67.ディルとボリッジと祝祭の残光
ディルのおかげでシナモンの手から逃れることができたアンゼリカは、ボリッジと二人で話してくるという彼の帰りを待ちながら、その場を行ったり来たりしていた。
少し離れたところであぐらをかいていたシナモンが「そんなに気になるなら盗み聞きでもすればいーだろー?」とうそぶく。
「なんてこと言うのよ。二人で話すって約束だったじゃない」
「いっつもべったりのくせに、何を今さら」
「どういう意味よ」
「ずーっと一緒にいるのって、約束破るのと似たようなもんだろ?」
小さな天使の小さな翼が心もとなく明滅した。しかし、ターバンの少年がそれに気が付くことはない。
「あーっ! 『巡り火送り』、始まってるじゃねーか!」
にわかに明るくなった窓の外に、顔をしかめて立ち上がったからだ。
「オジョー、今年こそ好きな相手とこれを見るんだ!って意気込んでたの、に……?」
辟易した様子で虹色の光を睨んでいた瞳孔が、丸く大きく開かれる。
「まさか? えっと? そんなわけ……?」
*
いつの間にか、夜空に浮かんでいた光はなくなっていた。
「おれの伴侶になれ」
「へ……?」
ディルは自分の耳を疑った。ぼたぼたと涙をこぼすボリッジの瞳には冷めない熱がこもっていて、それがまったくの冗談ではないということを彼の芯に刻み付ける。
戸惑いばかりが膨らんで、頭がうまく働かない。
「あんたはラールに連れていく」
「待っ――え――?」
「グルンに帰ったって、始まった争いが収まるわけじゃない。それどころか、第一王子にとっても第二王子にとっても、あんたの存在はややこしいものになる。あんたはきっと、殺される」
あまりにも現実味のないその話に、ディルは置いてけぼりを食っていた。
ころされる……? だれが、だれに?
「そんなことしないって言いたいんだろ? でもな、こういうことに本人の意志は関係ないんだよ。まわりがそうするものだから」
混乱の淵に追いやられたディルは、それでも彼女の主張を一蹴しなければならなかった。信じるとか信じないとかの問題ではなく、今ここで反論することができなければ、その通りのことが起こってしまいそうな気がしたから。
「だ……第三王子には、王位継承権なんかないようなものなのに。そもそもオレ、生きてるのに!」
「政っていうのはそういうものだからな。ああ、エルダーとアンゼリカにも部屋を用意させるから」
このままではダメだ。すべてが望まないほうへと進んでしまう。「ごめん……!」
全身に力を入れたディルは、手首を掴むボリッジをその体ごと無理やり押し返した。
「じゃあ、何か? おれはみすみすあんたを帰して、やっぱり殺されましたって話を夜伽にでもすればいいのか?」
「なっ……」
「だったら、殺されない自信があるのか? シュダー街のガキごときにだまされるようなお人好しで、エルダーみたいに桁外れの魔法が使えるわけでもない、凡才のあんたが?」
ぐにゃりとくずおれたボリッジが、のしかかるような形でディルの胸に額を付ける。
「おれはあんたに、あんたみたいな人間に、野垂れ死んでほしくないんだよ」
――彼女はラールの第一王女だ。ディルはそのことを、昨日の夜に知ったばかりだった。
彼女の国では、『赤い悪魔』と呼ばれるものが当代の王を焼き滅ぼすまで、想像を絶する蹂躙が繰り返されていたという。
その目が見たものや、その心が感じたことを、ディルが正しく推し量ることはかなわない。
かなわないのだけれども。
「タイムも……」
あの屋敷でディルと二人ぼっちでいた少女のことを、彼は痛切に思い出していた。
何も言わないまま泣いて、耐えるように泣いて、泣き疲れて眠ってしまったあの子は、まるで。
「――タイムが。タイムが、待ってるから」
あの子に接するのと同じように、ディルはボリッジの髪をなでた。
「そんなの……そんなの、なんで信じられるんだ」
ボリッジはぐずぐずと泣いていた。
自分の失踪が死亡扱いされている理由はわからないけれど、そのせいで争いが起こっているというのなら。
帰らないという選択は、あの子を一人にするという選択は、ディルの中にはありえない。
「おれがこんなに、諭してやってるのに……」
「うん、ありがとな。気に掛けてくれて」
「こうなったら、既成事実を作るしか……」
「うん?」
間近から見上げられて、鳥肌が立った。ぎらりとした青緑色の瞳には、彼をその場に縫いとめるだけの何かがちらついている。
あ、まずい、と思った。
瞬間。
「ディル!!」
両開きの扉が、斜めに割れた。
きらきらとした軌跡を残し、小さな天使がディルの元にすっ飛んでくる。
「あっ、ああアンゼリカ!?」
「さあボリッジ、今すぐそこをどきなさい!! 他でもないあたしの前で、その低劣は許さないわよ!?」
彼女の撒く光の粒を浴びて動けるようになったディルは、ほとんど反射的にボリッジから距離を取った。ばくばくと鳴る心臓がうるさくて、この世界でもっとも悪いことを見咎められたような羞恥心に襲われる。
真っ赤になりながら乱れた髪と服を整えていると、手の甲で涙を拭ったボリッジが天蓋付きベッドに座り直した。
「あーあ、これからってときに……」
「それは大変失礼しました」
穏やかな声とともに、硬いブーツが床を叩く音が響き渡る。
「まあ、あんただよなあ……」
「はい。僭越ながら、俺です」
まっすぐに背筋を伸ばし、淡く輝く剣を鞘に収めた男が深々と一礼した。
*
「殿下」
建国祭二日目の夜。寮の表にある拱門でオレガノとボリッジの二人を見送ったディルは、思わず止めてしまった自分の足をじっと睨んでいた。
「よく、ご無事で――」
安堵と喜びを感じさせるその言葉に、恐る恐る顔を上げる。
「ヘンルーダ……!?」
そのときの男の表情といったら、忘れておいたほうがいいほどの無礼極まりないものだったのだけれども。
*
俺のことは「ヘンリー」と、お呼びください。
物言いたげな視線を即座に隠した彼は、わきまえを知った笑みを浮かべてディルにそう申告してきた。
グレイッシュホワイトの長髪に、濃紺のマント。
碧玉の瞳を持った彼は。
「お迎えにあがりました。で……ディル様」
颯爽と現れた彼は、草の根ギルドポイントランキング第一位「暁のヘンリー」その人だった。
ボリッジの研究室の扉を切り開き、さもありなんといった雰囲気で佇むその姿は、否が応でもそれを認めさせようという覇気に満ちている。
「まったく。扉の修繕費はそっちで持ってくれよ?」
「寛大なお心遣い、感謝します。さて、ボリッジ様におかれましては、ディル様に何を?」
「求婚してただけだけど?」
さらりと答えたボリッジに、ディルのそばを飛んでいたアンゼリカが「きゅう……?」と目をしばたく。
「う、受けたの?」
「受けてないです!」
短く息をついたボリッジが銀の懐中時計を投げ返してきた。「うわっ!?」
「あんたが出てきたってことは、そういうことだな。女を傷つけて楽しいか?」
「返す言葉もありません。償いはこの身でいたしましょう」
「ほんっとうにろくでもない……」
ボリッジと「暁のヘンリー」の間に不穏な空気が漂い始めて、ディルはようやく平静を取り戻した。「あ、あの――」
ふんとそっぽを向いたボリッジは固く口を閉ざし、「暁のヘンリー」は丁寧に膝を折る。
「貴方の国へ帰りましょう、ディル様。……タイム様が、待っています」