6.悪くない魔法使いと自慢の友達
「ごめんね、セルリー。君も暇じゃないだろうに」
混乱していたディルを落ち着かせるために寝室を出たエルダーとセルリーは、洗濯かごを抱えて森の中にある川に向かっていた。
瑞々しい草木は日の光を浴びてきらきらと輝き、夜の森とは打って変わって明るい顔を見せている。昨晩ディルが怯えていたのと同じ場所にいるなんて思えないほどだ。空気は澄んでいるし、鳥はのんびり鳴いているし――とにかく、エルダーはなんとなくでその違いを感じ取っていた。
ひょっとすると、手が拘束されていないからかもしれない。
エルダーのとなりをゆっくり歩くセルリーは、元々の怖い顔のまま首を横に振った。「そんなことガキが構うんじゃねえよ」
微かに笑いながらエルダーの頭をよしよしと撫でる。
その声が少しばかり沈んでいたことにエルダーが気付いたかどうかはわからないが、目を覚ましたディルの怯えようはそれはそれはひどかったのだ。強面のセルリーを見て青ざめ、今にも泡を吹かんといった様子だった。
あのまま一緒にいてもろくなことにはならないだろうという判断で、二人は弁解することなく、状況説明もすべてアンゼリカに任せてディルの視界から消えることを選んだ。一刻も早くという感じだった。
気を失って目が覚めたら危険だと思っていたものが野放しにされていたなんて、ディルからすれば非常に心臓に悪かったはずだ。ディルはアンゼリカを信用しているようだから、ゆっくり話をしてもらって、安心してもらわなければ先には進めない。家に帰るのが一日二日ずれるだろうけど、エルダーにとっては大差ないことだ。
しばらく歩いて川のそばまでやってくると、エルダーはまず手頃な木の枝を探した。
「ちょっと待っててね、セルリー。お手伝いするよ」
「ああ?」
何日分になるのかわからない量の衣類が詰まった洗濯かごをひっくり返そうとしていたセルリーが、動きを止めて怪訝な声を上げた。エルダーは落ちていた木の枝を拾い上げてにこにこ笑う。
「恩返しをしたいんだ。昨日からずっとお世話になりっぱなしだから、何かしたいと思っていたんだよ」
「そんなの気にすんなって……」
「そんなこと言わないで。僕、魔法使いだから、一気にできちゃうし」
ね? と笑顔で押し切ってくるエルダーに、セルリーは渋々うなずいた。
エルダーは木の枝で地面に円を描いた。セルリーが興味津々といった様子で覗き込んできたので、一応離れてもらうことにする。
必要なものをイメージ。
とりあえず今後のことも考えて杖が欲しい。手が自由になったのだから、そういうものを呼び出しても怒られはしないだろう。それに、物を移動させるくらいなら危険なこともないはずだ。家にあるそのまわりのものをちょっと巻き込んでしまうかもしれないけれど。
魔力を込める。地面からすっと生えるように立つ木の杖を想像する。円が淡く輝く。支点となる場所に罰点を描き足した。
円から発せられていた光が一瞬強まり、次の瞬間にはそこに愛用の杖が――。
「……?」
エルダーは妙な引っ掛かりを覚えながら、それでもそのまま魔法を行使した。なんだろう、この、綱引きのような感覚は。
しかし魔法はうまくいった。光が収まると、目の前には使い慣れた杖が現れていた。
「あ、やっぱり、余計なものまで引っ張ってきちゃった」
魔力の残留の支えを失って倒れそうになる杖を掴むと、その上からふわりと影が落ちてきた。別段驚くこともなく空いているほうの手でそれを取り、首に巻く。そのあと、もう一つ降ってきたものを掴まえると頭にかぶった。
巻き込んでしまったのは、エルダーお気に入りの赤いマフラーととんがり帽子だった。
セルリーが遠くで目を丸くしている。
「セルリー、もう大丈夫だよ。こっちに来て!」
「お、おお」
言いながら、エルダーは次の魔法に取り掛かっていた。杖を振り上げ、当然のことのように魔法を発動。川の水を丸めて水の玉を作り、少しだけ宙に浮かせた。
円や罰点を描くなどの作業をすっ飛ばしたように見えたのだろう、エルダーに近付いてきていたセルリーがぎょっとしている。しかし、エルダーは別にその工程を省いたわけではない。わざわざ杖を使うのが面倒だったため、視線で描いただけのことだ。簡単な魔法ならそれで事足りる。
