65.魔法使いの起床と虹色の明かり
むくりと起き上がったエルダーは、普段と同じ調子で部屋の明かりを点けると、普段と違う光景にうん?と思った。
備え付けの椅子に腰掛けたオレガノが、革の鞄を胸に抱いて居眠りをしている。
「んん……」
まぶしそうに目を開けた彼女は、とんでもない速度でその場から飛びすさった。
「お、おおお、はよう……!?」
「うん、おはよう」
前髪を押さえてもごもごしている。壁に打ちつけた背中とかは痛くないのだろうか。
ディルとアンゼリカの二人はいないらしく、ぴったりと閉められたカーテンの向こう側は暗っぽい。
「えっと……そ、そうだ。ディルたちが食べるものを買ってきてくれていたけど、気になるの、ある?」
そう言って机の上の紙袋を掴んだオレガノが物凄い勢いで突貫してきた。ほとんど破るようにして見せられたその中には、どこで調達してきたのかわからないようなものがぎゅうぎゅう詰めにされている。
「すごい量だね。あの二人はどこに?」
「街を回っているはずだよ。おなかは空いてない?」
「そんなことはないけど……」
というわけで、興味を引かれたものから適当に齧りついた。
「シチビウナギの串焼きか。どう? おいしい?」
「苦い……」
「そっちのカップは、モガメのスープ? あー、滋養のあるものを揃えたんだね」
差し出された白湯で口直しをするエルダーであった。
「ごちそうさま」
軽食を済ませたところで、ふと、まわりが静かすぎることに違和感を覚えた。賑やかなことが常のこの街では、そこかしこから喧騒なり何なりが聞こえてくるのが普通なのだけれども。
不思議と今は、それがない?
「僕ってどのくらい寝てたの?」
答えを求めてオレガノを見ると、彼女は少しだけ表情を曇らせた。
「丸一日」
まるいちにち。……丸一日?
「もうすぐ終わるよ。建国祭」
「!!」
その言葉は決定的だった。めずらしく茫然としたエルダーは、時間ってどうやって戻すんだっけ、みたいなことをふらふらと考える。
誰かと昔、そういう話をした記憶が――。
「最後の行事、参加する?」
唸るような声に我に返った。「え?」
仏頂面どころか怒気めいたものをちらつかせたオレガノが、首元に片手を当て、こちらをじっと睨んでいる。
「体調は悪くないよね?」
「いいに決まってるよ!」
言うが早いか、大急ぎで身支度を整えて寮を飛び出した。
「せっかくだから広場に行こうか」
オレガノに先導される形で歩く街はひっそりとしていた。昨日まで昼夜を問わずにどんちゃん騒ぎだった通りには人っ子一人おらず、魔法灯の明かりも随分と落とされて、軒先にあった飾りなどもきれいさっぱり取り払われている。
この状況でまだ行事が残っているというのは無理がありそうだけれども……。
「あれだけ頑張ったんだから、よくできましたのご褒美くらい、あってもいいよね」
きょときょととあたりの様子を確認していたエルダーは、弁明じみたそのつぶやきにわずかに首をかしげる。「頑張った、って?」
眉をひそめたオレガノが深緑の瞳をぱちぱちとしばたいた。
「だってあなた、ボリッジに捕まってから起こった波も全部、あの花に変えていたでしょ?」
「……」
「頑張ったよ。わたしはそう思うけど」
エルダーにはちょっと、その賞賛が飲み下せなかった。
*
近くの広場はたくさんの光に満ちていた。溢れんばかりの色彩をできるだけ多く視界に収めようと周囲を見回したエルダーは、そこに集まった人々が皆、穏やかな光を灯したペーパーランタンを持っていることに気が付く。
「あれって昨日まで軒先に飾られていた?」
うん、とうなずいたオレガノの手にも薄紫色のペーパーランタンがあった。細くてしなやかな木が骨組みとして使われており、下のほうには針が一本だけ生えた小皿みたいなものが取り付けられている。
いつの間に用意したんだろう、と思っていると。
