んできたアンゼリカが口元を緩める。
「色々あったけど、助けてもらったのは事実ね。ありがとう、って言ってもいいのかしら?」
「う……。痛いところを……」
「もう少し素直になりなさいね。それと、自分のことも大切にするのよ?」
「あなたもね……!」
謎に目配せをした二人の間には、エルダーには理解できない、彼女たちだけの空気みたいなものがあるようだった。
不便とかはないので、特にわかろうというつもりもないけれど……。
「エルダー、次はお前の番だぞ」
ディルに小声で促されて、ああ、と思った。とりあえずで口を開くと、出港準備の鐘が鳴る。
「ヘンリーさん!!」
それはあっという間のことだった。視界の端から駆けてきたニームが、ヘンリーの胸に飛び込んで――。
*
――ヘンルーダの胸に飛び込んだ彼女は、そのまま爪先立ちをすると彼に口付けた。
「えっ、何? 一体何が起こったの?」
そこかしこから黄色い声が上がる中、オレガノの手によって目元を覆われたエルダーがのたのたとそれを外そうとする。
彼女の守りは堅かった。
「待っています! あなたが帰ってくるのを、待っていますから!」
泣きそうな顔をしてそう告げるニームに、ヘンルーダは優しく微笑んだ。
「貴女をこの腕に閉じ込められたら、どんなによかったことでしょう。時という非情な流れが、その冷酷さでもって凍てつくものであったなら」
「ヘンリーさん……」
「そう考えるたびに、俺は我に返るのです。陽だまりのようにあたたかな貴女に、それは不似合いなことだと」
いかんともしがたい気持ちを持て余したディルは、急に襟ぐりを掴まれて「へ?」となる。
嫌というほど味わった、突然の暴力。
「ボリッ――」
体勢を崩すまいと踏ん張った瞬間、耳たぶに激痛が走った。
「い゛っ、だあ!?」
ヘンルーダとニームのやり取りに意識を向けていたアンゼリカは、ディルの悲鳴にぎょっとする。
「ボリッジお前、お前なあ!!」
「ラール式のまじないだよ」
「はあ……!?」
隙を突いて耳を食いちぎろうとしたボリッジが胡散臭いことを言い出した。真偽のほどはわからないけれど、可否についても保証はできないけれど、もしそれが善意だというのなら、断りくらい入れるべきではないのだろうか。普通に痛いし。
「好いものだけが、あんたを救うとは限らないってことさ」
「……誤魔化してないか?」
「お礼のパーティ、楽しみにしてるぞ!」
猫のような目を細めたボリッジは、最初から最後までいたずら好きな小悪魔めいて、どこまでも気まぐれなままだった。