51.助ける舟と助けられる舟
魔法学校をあとにしたディルは、ボリッジの後ろをとぼとぼ歩いてオレガノの姿を探していた。「オレも一緒に謝るよ」と言った手前、あの場で別れてさようなら、なんてことはできなかったのだ。
「なんだかなあ……」
昼下がりの街を彷徨うディルの頭の中には、研究室を出る際に叩き付けられたボリッジの言葉が響いている。
あくまでもしらばっくれるつもりなんだな。それならそれで、話が早い。
おれは今まで通りの態度であんたたちと接するよ。オレガノがあんたたちのことを信じてるなら、嘘をついてるって疑ったことを謝って、本当だって認めたふりをする。オレガノが満足するまで付き合う。
だけど、絶対に信じないからな。路銀か何か知らないが、必要なものが揃ったらさっさとどこかへ消えてくれ。
「いいじゃない、下手に構うことないわよ。上辺だけでも協力はしてくれるんでしょう?」
「それはそうなんだけどさあ……」
アンゼリカの割り切り方はちょっとあくが強い気がする。ディルとしては身に覚えのないことで嘘つき呼ばわりされるなんて納得がいかないし、時間が経てば経つほど空しくなってくるのだけれども。
「嘘じゃないって証明しようにも、手段がないもんなあ……」
「それはもうあの子の問題よ。あたしたちは事実を話しただけなんだから」
「けどさあ……」
そんな感じのやり取りをしているうちに、いくつかある市場の中の一つに差し掛かった。建国祭が近いからか、見たこともないような人だかりができている。
「賑やかだなあ……」
遠い目をしてそうつぶやいた瞬間に、そちら側からわっという声が上がった。
「いってえな! 離せよっ!」
「離すわけないだろ、この盗人が!」
「おれは何も盗んでねーって言ってんだろ!?」
明らかに不穏な会話が聞こえて、ディルは思わず足を止める。
「……何だろ?」
アンゼリカと顔を見合わせていると、数歩先にいたボリッジがちらと振り返った。
「放っておけ。どうせ、シュダー街のガキがへまして捕まったんだろ」
冷たく吐き捨てた彼女は、人混みを避けるように大回りで通りを抜けようとした。その行動がまったく腑に落ちないディルは、人垣の向こうに覗いた小さな影に「ん?」と眉をひそめる。
薄汚れたぼろぼろの服に、ターバンのような布……。
「あの子、どこかで会った気が……?」
既視感を覚えて記憶を探る。
「そもそも手抜きすぎんだよっ、こんなふうに並べて! これじゃ盗ってくれって言ってるようなもんじゃねーか!」
「その口ぶり、やっぱりお前が犯人か!」
「ちっげーよ! おれはここのところ盗みなんかやってな……げっ!?」
「あっ!?」
店主らしき男に首根っこを掴まれて暴れる少年と目が合ったディルは、そこでようやく、彼とどこで会ったのか思い出した。
イェーディーンにきた初日だ。ディルのバックパックからメドゥスイートの餞別をかすめ取ろうとした、シュダー街の少年!
「あのときのすりじゃない!」
「げええっ!?」
同じ結論に辿り着いたアンゼリカの一声で、その場のざわめきが大きくなった。野次馬たちが左右に分かれ、少年の元までぱっくりと視界が開ける。
「なーにが『盗みなんかやってない』だ!!」
「ちっ、ちがっ、ぐえ゛っ!?」
「なっ!?」
男にぶたれた少年が地面に転がった。頰が切れ、鼻からどろりとした血が流れる。
「えっと、あの!? それはさすがにやりすぎじゃ……!?」
「ああ? こういう汚ないガキはなあ、体に覚えさせなきゃまたやるんだよ!」
「でも……!」
ディルの制止は届かない。男はこちらを一瞥しただけで、むせ込んで動けない少年を滅多打ちにし始める。
「ゔっ!」
「さあ、二度としないって約束しろ!」
「おれは盗ってな、ぐゔっ!」
まわりの人々はそれを遠巻きに眺めるばかりだ。
「死んじゃわないかな?」
「どうだろうねえ」
「止めたほうがいいんじゃないの?」
言葉の上では心配しているのに、みんながみんな、傍観者の域を出ない。
「何だよ、これ……」
ディルは拳を握り込んだ。
喉が詰まって、苦しくて。でも、それよりも胸くそが悪かった。
「なんで、誰も……」
小さな少年に向けられる無遠慮な視線も、奇怪なものを前にしたときのような目も。
そんな、そんなものは。
「まさか、割って入るつもりか?」
今にも飛び出しそうだったディルは、強い力で肩を掴まれてがくんと体勢を崩した。「ボリッジ……!」
温度の感じられない瞳がディルを見下ろす。
「自業自得だろ? そういうふうに思われる生き方をしてきたあいつが悪いんだ」
「――」
――信じられなかった。
嫌悪感に襲われたディルは、震えるその手を容赦なく振り払う。
「あんな……あんな小さな子が、好きこのんでそんな生き方するもんか!!」
「!」
真っ先に脳裏をよぎったのは幼い少女の笑顔だった。あの子もあの少年と同じような年頃で、暗くて冷たい屋敷の中で、それでも笑っていようとした。
「他の家に生まれていれば……あの家にさえ生まれなければ、もっと幸せに過ごせたかもしれないのに……」
ボリッジが口にしたことは、それが彼女自身の選択によるものだと非難しているのと変わらない。
