63.あの子の心とその子の心
わけもわからないままエルダーをその背に庇ったディルは、彼を囲むように近付いてくる人影に戸惑いの眼差しを向けた。
がっしりした男が一人と、中肉中背の男が一人、長身細身の女が一人だ。
そして、彼らを指揮しているのは。
「捕まえろって……いきなり何を言っているの? ボリッジ……」
付き合いが長いはずのオレガノですら、彼女の真意を測りかねている。
しかし、呆然としたその言葉に返される答えはなかった。
「おいエルダー、今のは何だ?」
詰問するような声がその場の空気を掌握する。「あんたが使ったのは、何だ?」
花びらが舞い散る美しい風景に、険しいという表現では足りないほどの形相をした少女が一人。
「急にどうしたんだよ、ボリッジ。魔法だろ? 普通に……」
「違う! そいつはさっき、円も罰も描かなかった。そのくせ、古式魔法でしか実現し得ないような、あんな大規模なことをやってのけたんだ!」
「そんな大したことは、していないよ……」
眠たげなエルダーがのろのろと口を開く。彼はただ見栄を張っているだけで、魔力の消耗が激しいことはディルの目にも明らかだった。
鼻にしわを寄せたボリッジが、一転してすべての表情を失う。
「そいつを捕まえろ」
「!」
即座に動いたのは中肉中背の男だった。一気に間合いを詰めた彼は、ディルの後ろでぼうっとしていたエルダーを容赦なくねじ伏せる。「痛あ゛っ!?」「エルダー!?」
聞き慣れない悲鳴にディルはかっとなった。
「何してるんだよ!! 放せよ!!」
その勢いのまま掴み掛かる。が、男の力はすさまじく、押しても引いてもびくともしない。「なんで……っ」
彼らのまわりにいた人々は、市場でシナモンが滅多打ちにされていたときと同じようにこちらを遠巻きに眺めるばかりだ。
「ボリッジ!! ボリッジお前、エルダーはみんなを助けただけだろ!? なのにこんな、なんでこんなことするんだよ!!」
「うるさい!!」
ディルの非難を跳ねのけたボリッジは服の裾を固く握りしめていた。感情を抑えることができないのか、紅潮した頬がひくひくと痙攣している。
「おれは……おれはずっと探してたんだ。その魔法使いは、おれが――おれたちが血眼になって探し続けた『赤い悪魔』だ!!」
ひんやりとした風が吹く。呆気に取られたディルは二の句が継げなかった。
エルダーが、何だって?
「猟奇的なことね」
吐き捨てるように言い放ったアンゼリカに、ボリッジの瞳がぎらりと光る。
「そいつらを黙らせろ!!」
がっしりした男の腕が上がった。伸ばされた手をすんでのところで避けたディルは、ボリッジが確固たる信念を持って行動していることに奥歯を噛む。
エルダーが悪魔だなんて、どうしてそんな話になるんだ。そう言って彼女を否定することは、きっと何の役にも立たない。
「ディル!!」
「ふぎゃあ!?」
肩に這いのぼったアンゼリカに耳を引っ張られてよろめいた。視界の端に、ベルト状のものを鞭のようにしならせた女の姿が映る。「うわあ!?」
驚いてたたらを踏むと、そこにいた中肉中背の男にぶつかった。あっという間に羽交い締めにされた反動で、肩口にいたアンゼリカが宙に放り出される。「きゃあっ!?」「アンゼリカ!?」
何回か地面を転がった彼女は素早く体勢を立て直すとかぶりを振った。
「あたしは平気よ! それよりもエルダーが!」
先ほどまで中肉中背の男に捕まっていたエルダーが、がっしりした男に担がれていた。「エルダー!!」
ボリッジの元に運ばれる彼には抵抗する力がないようだった。
「もういいだろ? あんたの大事な友達だ、悪いようにはしないよ」
「悪いようには、って何だよ!!」
「そう、悪いようにはしない。ちょっと持ち帰るだけさ」
まるで自分に言い聞かせているようなその口調に、ディルはぞわりと直感した。ボリッジは本気だ。
このままでは大灯台のときと変わらない。ムング橋のときと変わらない。むしろ、あのボリッジが迷うことなく強硬策に出たということは、これまでよりもっとひどいことになる。
ここで止められなければ、エルダーはきっと、グルンには帰れない。
「放せ、放せってばっ!!」
ディルは無茶苦茶に暴れた。
こんなのはおかしい。絶対に認めるわけにはいかない!!
