46.魔法の檻と憂鬱の霧
マントを翻して風のように夜の街を駆けていた男が、とある小料理店の前で足を止めた。
呼吸と一緒に乱れた髪と服を整え、涼しい顔をして扉を開く。
魔法灯によって控えめに照らされた店内はこぢんまりとしており、男はすぐに目的のテーブルを見つけることができた。
「お待たせしました、ニームさん」
「ヘンリーさん! お疲れ様です、怪我はないですか?」
慌てて席を立った女に心配され、その場で軽やかに一回転する。
「はい、この通りぴんぴんしてますよ。お時間を作っていただいたのにすみません」
「そんなこと! ヘンリーさんは頼りになりますね」
賞賛の言葉に思わず笑みがこぼれる。同じように表情を緩めた女の腰に手を添えた瞬間、鈍い地響きとともに、店全体が大きく震えた。
「きゃっ!?」
「ニームさん!」
よろめいた女をとっさに支えると、続けざまに二回、三回と地面が揺れて、男のまとう雰囲気が険しくなる。
「地動震……? いや、これは……」
*
頭上に出現した金属製の檻がまっすぐに落ちてくる。尖った柵が石畳に突き刺さり――それより早く飛びすさっていたオレガノは、土煙がもうもうと立ち込める中、思いっきり舌打ちをした。
ベラドンナに気を取られているうちに、エルダーに魔法を使われたのだ。
「な、んで……!?」
ディルの動揺しきった声が聞こえる。ベラドンナの魅了攻撃を受けたはずなのに、彼は不思議と彼女の傀儡になっていないようだった。
しかし、オレガノはすぐにその理由に気が付く。
ベラドンナは混血だから、魅了の力もそんなに強くないんだってさ。
具体的には? 具体的には、うーん……。ああ、他のやつのことが好きな男には効かないらしいぞ?
何かの拍子にボリッジが教えてくれたことが、その答えだ。
「お姉ちゃん……」
とんだ皮肉だと思うけれど、あんな姿の少年を二人も目の当たりにするのは正直きつい。どう転んでも外れしか引けないなら少しでもいいほうに考えるべきだ。
へたり込むディルのとなりまで下がったオレガノは、苦虫を噛み潰したような顔で周囲の状況を確認する。
「オレガノさん、エルダーが!」
「しっ。あの子、わたしたちを足止めするつもりだ」
「どうして……!」
「あの女の魅了にまんまとやられてるからだよ、危ない!」
「おわあ!?」
一斉に呼び出された檻が休む間もなく降ってくる。隙だらけのディルを細い路地に突き飛ばしたオレガノは、できるだけ穏便にエルダーを無力化する方法を探そうとした。
が、容赦なく魔法をぶっ放してくる相手に生ぬるいことなどやっていられない。
「とにかく後ろに回り込まないと――そうだ! あなた、さっきみたいにわたしを運んで……って、え?」
オレガノはぎょっとした。ディルの影に隠れていたアンゼリカが、いつも強気で怖いもの知らずな彼女が、血の気を失ってがたがたと震えている。
「ちょっとそれ、どうしたの!?」
指摘するとディルまで狼狽え始めた。「アンゼリカ!? どうしたんだよ、アンゼリカ!」
翼の光を弱々しく明滅させた彼女はうわ言のようなつぶやきをぶつぶつと繰り返すばかりで誰の呼び掛けにも反応しない。
「……あなたはその子と一緒にいて。あっちはわたしが何とかするから」
即断したオレガノは懐から取り出した短剣を地面に突き立てると素早く円を描いた。「オレガノさん!?」
完全に錯乱しているアンゼリカのことは気掛かりだけれども、完全に掌握されているエルダーのこともまた放ってはおけない問題だ。
ぶわりと発生した霧があたり一帯を目隠しする。
「勘違いは、しないでね。……これはただの適材適所、だから」
念のために断ったオレガノは、ディルとアンゼリカの二人を置いて霧の中に飛び込んだ。
*
目の前に広がる深い霧を見ていたら、ディルはふっと冷静になった。
ディルくんはそれを誇っていいのよ。
私はそれを、尊いものだと思うわ。
おぼろげなその声は、ディルのやるべきことをはっきりさせる。
「アンゼリカ」
彼女は何かに怯えていた。小さな体をそっと抱きかかえたディルは、震える背中をできるだけ優しく支えながら、どうすれば彼女が安心できるのか懸命に考える。
「オレ、アンゼリカの怖いものが何なのか、わかんないけど。でも、今度はちゃんと守るから。大丈夫だからな」
答えがなくても、ディルはきちんとアンゼリカのそばにいようと思った。
彼女がいつも、そうしてくれるように。
*
膨大な量の魔力を持っているからといって、手当たり次第に広範囲の魔法ばかり使うなんてあまりにも短絡的だ。都合よく足を掛けられる場所を探して檻の上によじ登っていたオレガノは、同じ調子で近くの建物の屋上を目指しながら、虎視眈々とエルダーの弱点を分析していた。
魔法の霧による目隠しと檻の落ちる音でこちらの動きは読まれずに済んだのだろう、それなりに高い視座を確保すると身を低くし、改めて眼下の様子を窺う。
寮のまわりはぐちゃぐちゃだった。水路も陸路も関係なく降り注ぐ大きな檻で道は塞がれ、舗装もほとんど壊れてしまっている。
「ひどい……」
幸いなことに怪我人は出ていないらしいけれど、それはそれとして、エルダーとベラドンナの姿はすぐに見つかった。
仲睦まじく手なんか繋いでどこかに行こうとしているところだ。
世界には、きれいなものがたくさんあるから。
帰ったら自慢するんだ。面白いものを見たよ、って。
ねえ、オレガノ。やっぱりきれいだよ、世界は。