「あげるね」
有無を言わさない感じで渡された。
「えっと、ありがとう?」
「どういたしまして。わたしもね、この行事だけは参加してほしかったから」
オレガノの分はというと、薄緑色の紙を組み立てているところだった。
「ねえ。あなたの後悔って、なくなったの?」
「へ?」
出来上がったペーパーランタンを大切そうに抱えたオレガノが不意を打つ。「あー」と「んー」の中間くらいの声で返事を濁したエルダーは、ほんのりと苦笑した彼女に少しばかりむうとなった。
どことなくからかわれているような、そうでもないような……。
「あなた多分、ディルのこと大事にしたほうがいいと思うよ」
そんなエルダーの心境を知ってか知らずか、革の鞄から真っ白な棒を取り出したオレガノは「はいこれ、ろうそく」と言ってエルダーの小皿にそれを突き立てた。「しっかり持ってて」
その場にしゃがんだ彼女の魔法でろうそくに火が灯される。ペーパーランタンの内側に暖かな光が広がり、時折揺らめく炎がきらきらとした輝きを作った。
「理由を……」
「ん?」
「理由を教えてくれるかな」
ゆっくりとまばたきをしたオレガノは、自分のペーパーランタンにろうそくを置きながら「うまく、言えないんだけど……」と口ごもった。「……ディルがあなたを、大事にするから?」
それからすぐにろうそくを燃やしてすっくと立ち上がる。
エルダーはしばらくぼけっとしていた。
「あの、そろそろ。……『巡り火送り』、始まるよ?」
戸惑ったように声を掛けてくる彼女の後ろで、飛び抜けてまぶしい金色の光が一つ、夜闇の中を昇っていった。「あれは――」
長く静まっていた街に、軽やかな鐘の音が響く。
「サーラルの建国祭は、冥界の陽妃ジュニパーに繁栄の誓いを捧げるためにあるものなの。夢をかなえる途中でこの世を去ることになった彼女に安寧を、彼女と同じようにわたしたちと別れることになった魂に約束を。そういう……そういうものを込めて、巡り火を送るんだよ」
ふわりふわりと、街中からたくさんの光が舞い上がった。虹の色を散りばめたようなそれは、しかし、エルダーの心を捉え損ねる。
「魂は輪転する。肉体を離れて五十日の間に、次の命と巡り合うための旅に出るんだって」
薄緑色のペーパーランタンを優しくなでたオレガノが、耳慣れないことを語り始めたからだ。
「次の……命?」
「信じられないよね。わたしだって、いつかどこかで会えるなんて思ってないよ。……でも」
まっすぐに伸びた手が、柔らかく彼女を照らす明かりを空高くに掲げた。そっと放たれた光は、時間をかけて、確実に、彼女の元から遠ざかる。
「今度は後悔しないように。そうしたいって、そうするよって約束したら、この気持ちと付き合っていけるような気がしたんだ」
小さな星々を目指して飛んでいく光を、彼女は笑って見送った。その笑顔は朝日を浴びる中で浮かべられたものとよく似ていて、だからこそエルダーは、ようやく理解することができたのだと思う。
「なくならない、の?」
あの重たいものは。後悔とか罪悪感とかいうものは、この胸からなくなることはないのか。
それでもこんなふうに、美しく笑うことはできるのか――。
「期待外れだった?」
肯定も否定もせずに問いかけられて、首を横に振った。
「間違っているなら間違っているって、教えてくれたらよかったのに」
「……横暴だよ、それ」
「あ」
油断した隙に手から力が抜けた。するすると空に昇った薄紫色のペーパーランタンは、数え切れないほどの輝きの中に溶けるように紛れてしまう。
「うわあ、締まらない感じだね」
「う、うーん……」
「ディルたちもどこかで参加してるのかな?」
「……きっとね」
色々あったエルダーの建国祭は、こうして和やかに終わっていく。
その頃ディルは褐色の少女に組み敷かれるなどしていたのだけれども、それはまあそれとして、であった。