とにかく杖を手に入れたエルダーはセルリーから洗濯するべき衣類を受け取り、何の苦もなく作業を進めた。水の玉に魔法を追加して回転する力を加え、そこに衣類を投げ込む。すすぐ。そこから水だけを抜いて水気を飛ばしている間にセルリーが木々の間に紐を通し、てきぱき干した。
杖のあるエルダーにできないことなどほとんどない。時間もそう掛からなかった。
それが終わると、エルダーはふうっと息をついて地面に座り込んだ。
森を吹き抜ける風に洗濯物がぱたぱた揺れた。
となりにクマのような大男が腰掛ける。セルリーは座ってもやっぱり大きかった。
「助かったよ、エルダー。こんなあっという間に終わっちまうなんて、魔法ってのはやっぱり大したもんだな」
「お役に立てたかな?」
「そりゃもちろん。ありがとな」
帽子の上から頭を撫でてくる。エルダーはふふっと笑った。
「しかし、お前の魔法はその、普通のやつらが使うのとはちょっと違うみたいだな」
「僕は優秀だからね。なんでもできるんだよ」
頭をなでられながら、ディルはそろそろ落ち着いてきたかなあと、エルダーは考える。
天使の少女が大切にしている、自分と同い年くらいの少年──赤い髪のディル。森の中で手をぼろぼろにしながら火を起こそうとした彼はきっと、魔力に恵まれなかったのだろう。ほんの少しでも魔力があれば、小さな火くらい、魔法で簡単に呼び出せるはずだから。
魔力がまったく無ければ魔法は使えない。生活に必要なものであるはずの魔法が使えないから、ディルは泣きそうだったのだろう。
優秀な魔法使いであるエルダーは、なんだってできる。
エルダーにしてみれば、家に帰るなんて造作もないことだ。道中の不安も特にない。それどころか、セージと同じようにいろいろな景色が見られるのかと思うと、どきどきが帰ってくるくらいだ。
一人でお茶会をしているセージのところに早く帰って。今度は自分が旅の話をする。セージはきっと笑って聞いてくれることだろう。土産には何を用意したらいいだろうか。
「あ?」
ふと、セルリーが声を上げた。エルダーの上に乗せていた手をどけて立ち上がる。
「どうしたの、セルリー」
「あ? ああ、木に何か引っ掛かってると思ってな」
「木?」
太い指が指し示す先、確かに何かがあった。葉と葉の緑の間に、白いものが覗いている。
エルダーはちょっとだけ風を起こして白いものを払い落とし、腰を上げた。
「おっ、なんだこりゃあ? 手紙か?」
セルリーが白いものを拾いながら言う。エルダーはそれを聞いて、その正体に思い当たった。
「それ、きっと、さっきの魔法で一緒に持ってきちゃったやつだ」
確か、机の上にセージから送られてきた手紙が置きっぱなしになっていたはず。それを巻き込んでしまったに違いない。エルダーはセルリーに歩み寄りつつ確信していた。
「エルダーのか。ほらよ」
「ありがとう」
受け取ると、それはやっぱり生成り色の封筒だった。セージがいつも使っているものだ。差出人も「セージ」となっている。なんだかなつかしい気がして開けてみると、そこには覚えのないものが入っていた。
「なんだろう、これ」
封筒の中に入っていた手紙と一緒に、緑の葉を一枚取り出す。こんなもの、入っていたっけ?
とにかく手紙のほうを開いてみた。その中身も、あのとき机に置いておいたセージの手紙のものとは違っていた。あの手紙には内容がびっしり書かれていたはずだ。しかし、この手紙はそうではない。セージの字ではあったものの、短い文章が書いてあるだけだった。
Trevlig resa!(よい旅を!)
エルダーはびっくりした。緑の葉からはすっきりとした、強く懐かしいかおりが漂ってくる。
セージからの手紙。
「……本当、かなわないなあ」
思わずつぶやく。
セージはエルダーに異変があったことを察し、不安定な魔法で杖を引き寄せることを見越して、そのそばにこの手紙を置いておいたのだろう。手紙が魔法に巻き込まれて、エルダーの手元へ届くように。セージはそういうやつだ。
手紙と緑の葉を封筒にしまうと、それを眺めていたセルリーを見上げる。
「友達からね、手紙が届いたんだ。僕の自慢の、友達から」
セージが満足そうに笑う顔を思い浮かべて、エルダーは微笑んだ。