「……絶対に、許さない」
オレガノは慎重に矢をつがえると、全神経を集中させた。
天に向かって弓を引き、最短距離を飛び降りる。
「うわあ?」
「あら、乱暴ね?」
地面に刺さった矢が二人の注意を引いているうちにエルダーの背後を取った。「ぐえっ?」無防備な首元に腕を回して容赦なく絞め落とす。
「すごいわ、どこから出てきたの?」
目を丸くしたベラドンナは感心しているようにも見えた。気絶したエルダーを抱えて彼女から離れたオレガノは、抜き身の短剣を構えて眼光を鋭くする。
「この子に二度と近付かないで」
しかし、その程度の脅しでベラドンナが怯むことはなかった。
「可愛いのね? 彼に片思いでもしているの?」
「そういうのじゃないから。わたしの話を、」
「人間、素直が一番よ? 捻くれてから気付いても遅いんだから」
ダメだ、らちが明かない。彼女と交渉できるような材料があるわけでもなし、このままでは同じことが繰り返されるだけだと歯噛みしたところで。
「これは一体何事ですか?」
ベラドンナの首筋にすらりとした長剣が突き付けられた。
「まあ!」
「動かないでください」
彼女の後ろに立っていたのは壮年の優男だった。低い位置で結ったグレイッシュホワイトの長髪と、使い古された濃紺のマントが夜風になびく。
ちらりとエルダーを一瞥したその瞳は碧玉のようだった。
「俺が推測するに、ですが。……ベラドンナ、貴女、そこの少年を拐かそうとしましたか?」
オレガノは静かに息を呑む。予想外の展開だ。
「拐かすなんて、人聞きの悪いことを言うのね? 私はただ、エルダーくんに力を貸してほしかっただけよ?」
「……」
男は剣をどけない。ベラドンナも悠々とした笑みを崩さずにいるし、このまま膠着状態に陥るかと思いきや――。
「もう、そんなに見つめないで?」
――積み上がっていた檻のうちの一つが、何者かに押されて横転した。「!」
男の注意が逸れた瞬間に、
「私と一緒にいたら、ただじゃ済まないわよ?」
袖口から出した鉄扇で彼の剣をはねのける。「っ!」
この女、エルダー以外の人間にも魅了を使って、いざというときに備えていたのか!
「お気遣い、痛み入ります。ですが、彼女なら信じてくれるでしょう」
「……。嫌に余裕があるのね?」
「はい。そうならなかった時は、生涯を賭けて誤解を解く心積もりですから」
幸せそうに苦笑した男に、ベラドンナはガシャンと鉄扇を取り落とした。
「わ……悪ふざけが、過ぎるわ……?」
そしておもむろに、両手を上げる。
「大体……大体よ? 貴方が首を突っ込んでくるなんて、聞いてないのに……」
「それは、ええ。日取りが悪かったと諦めてください」
「信じられない言い草ね……?」
先ほどまでの勢いはどこへやら、すっかり元気を失った彼女は遠くを見つめてかぶりを振った。
「……分かったわ。この件からは手を引きましょう」
恨めしそうなベラドンナに対して、爽やかにうなずいた男はあっさりと剣を収める。
「大嫌いよ? ヘンリー。……良い夜を」
色めいた笑みを残し、ベラドンナは去っていった。
*
魔法の霧がうっすらと晴れてきた頃。
「あの……」
そろそろと短剣を下ろしたオレガノは、あくまでも穏やかな顔をしている男の様子を控えめに窺った。
「ああ、もう大丈夫ですよ。彼女の力は一時的なものですから」
目元に笑いじわを浮かべた男は流れるような動きでエルダーを引き取ると、手早く気付けを施す。
意識の戻った彼はぽけっとしており、何かを探すように視線を彷徨わせていた。
「……調子はどう?」
薄紫色の瞳に、自分の姿が映る。
「君に狙われた獲物は、大変だね?」
「……」
どうやら問題なさそうだ。今のところは、だけれども。
「ベラドンナは癖は強いですが、約束したことを破ったりはしませんよ」
「でも……」
「俺が保証します」
掛けられた声はほのかに優しく、オレガノの心は不思議と落ち着いていった。
「……ありがとう、ございます」
「礼には及びません。その代わり、ええと――後片付けは任せても?」
ぐちゃぐちゃになった街並みにはっとしたオレガノは、慌てて首を縦に振る。
颯爽と踵を返した背中を見送り、エルダーのほうを向いた。
「何があったの? どうしてあんなのに捕まったの」
「どうして、って……温かくて、ふわふわしていたから?」
「……」
何が、と聞くのはなんとなくやめておいた。
「そうじゃなくて。手段の話」
「手段? それなら多分、君がやったみたいに、死角から気絶させられたんだよ。目が覚めたら両手を縛られていたからね」
大量にある檻の山を得意の魔法で処理する彼は、まるで何事もなかったようにのほほんとしていた。壊れたものが直されていくうちに、もしかして夢でも見ていたのではないかと思いかけたオレガノは、一瞬でも安堵した自分に激しい嫌悪感を覚える。
あの男の助けがなければ。
もっと強い相手の害意にさらされていたら。
そもそも、誰も彼を探していなかった場合は?
「……このままじゃ、きっと、後悔する」
気が付いたときには苦々しいつぶやきが口からこぼれていた。「後悔?」
きょとんとしたエルダーは、しかし、それからすぐににっこりする。
「でも、後悔っていつかなくなるものなんだよね?」
「……え?」
確証でもあるような言い方だった。
「だって、君はもう、マジョラムのことを後悔していないでしょ?」
オレガノは絶句した。