5.ディルと夢と天使の導き
英雄の冒険譚に憧れていた。
剣を持って戦う勇者はいつだって強くて、格好良くて、たくさんの人に囲まれていた。
色々なところを信頼できる仲間たちと一緒に歩いて、怪物をやっつけて、みんなに感謝されていた。
想像するだけでまぶしかった。
でも、自分の現実は違う。
屋敷にこもって勉強、勉強、勉強の毎日だ。
剣を振ることはあったけれど、才能なんてなかった。すぐに意味のないことだと引き離された。
理想と現実は全然違っていた。
しかし、そんなものを受け入れられるほど、少年は大人ではない。
これは、どこにでもある話だろうか。
そんなどうしようもない気持ちは、陳腐なものなのだろうか。
*
退屈な毎日についに耐えられなくなった少年は、こっそり町に出ることにした。一人で出掛けるのは危険だと口を酸っぱくして言われていたものの、やると決め込んだ彼はそんな言葉を守らない。
それでも一応念のためを思って小銭はポケットに入れておいた。こそこそ立ち回り、屋敷を出て、おっかなびっくり町の中心部を目指した。
緑の国グルンの城郭都市ノル。
牧歌的な景色の中に密集した家々が作るその町は石の城壁で囲まれている。
少年はその町をいつも高いところから見下ろしていた。整った通りや人々の集まる広場、きれいに並ぶ屋根。煙突からのぼる煙。そこにあるのは間違いなく生活だった。たくさんの人の、生きている景色。
今はそこに自分もいるのだと思うと、少年ははしゃがずにはいられなかった。
あのミニチュアの中に自分が。すぐ近くにあったのに知ることのなかった景色の中を、自分が歩いている。
少年は浮かれた。
どの通りを覗き込んでも、その先にあるのは未知の世界だ。これはまるで、まるでそう、少年が焦がれた物語によく似ている。
冒険。少年がそれに気が付いて息を飲んだ、そのときだった。
「ちょっと、止めなさいよ! こっちに来ないでっ!」
町の雑踏の中、そんな声が聞こえたのは。
少年はもちろんどきどきした。街角をいくつか曲がって、声の主のいるところまで辿り着いた。
彼女はとても小さかった。野良猫に囲まれ、地面にへたり込んで、泣きべそをかいていた。
その背中からは真っ白な羽が生えていた。
少年はその日、天使と出会った。
天使の少女アンゼリカに出会ってからというものの、赤い髪の少年ディルは、暇さえあれば屋敷を抜け出すことが多くなった。その足はノルだけでなく町の外の街道へと伸び、時間があるときはとなりの町に出ていくことも増えていった。
革でできた丈夫なバックパックを背負い、ポケットの付いたベルトを巻いて、歩きやすい靴でどこまでも。
アンゼリカといればどこにだって行けるし、なんだってできる気がしていた。
ノルの東西南北にある町を順に巡ろうということで、まず初めに一番近くにある西の町エットを攻略した。攻略と言ってもグルン自体がそれなりに治安のいい国なので観光という形になる。日を分けて町を一巡りし、あらゆる路地を回り、町の人たちと話して。ディルは大満足だった。
次に目指したのが北の町トゥヴォーだ。
異変はそこで起こった。
町に足を踏み入れた途端にアンゼリカが妙な気配を察知して緊張し、どこかを睨み付けたのだ。アンゼリカは言った。「悪いものの気配がする」と。
町の人に話を聞き、アンゼリカが気配を感じた方角には黒い森があるらしいことを知った。そして、そのそばに住む変わり者の魔法使いの噂も。
そこから先はご存知の通りである。
ディルはアンゼリカさえいればなんでもできると思っていた。
悪い魔法使いを捕まえればあなたは英雄になれると聞いて、胸がどきどきした。
アンゼリカから丈夫な紐をもらい、意気揚々と噂の魔法使いを捕らえに行った。
奇襲をかけた先にいたのは、ミルクティー色の長い髪の毛を細い三つ編みにした少年だった。自分と同い年くらいに見えたので戸惑ったけれど、相手は魔法使いだし、アンゼリカが油断ならないといった態度だったのでディルもそれに倣った。
そのあとでまさか魔法陣を踏んで、どこだかわからない場所に飛ばされてしまうなんて思いもよらず。
すぐに帰れると思って。
一晩やり過ごせば平気だと考えて。
結果は……。
*
アンゼリカのにおいがした。
ぽかぽか温かい日向のにおいだ。
さっきまで暗かった世界が一気に明るくなる。
「ディル!」
まぶたを上げると、そんな声が聞こえてきた。きれいな声。天使の声だ。
ちょっと視線を動かした先に彼女の顔があった。
「……アンゼリカ」
「ああ、よかった! やっと目を覚ましてくれた!」
「うおっ」
顔に抱き付かれても困る。
アンゼリカを離すために右手を動かそうとして、そこにぴりっと走った痛みに顔を歪めた。
「痛っ」
「ディル!?」
途端にぴょんっと飛びのいたアンゼリカが不安そうな顔をする。
横たわったまま、どうしたんだろうと思って右手を目の前に移動させる。それは真っ白な包帯でぐるぐる巻きにされており、ディルは少し混乱した。どうしてこんなことになっているんだろう。
包帯をはがそうと思って左手を動かし、そちらにも同じ痛みが走ったところでやっと思い出す。
火起こしのときに擦りむいた傷が痛んでいるのだ。
そうだ。あのとき、大柄な男が。
手のひらが痛むのも構わずに両手を付いてがばりと起き上がると、アンゼリカがさらに飛びのいた。
「ディ、ディル、調子はどう?」
「そんなことよりアンゼリカ、大丈夫か!? あれ、あの男は!」
「え、えっ? 男? せ、セルリーのこと?」
「っていうか、ここどこ!?」
アンゼリカが慌てる。ディルをなだめるように光をまいて近付いてきた。「大丈夫よ、安心して……」
と、そこで開く扉。
「あ、起きたんだ。おはよう、ディル」
柔和な笑みを浮かべて現れた少年の姿に、ディルの理解は追い付かなかった。
「お前、悪い魔法使い!? あれ、なんで!」
「おお、やっと起きたか。気分はどうだ」
エルダーの後ろからひょいっと出てきた、強面髭面セルリーの追い打ち。
「な、な、な……?」
病み上がりというわけではないけれど、起きたばかりのディルには刺激の強いコンビだった。
目を白黒させながらエルダーとセルリーを見て、なんだか泣きそうな情けない顔でアンゼリカに答えを求める。彼女はディルに寄っていき、その額をそっとなでた。
「大丈夫よ、ディル。安心して。彼らは悪い人間ではないわ」
光の輪に照らされたアンゼリカの微笑みは慈愛に満ちていた。ふわ、とピンク色のリボンが揺れる。
彼女のまとう光に触れて。
ディルはそれでも少し、泣きそうだった。
*
英雄の冒険譚に憧れていたのだ。
剣を持って戦う勇者はいつだって強くて、格好良くて、たくさんの人に囲まれていた。
色々なところを信頼できる仲間たちと一緒に歩いて、怪物をやっつけて、みんなに感謝されていた。
想像するだけでまぶしかった。
想像するだけで、まぶしかったのだ。