目の前の少年を通して慈しむべき少女のことを蔑ろにされたと感じたディルは、知らず知らずのうちにボリッジのことを睨み付けていた。
「オレガノさんが言ってたよ。シュダー街にいる人たちは、選べなかったんだって……。あの子には、それ以外の方法がなかっただけだろ!?」
ディルは騒ぎの中心に駆け出した。
「やめてください!!」
店主の男と小柄な少年の間に入り込み、できるだけ大きく両手を広げる。
小柄な少年は満身創痍で、店主の男は頭に血でものぼっているのか、真っ赤な顔をして荒い息を吐いた。
「なんだ、さっきの小僧か。やけにこいつを庇うみたいだが……ひょっとして、仲間なのか?」
低く、胃に響くような威圧感のある声に体の真ん中がぎゅっとなる。ボリッジに言ったことを撤回する気はないけれど、怒りに染まった大人というのは想像以上に迫力があった。「違います、けど……!」
それでもディルは引くわけにはいかなかった。自信を持ってと微笑んでくれた彼女のことを思い出して、心を奮い立たせる。
自分の取った行動は間違っていないと信じたかった。
周囲の人々が、誰も手を貸してくれなくても。
「ディル」
となりに舞い降りたアンゼリカの翼が淡く輝く。
「あなたの勇気を踏みにじらせはしないわ」
大丈夫、落ち着いて。
大丈夫、堂々と胸を張れ。
深く息を吸い込んで、頭の中で繰り返す。
貴方がすべきことは、毅然としていることです。
何故ならそれは、貴方に与えられた権利であり。
貴方が果たさねばならない、義務なのですから。
昔から、鬱陶しくて聞き流していた言葉だ。不意に蘇ったそれに、気持ちがすっと収まった。
「……盗んでないって、言ってるじゃないですか」
自分でもびっくりするほど冷静な声が出た。感情的だった男の瞳に動揺の色がちらつく。
「何を、急に……そんなの嘘に決まってるだろ?」
「盗まれたものって、何ですか?」
「ああ……?」
ディルの質問に不快そうに眉をひそめた男は、渋々といった様子で近くにあった店先のざるを指差した。まわりに陳列された商品からして、新鮮な魚でも並んでいたのだろうけれど……。
「なくなったものは、回収できてるんでしょうか」
期待せずに尋ねたところ「そんなの知るわけないだろう!」とわめかれた。そういう反応をするということは、彼は恐らく盗みの現場を見ていないのだ。
「とにかく! ごっそり持っていかれたんだよ、このガキに!」
「だ……っから、おれは……盗ってなんか……!」
「黙れ! どれだけ損失が出たと思ってるんだ!」
そうは言っても、男に打ちのめされた少年は明らかに何も持っていないし、メドゥスイートの餞別に手を出したときのように服の中に物をしまっていたとしても、あれだけ体を殴る蹴るされたら発覚して然りな気がする。
だいたい、この男にそんな話が通じるだろうか?
「うーん、逆上されて終わりそうだなあ……」
「あ? 何か言ったか?」
「えっと、はい。利益に繋がるものがなくなったら、ひとたまりもないなあって……」
「そうだぞ! それがわかってるなら引っ込んでろ!」
しかし、正攻法で収拾が付かないとなると、奇襲を掛けるしかないか?
考え込むディルは、ここにエルダーがいたらなあ、と思った。エルダーならきっと、みんなの度肝を抜くような行動に出て、最後は魔法でばーんと解決するに違いないのに。
……その場合、二次災害と呼ぶのもおこがましい、別の被害が生じるかもしれないけれど。
「ないものねだりをしても仕方ない、よな……」
ディルは一か八か、今の空論からひらめいたことを実践するために口を開いた。
「ところで、ここに並んでる魚なんですけど」
「ああ? さっきからごちゃごちゃと何なんだよ、お前は!」
「全部もらっていいですか?」
「……は?」
虚をつかれた男は物の見事に唖然とした。おお、掴みは悪くなさそうだ。
「じっと見てたら、おなか空いてきちゃって。どれも美味しそうなので、今晩のメインディッシュにしようかなって」
「お前、いきなり何を言って……?」
「いくらですか?」
畳み掛けたディルはエルダーの真似をしてにっこり笑った。怒鳴られるか?と身構えたものの、男の気勢はそれで大きくそげたらしい。ぼろぼろの少年も変な顔をしてディルを見上げている。
大量の魚が詰め込まれた籠を受け取り、聞いた金額より多くの金貨を手渡すと、男の表情が曇った。
「……何だ、これは。お前、まさか」
「なくなった品物の代金、払わせてください。だから、そこにあったものは売り切れたと思って、勘弁してもらえませんか?」
「なっ……」
目を丸くしたのは小柄な少年のほうだった。
「あんた、ばかにしてんじゃ……っ」
「それはお門違いってもんだぞ、小僧!!」
激しい怒号を浴びせられ、ディルはぐっと踏ん張った。うう、エルダーっぽくどさくさ紛れに解決するのは難しいか……!
「俺がしてるのはそんな単純な話じゃないんだ! このガキが、二度とふざけたことをできないように――」
肩を怒らせた男の背中がとんとんと叩かれる。「ああ!?」
「横から失礼しますね? 店主殿。遅れてきた部外者が水を差すようで大変恐縮なのですが、私はそちらの少年の提案を飲むのが得策かと思いますよ?」
そこにいた眼鏡の男が柔和に微笑むと、周囲の野次馬たちが一斉に沸き立った。