62.揺れる地面と熔ける鉛
ディルはその場に膝をついた。足元が変にぐらついて――いや、これは。これは地面が、揺れている?
「地動震だ!」
誰かの叫び声が聞こえた。全身にあった気味の悪い揺れが収まると、人々が一斉に動き始める。
「海から離れて!」
「大灯台へ向かえ!」
「防波壁の準備を!」
状況が飲み込めずにいるディルを、ボリッジがぐいと引っ張った。
「答え合わせはお預けだ!」
「あ、ああ……?」
「避難するんだよ、ひーなーんー!」
アンゼリカを抱え直して立ち上がったディルは、ふわふわした足取りでボリッジに続こうとした。
すると。
「ニームちゃん、そっちは危ないよー」
「どいて! ルバーブが船にいるんでしょ!?」
「きみが行ったって、何も」
「どきなさいってば!」
ニームのまわりをキャットニップの猫が取り囲んでいる。そのうちの何匹かは彼女に向かって牙をむき、また、背中に乗るなどしてしつこくまとわりついているようだ。
ああ、ディル! 森が……森が燃えて……!
いやっ! セルリー、いやあっ!
ディルの脳裏にあのときの光景が蘇った。黒い煙がもうもうと空を覆い、赤い炎が森中に広がって、リコリスとバジリコは――感謝すべき恩人たちは、なすすべもなくうなだれる。
それから不意に、なんでだ?と思った。
海から離れて大灯台へ向かい、防波壁を準備する理由は?
「何だ? あれ……」
妙な胸騒ぎを覚えて貨物船のほうを見たディルは、そこにあったものに肌が粟立つのを感じた。
水平線から迫りくる、灰色の壁。
「海が盛り上がってる――?」
低い轟音をともなったそれは、大きな大きな波だった。今はまだ遠くにあるのでわかりにくいけれど、悪天候のときに起こるものでもあれほどでは。
「高い……!」
「防波壁はまだか!?」
「間に合ったとしても、耐えられるかどうか……!」
船が。――街が、飲まれる。
「キャットニップくん!!」
「ごめんね、ニームちゃん。逃げなきゃ」
ディルはとっさにエルダーを探した。
彼はオレガノに腕を掴まれて、よたよたと海から離れようとしている。
「エルダー!」
急に駆け出したディルに、彼の前を歩いていたボリッジはぎょっとした。「おい!?」
「お前なら、お前なら何とかできるだろ!? 魔法で、ほら、セルリーさんのときみたいに!」
「気でも触れたか!? あんな規模の波をたった一人でどうにかするなんて無理だ!」
「そんなことない! できるんだよ、エルダーなら絶対にできる!」
「アンゼリカも止めろよ、これ!」
「研究者が可能性を否定するものではないわね」
「ぐう!?」
三人のやり取りをぼうっと眺めていたエルダーがわずかに目を伏せた。ディルは一瞬だけどきりとする。
もしかして難しいのか!?
「できるけど……」
「やっぱり!!」
「そういうことはしないって、約束したから」
「え!?」
時間がないというのにおかしなことを言い出した。「そういうことって何だよ!?」
思わず食い気味に尋ねると、微笑みながら顔を上げて。
「さあ? 森を燃やして、雨を降らせたことかな?」
とんでもない告白をしくさった。
「森を、燃やす……?」
自分の口から出た言葉が、ひどく遠いもののように感じられる。
森を、燃やす。……森を、燃やす?
「ピャーチの火事は、あなたが起こしたって言うの……?」
アンゼリカの声がくぐもって聞こえた。エルダーは浅くうなずいて、でも、それだけだった。
「こいつら何の話をしてるんだ!? そんな時間はないぞ!?」
「うん。早くしないと――」
もしそれが本当なら、彼の倫理観には重大な欠落があることになるけれど。
しかし、いくら突飛なエルダーでも、何の意味もなくそんなことをするだろうか?