「――」
アンゼリカが不意に真っ白な翼を広げた。痛々しく変形したそれがディルの目に入った瞬間に、彼女は強く地面を蹴る。「ぎゃっ!?」
短い叫び声が上がった。不格好に空を飛んだアンゼリカが、ディルを拘束する男の喉仏に噛み付いたのだ。
金の腕輪が煌々と輝く――。
「!!!!!」
これはさすがにたまらなかったのだろう。ディルを突き飛ばした男は血の滲む首元を押さえて悶絶した。
垂直に落下するアンゼリカを横からすくったディルは、げほげほとむせ込む彼女を腕に抱き、自分の気持ちが凍っていくのを感じた。
「……ボリッジ」
改めてボリッジのほうを見たディルは、彼女が何かに傷ついていることがわかっても、それを意識のうちに入れないようにした。
アンゼリカの翼が弱々しく明滅する。
「悪魔だか何だか知らないけど、エルダーはグルンの人間だ。……勝手は許さない」
誰のものかわからないような、底冷えのする声が響いた。一瞬だけ怯んだボリッジは、しかし、毅然とした態度を崩すことはない。
「ここはサーラル、あんたたちの国じゃない!! さっさと連れて行け!!」
エルダーを担いだ男がゆっくりと歩き出す。アンゼリカのくれた細い紐を掴んだディルは、胸が潰れそうになる痛みを無視してそれを振りかぶった。
が。
「オジョーの邪魔、すんなあっ!」
死角から現れたターバンの少年に飛び付かれて、狙いが逸れる。「お前っ……」
彼を振り払うために動かした腕に違和感があった。焦点がうまく定まらないけれど、自分のものではない血が付いて――。「傷、が、」
怒りで狭まっていた視界がにわかに広がった。
「オジョーが何してるか、おれにはわかんないけど……でもっ! オジョーはいっつも、一人で頑張ってきたんだ! ずっと、ずっと……だからっ!」
「あんた――」
かすかに震えたボリッジのつぶやきが、ぱしんと。
乾いた音にかき消された。
「……え?」
そこにいた全員が、青天に雷が走ったような衝撃を受けて息を呑む。
「ねえ。……あなたは本当に、何をしているの?」
ボリッジの頬を張ったオレガノが、淡々とした口調で彼女を問い詰めた。
*
この世界には魔法という力があって、それは、正しい工程さえ踏めば誰にでも使えるものだと言われている。
火を起こしたり、明かりを灯したり、できることは様々で、大抵の人がその恩恵を受けたことがあるようなものだ。
しかし、本当の意味での魔法は、そんな単純なものではない。
ボリッジはそう信じていた。
脳裏に焼き付いたあの光景。
一面に広がる炎の海の只中で、微動だにしないあの背中。
砂の妖精に狂わされた王を国土の半分ごと灰燼に帰した、真っ赤な真っ赤な救世主。
あれこそが魔法だ。
あれ以外のものが、魔法であっていいはずがない。
彼女はそう信じて、それだけを信じて、魔法の起源があるとされる街に渡った。
そこにはたくさんの情報があって、彼女は多くの知識を得た。
この世界で魔法と呼ばれているものは「略式魔法」という、二次加工的な力であること。
そして、「略式」というからには元になる魔法があり、それはすでに失われた「古式魔法」であること。
寝食も忘れて調べていくうちに、「古式魔法」というのが魔法陣を用いた魔法であることもわかった。
でも、そこまでだった。
ボリッジの脳裏にはずっと、消えない炎が揺らめいている。
あれこそが魔法だ。あれだけが正しいものだという、陽炎のような思いが。
何を犠牲にしても再現しなければという責があった。
みんなが平等に救われる力を、大きな成果を、最大の償いを。
他でもない自分が、この手で持ち帰らなければ――。
――祖父の敷いた圧政は、自分たちの咎として残り続けてしまうから。
*
オレガノに打たれた頬を押さえたボリッジがぼろりと涙をこぼす。次から次へと、とめどなく。
「おっ、オジョー!?」
「あなたは何もわかってない」
強い言葉とともに睨まれたシナモンがひっと縮み上がった。
泣きじゃくるボリッジがやっとという様子で口を開く。
「なんでだよ……! なんで……おれは、おれはそのために……!」
「ボリッジが頑張ってるのは、わたしだって知ってるよ。だからこそ、こうしているんでしょ?」
そう言いながらボリッジの後ろに回ったオレガノは、彼女の頭を両方の手で挟むと。
「よく見なさい。これが……この惨状が、あなたの選択の結果だよ」
あっさりと、その頸動脈を絞めた。