エルダー、お前はきっと優しい子だ。
頼むから、もうこういうことはしないって約束してくれねえか。
セルリーの悲しげな表情を思い出し、ディルはぱちぱちぱちっと気が付いた。
「あーっ、そうか! セルリーさんのためか!」
エルダーがきょとんとする。「そんなの叱られるに決まってるだろ!?」
衝動的に畳み掛けると、その瞳に影が落ちた。
「いいか、エルダー!」
「何だよ……」
「森を燃やすってことは、森を傷つけるってことだ! そんなことしたら、巡りめぐって、最後に自分が傷つく――セルリーさんはただ、エルダーに傷ついてほしくなかっただけだよ!」
「……。僕、に?」
「ああ!」
セルリーは情に厚い男だった。ディルも初めは誤解してしまったけれど、彼は少し不器用なだけで、いつだって温かな心遣いをしてくれていたはずだ。
「だったら、ほら! 今は誰も傷つかない!」
「――」
「安心して助けていいんだ! っていうか、助けてほしいんだ!」
エルダーは動揺していた。困ったような、怒ったような、泣きそうな目をして。
もどかしくなったディルは自分の首元にアンゼリカを座らせると、エルダーの両肩を力いっぱい掴んだ。
「それで責められるようなことがあれば!! オレが絶対!! 味方するから!!」
*
海に向かって杖を構えたエルダーは、流れるような動きで魔法を使った。
ディルに頼まれたというのもあるけれど、受けた恩には相応の礼を返すものだ。
*
「は――?」
唖然とするボリッジをよそに、海上に真っ青な壁が現れる。
「おお、あれってピャーチの!」
「こんなところでどうかな……って、あれ?」
ディルが歓声を上げた瞬間、エルダーの呼び出した壁が中程から崩れた。彼自身もびっくりしたような顔をしているけれど、巨大な波は速度を落とすことなく陸地に迫ってきている。
激しい揺れに港の船がぐらつき始めた。
「エルダー!?」
「そうだね。もうすぐ着いちゃうね」
「うおおおお!? と、とにかく、ええと、他のものに変えるとか!? ふわふわしたような!!」
「ふわふわ?」
「何でもいいからー!?」
再び杖を構えたエルダーは、ふっとまぶたを下ろした。理解不能なその行動に、ディルの思考は停止しかける。
「うん。今度こそうまくやるよ」
目を開けたエルダーがにっこり微笑んだ。
*
その日に起きたことは、歴史的な出来事として人々の記憶に刻まれることになるのだけれども。
あまりにも美しいそれは、「『祝光の三日間』の二日目に愛のしるしを交わした者は永遠に結ばれる」といった感じの言い伝えを残したとか、残さなかったとか。
まあ、そんなふうであった。
*
雲間に光が差した。
ふわりと舞った花々から、すっきりとした香りが広がる。
「え」
雪崩のように押し寄せたピンク色の花に、ディルたちはあっという間に呑み込まれた。
海も、船も、港も。近くの大通りまで。
「……っ」
予想外の重みに息を詰まらせたところで突風が起こった。空高くに吹き飛ばされる花弁と、ぼんやり立ち尽くすオレガノの横顔――。
「……これなら、いいんだよね?」
ディルははっとした。あの壁のような波を、エルダーがすべて、ピンク色の花に変えたのだ。
「ああ、ああ! すごい、エルダーはやっぱりすごいよ!」
「うん。……うん?」
「!? エルダー!?」
少しふらついたエルダーが木の杖を支えに体勢を立て直し、ディルは内心ひやりとした。事件に遭ったばかりの彼に助けを求めたのは自分だけれども、かなりの無茶をさせたのだといういたたまれなさが込み上げてくる。「あの、えっと、」ごめん、と謝りかけた、そのとき。
「わあー……!」
「花が、降ってる……!」
「きれい……!」
そこかしこからそんな言葉が聞こえた。周囲を見回したディルの目に映ったのは、笑顔だ。
誰もがほっとして、先ほどまでその場を支配していた緊張から解き放たれている。
「……ありがとな」
小さくあくびをしたエルダーは「うん」と答えて海を眺めるように顔を逸らした。
しかし、そうして息をつけたのは束の間のことだった。
「そいつを――その魔法使いを、捕まえろ!!」
突然飛んだ鋭い声に、近くにいた三つの人影が動き出す。驚いたディルが見たのは、エルダーをまっすぐに指差すボリッジの姿だった。